湯けむり嫁会合 ふぁいなる
至極当たり前の話かもしれないが、この世界における風呂とは本来は頭まで潜るものではない。
短時間でもそれなりに効果のある薬湯だが、しっかりと効果を発揮するためにはある程度長時間浸かっているのが望ましい。オスカーからの指示に忠実に、リーズナル家の使用人たちは湯の温度を普段より温めに保っている。
それでも、湯冷めしない程度には熱い温度であり、そんな湯の中にぶくぶくぶくと沈没し続けていればどうなるか。答えは簡単。のぼせるのだ。
「なによぅ。おっぱいがなによぅ。ぐすっ」
「大丈夫なの。ここにはこわいおっぱいはもういないの、よしよし」
「うぅ〜、アーシャぁ……!」
「よしよしなの」
湯舟の端っこに腰掛けて、少しのぼせてしまったリジットが、ひしっ! と抱きついてくるので、アーシャはやや困ったように眉をへにょりと折り曲げた。
火照った素肌同士が触れ合って少しばかり変な感じだ。落ち着くのなら抱きついてても構わないけれど、濡れた尻尾をすんすん吸うのは、実はちょっとやめてほしい。
へこんだときに抱きついてくる反応は、お風呂に入る少し前にもセルシラーナで味わったばかりだ。似たもの主従だなぁとアーシャは思う。
けれど、酔った時の姉もこんな感じでひっついてくるし、たまにシャロンにも抱きかかえられて膝に乗せられたりしている。メイド隊のルゥナーにむぎゅうっと捕まって撫で撫でされたのも一度や二度ではない。実際はリジットたちが似たもの主従というより、小柄で抱きかかえやすく、体温が高くふかふかで、その上落ち着いており抱擁力のあるアーシャの人徳のなせる業だったりする。
少しばかり離れた湯の中では、まとめて『こわいおっぱい』呼ばわりされたアーニャやセルシラーナが何とも言えない表情でしょんぼりしているし、その様子を見てルナールはケタケタと声を立てて笑った。
リジットはのぼせたと言っても、湯に付与された癒やしの効果も健在なため、べつに深刻なことにはなっていない。上気して赤らんだ頬と、少しぼやっとした思考はどちらかといえばアルコールの作用による『ほろ酔い』に近い。なんだかふわふわするような、まだ覚醒しきらないまどろみの中のような、浮き足立つような。そんな不思議な感覚。
「ねー。アーシャは、その。あのね」
「なーに?」
普段に比べると、ぼやーっとした口調でリジットは言葉を声に乗せる。
アーシャはといえば、リジットの髪を洗っていた。濡れたまま放っておいては傷んでしまうし、もともと自分の髪も洗うつもりでいたので、そのついでだ。
「アーシャは、その。彼のお嫁さん、なのよね。アーニャも」
「うん。ラシュもそうなの」
その問いをアーシャはもちろん肯定する。ルナールがなぜか「んなっ!?」と驚愕の声を上げ、その拍子に足を滑らせたらしく盛大に水飛沫が上がる。
「あの、えーっとね」
座ったままもじもじと内股を摺り合わせるリジット。
気恥ずかしそうに俯いてもにょもにょ言っているので、アーシャはこてん、と小首を傾げる。いったい何を聞きたいのだろう。
「どこまでいったの? その、彼と」
「オスカーさまと?」
こくりと小さく頷くリジット。
黒く艷やかな髪をざばぁっと流しながら、アーシャは「んー?」と唇に指をあて、わずかに悩む。
『おんせん』というのは行ったことがある。『うみ』も見た。でもそれらは一度だけで、この町に来てからは町中での買い物や、せいぜい森くらいにしか行っていない。それと羊を見に行ったことがあったっけ。あ、そういえば。
「お祭りにいったの。花祭り」
「えと、そういうのじゃなく」
「はいはーい! ウチは怪しいクスリ売りの本拠地潰しに行ったりしたで!」
