僕と強い麦
今回の土曜日は72時間くらいありました! 大変でしたね!
…………いえ、その。大遅刻すみませんです、はい_(:3 」∠)_
ガムレル周辺には、麦と嫁は争うなかれ、という諺があるらしい。争い、力ずくで従わせてみたところで、本来の良さは発揮できないものの喩えだという。
「ここいらの麦に比べてこいつは随分とでかい。そのうえ頑丈だ」
そう語るのは僕らにゴルドーと名乗った男だ。彼はリーズナル邸の調理場における一切を任されているのだという。
カトレアの仕入れてきた麦は寒い地域で採れたものらしく、ガムレルで主に作られているものとは種類が違うらしい。
ここに集っていた使用人たちは例外なく食材の到来に湧いていたけれど、そのなかでもひときわ喜びを表していたうちのひとりがこの男だ。
知りうる限りの調理法を駆使しても『かろうじて食べられなくはない』程度にしかならない臭蕪によって料理人としての矜持をかなり傷つけられていたとみえ、挨拶の折には僕、カトレア、リリィの順で両手を握り深々と頭を下げてきたほどだ。
厨房と食料庫に集まっていた使用人や領主様は、『そろそろ仕事を再開いたしましょう。"働かぬ者に振る舞われるパンはない"。実に良い言葉でございます』という、メガネを掛けてキリッとしたメイドさんの一声によって我先にと持ち場へ飛んでいった。そりゃ、臭蕪祭りから一転、これだけの食材を前にしての『飯抜き』はある種の拷問だろう。
厨房に残されたのは、僕らの他にはここを持ち場とする数人の使用人たちであり、ゴルドーもそのひとりだった。
彼の手元には今、カトレアが仕入れてきた麦の穂が乗っかっている。彼の言葉を借りるなら、でかくて頑丈らしいが。ふむ。
「素人丸出しであれなんだけど、頑丈でもやっぱり麦は麦じゃないの?」
「麦は麦、たしかにそうなんだがなぁ。されど麦、だ。種類が違えば麦にも個性は出るもんなのさ。旦那も奥様方それぞれの性格によって対応を変えるだろう? そういう気遣いってやつが麦にも必要なんだな、これが」
僕の後ろに控えているであろうリリィとカトレアに目線を配りながら、ゴルドーはニカッと人好きのする笑みを浮かべてみせる。
わかるようなわからないような喩えだが、僕としては喩え話それそのものよりも、彼の言う『奥様方』にはいったい誰が含まれているのかのほうが気になるところだ。
もし仮に、シャロンの姉として紹介したリリィとカトレアまでもがその範囲に入っているのだとすれば、美人姉妹をまとめて手篭めにする好色野郎の誹りを免れない気がする。アーニャたちのことを指してこれまでもひそひそ言われていた獣人趣味まで足せば、もしかしたら女とみたら見境なしとか思われている可能性さえある。
僕はもともと風聞とかはさほど気にしないほうだし、言いたいやつは好きに言わせておけばいいと思っている。
どれだけ清廉潔白に生きていようとやっかむやつは必ずいる、と言ったのは妖精亭の店主だったか。
けれども今は居候させてもらっている身の上だ。余計な風説は家主であるリーズナル卿にも好ましいものではないだろうし、打ち消しておいたほうがいいかもしれないな。
「あー、その、なんだ。こいつらは嫁とかそういうのじゃないぞ」
「なんだ、そうなのか?」
「ああ」
実態はどうあれアーニャやアーシャは時折冗談めかして僕の嫁だと言い張っていることがあるので一旦置いておくとしても、リリィやカトレアは明確に違うだろう。
彼女らは僕のことを『主』と呼んだりするが、彼女らの指揮命令権を持っているのはシャロンなので、正確には主ですらない。じゃあどういう関係性かと聞かれると答えに窮する。嫁の姉たち、というのが名実ともにやっぱり妥当なところか。
「不服。ぶーぶー」
「おやめなさいカトレア。我々は都合の良い女。それでいいでしょう。主のお側に置いてもらえるだけありがたいと理解なさい」
「おいやめろ。わかりにくい冗談を言うな。ゴルドーが信じちゃうだろ」
「申し訳ございません。冗談です。今申し上げたことはどうぞお忘れください。そういうことになりましたので」
「その受け答えは火に油を注いでる気がするんだけど、わざとだな? わざとなんだなリリィ?」
ゴルドーは『うっそマジで!?』みたいな表情で視線を僕とリリィたちに交互に彷徨わせているし、彼だけでなく、小間使いとして厨房に残されたメイドさんたちが視界の端ですっごいひそひそしている。これ、きっと凄い速度で噂が駆け巡るんだろうなぁ……と少しばかりげんなりする。
リリィたちは何が不満なんだ? 仲間はずれにされたように感じたのだろうか。
「それで、えー、麦の話だったよな。麦が頑丈だと何が困るんだ?」
「あ、ああ。えーっと、麦、麦な、うん」
「そう、麦」
露骨に話を逸らした僕をちらちらと見やるゴルドーは、麦よりも美人の口走った衝撃発言のほうが気になって仕方がないようだったけれど、重ねて促してようやく再び麦に向き直った。
まったく、誰だよ変な方向に話を逸らしたのは。あ、僕か。
「麦はこのまま食べるわけじゃないのは知ってるよな」
「いくら素人でもそりゃあな。粉にして、パンを焼いたり粥にして食べるものでしょ」
