僕と滑り込みセーフ。いやアウトなのかこれ?
ラシュは樽の中で膝を折りたたんでちょこんと座り、背中を樽の壁面にもたれかけさせるようにして寝ていた。
幸せそうな寝顔で、口からは涎がちょっぴり覗いている。耳を澄ますと、すよすよと安らかな寝息が聞こえてくる。
一緒になって樽の中を覗き込んでいたらっぴーと目が合う。
「どういう状況なんだ、これは」
「ぴぴぴぷ」
「ん?」
「ぴぇーぷ、ぴぴぴぷ」
「ふんふん」
「ぴぷっぷぴぴぴぇ!」
「ほうほう、それで?」
「ぷぴぴぴ、ぴぴぴっぴぇ」
「なるほど。まったくわからん」
「ぷぺ!? ぴぴぷぷーぴぷぷー」
適当に相槌を打っていたところ、らっぴーにぐさぐさと嘴を突きこまれた。どうやら機嫌を損ねたらしい。ええい突つくな。ごめんて。
ラシュはたぶん例のごとくいつものように昼寝しているんだろうなぁとは思うけれど、なんでわざわざそんなところに入って寝ているんだろう。狭くない?
それなりに綺麗な空の樽や木箱が、梯子で登ってくる屋根裏部屋にあるのも不自然だけれど、使用人たちもここにラシュやルナールが入り浸っているのはわかっているので、椅子兼遊び道具として運び入れてくれたのだろう。
「んん、……んー……?」
「起きたか」
薄っすらとあいた目が、何度かしぱしぱと瞬かれた。かと思ったらまた閉じたんだが。おい。
「んー。あとごねん……」
「寝過ぎだ」
10日寝てた僕でもびっくりの豪快な二度寝である。
本格的に寝直す姿勢だったので樽ごとゆさゆさ揺すっていると、ようやく観念したようだ。
ラシュはふあぁあ、と大あくびをひとつ。ぐぅっと伸びた腕は樽の縁に鈍い音を刻んだ。
「んん……なんでぼく、樽の中?」
「僕が知るわけないんだよな」
「あにうえさま、なんでもしってる」
「なんでもは知らないよ、知ってることだけな。ラシュがなんで樽の中にいたのかは本当に知らん」
「しょんぼり」
本当に知らないことだらけだぞ、僕は。"全知"の眼鏡が砕けてからは特にそうだ。
”全知”には随分助けられた。
今では何も乗っかってない鼻の頭を押し上げようとして指が空を切ったのも、一度や二度じゃない。今までいかにあれに頼ってきたかがわかろうというものだが、まあ、もともと借り物だった力だ。
失くして惜しくないわけじゃないけど、引き換えに守りたいものが守り通せたんだから、それ以上を望むのは贅沢だろう。
「んんーっ……! ふはぁ」
ラシュは樽から出てくると、もう一度大きく伸びをした。その拍子に持ち上がった服の裾からお臍がこっそり顔を出している。
彼がいま身につけている服は、麻仕立てで通気性の良い、簡素なシャツだ。工房をひらいて間もない頃に町で買ってきたものだろう。
その頃から考えるとラシュは随分と逞しくなった。
よく食べよく眠るので背も伸びたし、毎日木剣を振っている甲斐もあって腕や脚に筋肉もついてきた。近々新しい服を買ってやらないとな。軽い防具も用意して、魔道具の素材集めを兼ねてちょっとした冒険に繰り出すのもいいかもしれない。
目がさめて寝落ちる前のことを思い出してきたラシュいわく、ルナールはアーニャに連れ去られたという。
アーニャときたら、逃げようとするルナールを有無を言わせず捕縛してのけたとのことで、まさか風呂に入るという説明すらしていないとは思わなかった。説明しようとしても逃げただろうけどさ。
ルナールは滅多に人前に姿を表さない。この屋敷においては伝説の霊鳥よりも見かける頻度が少ないのだ。らっぴーはマイペースにいろんなところで日向ぼっこをしている姿を目撃できるので、比較対象として相応しいかどうかはさておくとしても。
ルナールもカイマン同様、『大激震』で浅くないダメージを負っていた。けれど彼女は治療のためでも僕の前に姿を現そうとしない。
仕方がないので薬湯で治療していこうと考えた僕は、準備を整え、アーニャにルナールを捕縛して風呂に入れるようにと頼んだのだ。