「そういうのでもなく」
どこまでいったという質問にリジットが『どういうの』を求めているのかはわからないが、少なくとも思うような答えではなかったらしい。アーニャと顔を見合わせて、アーシャは再びこてん、と首を傾げた。
「コイバナ!! あのリジットがコイバナをしてるのです!!」
「珍しいんですか?」
洋の東西を問わず、年頃の娘たちがひとところに集まってする話の種類などそう多いものではない。それが男たちの目の届かない場ならばなおのこと。
いわゆる『よくある話題』だが、セルシラーナは瞠目して驚きの声をあげた。
なんなら衆人環視の中でさえ、心ゆくまで『オスカーさんらぶ!』を騒げるシャロンにとってはいまいち驚きポイントがわからない。
「珍しいなんてもんじゃあないのですよ。まさに聖鳥の群れを見た気分なのです。学徒時代にさえ浮いた話もなく、縁談も『私より強い人でないとお断りだわ』なんて言って切って切って斬り捨てまくったせいで新人騎士には怯えられ、サー・ガラティンには大爆笑されて、しまいには質実剛健の堅物すぎて畏怖と揶揄から『鋼鉄』と渾名された、あのリジットが! コイバナを! しかも自分から進んでするだなんて!!」
「団長が大爆笑してるのはよくあることですよ……むぅ〜」
セルシラーナが鼻息荒く捲し立てるので、リジットは頬をぷくぅと膨らせた。
ちなみに"ラピッドクルスを見たような"という言い回しは、珍しいもの、珍妙なものを見たときに使うシンドリヒト方面での慣用表現であるらしい。その群れを見たくらいというのであれば、あり得ないほどに珍しい事態だと言いたいのだろう。
そういえばラシュの頭によじ登ろうとするらっぴーを見て、セルシラーナが驚愕に口をぱくぱくさせていたっけ、とアーシャはその光景をぼんやりと思い出す。
「わかる。わかるでリジにゃん。強い雄の子が産みたいって気持ち、ウチにはよぉわかる! カーくんの容赦ない強さ見てウチもビビビッて来たもん。こら間違いない! って」
「子っ、産みっ……!? そこまでの、あの、その、っていうかそもそも私っ、オスカーのことそんな目で見てないっていうか、あの」
「あにゃ? 違たん?」
「や、その、でもべつに嫌いってわけじゃなくて、あの。ね、そういうのじゃなくって。そういうのじゃなくってぇ……!」
直截的すぎるアーニャの発言に触発され、のぼせた頭が一瞬思い描いた『我が子を腕に抱いて幸せそうに彼に微笑みかける自分』を掻き消すためにリジットはわたわたと手を振り回す。
「ちがっ! ちがうんだからぁっ!」
アーニャにからかったつもりはなかったのだろうけれど、リジットの頬は完熟のヒュリの果実もかくやというほどに真っ赤になっている。
すっごく生暖かい、ひたすらニヤニヤしている主君と正妻の視線まで気にかける余裕なんてない。これっぽっちも。
彼女らの愉悦の表情を見る限り、嬉し恥ずかしに頬を染める乙女を鑑賞するのはきっと健康にいいのだろう。
「アーシャさんも彼の『強さ』に惹かれたのですか?」
完全に茹で上がってしまったリジットに代わり、恋バナの次なる標的を求める愉悦勢が話を振る先は、さきほどから落ち着き払っているアーシャだった。
まあ、アーニャは今聞いたところだし、シャロンに話を振ったら好きなだけ惚気倒されるだけなのは明白だ。妥当な人選といえるだろう。が、当のアーシャは「ううん、そんなことはないなの」と柔和な微笑みを崩さずにふるふると首を振るに留まった。
あれぇ、おかしいのです、とセルシラーナは内心首を傾げる。
『姫』として王宮で生きてきた経験上、人の顔色を読むことにかけてはそれなりに自信がある。