お金に余裕がない家庭の場合、たいていは粥だ。食料の少なくなる冬場なんかには粥というよりも、ほとんど白湯と表したほうがいいくらいの液面にいくらかの豆が浮いていたりする。
何年か前に嵐による凶作に見舞われた年、何日かそんな食事だったことがあるけれど、あれはツラかった。
「ああそうだ。その製粉が問題なんだ」
僕の答えにゴルドーは頷く。
刈り入れをして干した麦穂は保存に適した状態で、彼のいう製粉の工程を経て粉状になる。
粉に加工すると湿気ってしまって日持ちせず、鼠や虫にも食われやすくなるので、毎日その日に食べる分だけ製粉するのが一般的だ。
「この製粉ってやつは粉砕と分離ってのに分けられるんだが――これは試してみせたほうが早いか。どれ」
ゴルドーはいくつかの麦穂を掴み、厨房の端に備えられた筒の中に入れた。石臼だ。触ったことはないが、見たことは何度かある。
上部の取っ手をぐるりと回し、上面の石と下面の石の境目に挟まれた麦を挽き、粉にしていく。あとは上下の石の隙間から出てきた粉を集めればいい。そのはずなんだけど。
「粉が、出てこない?」
「やはりこうなったか」
ゴルドーには半ば予測できていた事態らしい。難しい顔をして、唸る。
石臼を回す手を止めたゴルドーが上の石をどかすと、いくつものみぞが刻まれた下の石が顕になった。
それらのみぞには、回転する石と石の間に挟まれて原型を留めていない麦の残骸が遺されている。そのうちのひとつを彼は摘み上げ、僕の手のひらに置いた。
「無惨。麦だったもの」
「変わり果てた姿ですね」
カトレアとリリィも僕の手の中を覗き込んでくる。そう言いたい気持ちもわかるが、この無惨な変わり果てた姿の麦もただ捨てられるわけじゃなく、鳥の餌として有効活用されるんだぞ。その鳥が生む卵は貴重な食料だ。
まあ、鳥の餌としての有効活用はできても、人の食べるべき部位が見当たらないのが目下の問題で、
「――あ。これ、もしかして粉として出てきてほしい部分まで残骸と一緒になってる?」
「ああ、その通り。『麦と嫁は争うなかれ』ってのはさっき言った通りなんだがな。石臼に掘ってある溝やら何やらはこのあたりの麦に合わせたものになってる。力ずくで無理くり粉にしちまおうったって、うまくいきやしねぇもんなんだ」
ある程度大きさや硬さが似通っているものならなんとかなることがあっても、見るからに差異があるほどだと臼でうまく粉砕できないってことか。
「そもそもこういう頑丈な麦はどっちかっつうと粉にするより、まとめて潰して麦酒の材料に使われることも多い。麦の穂ってのは麦にとっての鎧であり服だからな。肌を傷つけないようにそっと脱がしてやらないと、簡単にそっぽ向かれちまうんだよ。こんなふうにな」
「なるほどな。中身に傷をつけないようにしながら、適切な力加減で頑丈な外皮を剥ぎ取らないといといけないってことか。こんなふうに」
「そうそう、こんなふうに――…………は?」
ゴルドーは目を真ん丸に見開いた。
「白い。驚きの白さだ」
僕の手のひらの上で無残にもぐちゃぐちゃになった麦穂と、その中から"剥がし"て取り出した白い粒が一瞬目を離した隙に綺麗に分離されているのだから、多少驚くのも無理はない。どうだ見たか。
もちろん僕の得意技、"剥離"魔術によるものだ。けれど、これがなかなか難しい。
やってみてわかったが、外皮はゴルドーの言うとおりに頑丈で、そのうえさらに強力な粘りけがある。
そして丈夫な殻を突破した内側も、もう一段階の薄いまくのようなもので覆われていた。
これらを剥がすのは小さすぎて手作業は無理だし、仮にできても量の問題で現実的じゃない。
臼で外殻がずたずたに引き裂かれていたために、まだしも"剥がし"やすかった。しかしすべてを魔術で賄おうと思ったら、強い外殻を砕くのと、内側の柔い膜を剥ぎ取るのを同時にやらねばならない。
"全知"の眼鏡を失ったいま、多重詠唱をやるのは大変だ。
普段はほとんど見えていない僕の右眼には、今も"全知"の力が宿っている。これを使えばやってやれないことはないけれど、こいつの発動中は目が燃え上がらんばかりに熱を持つので、細かい作業を長時間やるにはやっぱり向かない。
でも。せっかくカトレアが仕入れてきてくれた麦だ。あいも変わらずの無表情だけれど、さっきはなんとなく得意げな雰囲気を纏っていたような気もする。どうせなら皆の口に入って喜ばれるところまで見届けさせてやりたい。
「翻意? 主がどうしてもというなら伴侶となるのも吝かでない」
「少し振り向いただけでその解釈はちょっとどうなんだ」
嫁とかじゃない発言をまだ引きずっているらしいカトレアはひとまずそっとしておくとしても、ゴルドーをはじめ、リーズナル邸の面々の喜びも記憶に新しい。彼らの期待をふいにしたくないのもある。
「うーん。どうしたものかな」
臼では挽けない。
多重詠唱では負荷が重い。
新しい魔道具を作ろうにもアーシャから『めっ!』をされたばかりだ。けっこうガチめに。
だからといって諦めるのも癪だ。
「あ、そうか」
その時、ふと閃いた!
このアイデアは魔力の微細なコントロールのトレーニングに活かせるかもしれない!
「お、なにか考えついたって顔だな?」
「ああ。一度に製粉するのが難しいなら、一度に製粉しなきゃいい」
ニカッと笑みを向けてくるゴルドーに、僕もまた同種の笑みを返した。