「てことは、そうか。ラシュはルナールが隠したんだな、樽に」
「なにがあってもぼくだけはぜったい守る、ってルナール言ってた」
「やたらと覚悟が重いのは流行ってるのか?」
ルナールしかり、リリィやカトレアしかり。
そういうよくわからないものを流行らせているのはたぶんシャロンなんだろうなぁ、という妙な確信がある。
ルナールとしては自分がアーニャを引きつけておくから、というつもりだったのだろうけど、アーニャの狙いは今回そもそもルナールだけだ。樽の中に隠れていたラシュは、待っている間にそのまま寝てしまった、と。
僕の目的だったらっぴーの卵は部屋に置いたままだということなので、ラシュと連れ立って屋根裏部屋をあとにした。
そうそう、僕らが貸し与えられているのは二階でも一番広いんじゃないだろうかという部屋で、これがどうにも領主様の部屋っぽいんだよな。どうりでベッドが大きいわけだよ。
そんなものをほいほい貸し与えないでもらいたいものだけれど、寝ている僕からシャロンたちが離れなかったからだろうなという予測もつく。大勢まとめて寝られるような大きなベッドはあそこしかなかったのだろう。
そんな事情で僕らは一番良い部屋を間借りしており、追い出された形になる元々の部屋の主、というか屋敷の主であるリーズナル卿は客室か使用人の部屋で寝起きしているのだろう。申し訳なさがすごい。まさか領主様の主寝室を奪ってるとは思わないじゃん。
と、そんなことを考えながら歩いていたせいだろうか。
「……あっ!?」
「うぉっ!?」
二階広間を横切る間際、階段を登ってきていた人影に気付くのが遅れてしまった。
”全知”の破片が溶けた右目が、普段はほとんど見えていないのも災いした。
階段を登ってきていたのはリジットで、あっちもあっちでぼーっとしていたらしい。上気した頬を見るに、長湯しすぎてのぼせたかな。
「ぅ……ぁ、」
驚いて見開かれた視線同士が交錯したのはまさに一瞬。ぶつかりそうになった彼女の細い体がバランスを崩して階段側へと倒れていく。まずい、落ちる!
「ッ――――――!」
咄嗟に、右眼に魔力を籠めた。
”全知”の権能の残滓がこの瞬間、限定的に力を取り戻す。
眼がもうひとつの心臓になったかのように熱を持ち、脈打つ。と、同時に床を蹴り僕も階下へと身を投げ出した。
僕のすぐ後ろで動く気配を見せたラシュは片手で制しておいた。人数が増えると余計に危ない。
大丈夫だ、間に合う。
痛みを予期してきゅっと目を瞑ったリジットが背中から落ちようとする中、僕は”念動”魔術を略式発動した。”全知”お得意の、術式の内容が理解ることによる無詠唱行使だ。
位置も範囲も大雑把なので落下速度を殺し切るまでは至らないが、僕の身体をリジットと階段の間に滑り込ませることには成功した。
「っ……く!」
リジットを抱きとめると同時に踊り場の床に背中を打ち付け、肺腑の中の空気を吐き出した。
けれど被害としてはそれくらいのものだ。”念動”によって落下の衝撃はほとんど相殺できたらしい。
右眼が燃え上がらんばかりに赤熱している痛みのほうがむしろ強いな。
っと、僕はいいとしてリジットは大丈夫だろうか。
「大丈夫か、リジット。……なあおい、リジット?」
湯上がりの簡素な服一枚で僕にのしかかる格好になっているリジットは、おそるおそる目をあけた。
自分の頭が僕の胸の上に乗っかっていることを直後には認識できなかったらしく、二度、三度と瞬きを繰り返す。
「どっか痛いところないか? なあ、リジットってば」
しっかりと抱きとめたつもりだったけれど、もしかして頭でもぶつけてしまっただろうか。
普通の左眼と”全知”の右眼、微妙に感覚のずれた視界の中で、少女の頬が真っ赤に熟れた果実のように紅潮していく。
「さ、」
「さ?」
「さこつ……」
リジットは顔を真っ赤にしてわずかに俯いたまま、なぜか僕の首まわりに指を這わせてきた。
……うん。しっかり間に合ったつもりだったけど、やっぱどっかおかしいかもわからんね。