アーシャは世話焼きな良い子だ。小さな体で屋敷をぱたぱたと歩き回り、率先してあれこれ手伝っているのを、この数日の生活だけで何度も目撃している。いまも甲斐甲斐しくリュカに持ってきてもらった香油をリジットの髪に丁寧に伸ばしているし、さっきセルシラーナ自身が助けを求めたときに颯爽と現れて、醜悪な虫をぺいっと捨ててくれたのもアーシャだった。
たまに困った顔はする(例外は臭蕪を食べるときで、完全に無表情になるのでちょっと怖い)ものの、基本的ににこやかなアーシャ。けれど、セルシラーナにはわかる。彼に世話を焼いているときの彼女は特別だと。
表情はそう変わらないのだけれど、なんというか、視線に籠もっている慈しみが深いのだ。恋する女の子特有の力を感じるのだ。ひしひしと。
というか、もっとわかりやすい部分で言えば彼女の尻尾が彼の手や足に巻きついていることがよくある。
だから、彼の話を振ったのにここまでスンッとした反応が返ってくるのは予想外だったのだ。照れ照れと赤らんだ可愛い顔が拝めると思ったのに。
「じゃあどういうところが好きなのですか?」
なので、追撃をしてみたところ。
アーシャはリジットの髪を梳く手を止めて、「んー」と少し考える素振りをみせ、
「優しいところ」
と短く答えた。
表情もとくに変わっていないので、やっぱり拍子抜けしてしまうセルシラーナの耳に、スゥッと。大きな息継ぎの音が。
「ほっとけないところ。いつも、おいしい、おいしいって喜んで食べてくれるところ。おかわりを頼むのがちょっと恥ずかしそうなところ。すぐ夢中になってまわりが見えなくなっちゃうところ。作るのが好きで作ったあとはわりとどうでもよくなっちゃうところ。『みけん』のしわをぐってする仕草。すぐ散らかしちゃって申し訳なさそうにアーシャのことちらっと見るところ。らっぴーの真似があんまり似てないところ。ちょっとおしゃれしてみたら気付いてくれて、でもどう褒めたらいいかわからなくてちょっと考え込んじゃうところ。でもちゃんとかわいいって言ってくれるところ。歩くはやさを合わせてくれるところ。とってもかしこいのにこどもっぽいところ。いろんなことを教えてくれるところ。楽するために全力を出しちゃうところ。キャラが薄いのを気にしてるところ。変なところで茶目っけを出そうとしちゃうところ」
表情はあまり変わらず、楽しげにほにゃりと微笑んだままなのだけれど、溢れ出した『好きなところ』が止まらない。セルシラーナの目も思わず点になる。
シャロンはうんうんと大きく頷き、ルナールは珍獣を見るような目を向けている。
アーニャやシャロンは知っている。あけすけな好意を表明する彼女らと違って、わざわざ普段から表に出さないだけで、このちいさい妹分は自分たちに勝るとも劣らない『オスカーらぶ』勢であることを。
真っ赤になっていたリジットは突然背後から濁流のように浴びせられた言葉に「え? え?」と挙動不審になった。
「作ったものを見せてくれるときの楽しそうな顔がすき。においがすき。心臓の優しい音がすき。撫でてくれるあったかい指がすき。それと、アーシャたちのこと大好きなところも好き。あと、鎖骨」
「さ、さこつ?」
「ここなの」
「ぇ、――ふゎ、ひゃあんっ!?」
ようやく一段落したところで、耳慣れない単語を復唱してしまったリジットを、後ろからきゅっと抱くようにしてアーシャは鎖骨をつつつっと指でなぞる。
「手の甲にちょっとだけ浮き出る血管もいいですよね」
「わかるなの。腕の日焼けあとも捨てがたいなの」
「太もものがっちりした筋肉もええよね」
「あ、それなら左腕にある少し古い傷痕も」
「話せるじゃないですか、リジットさん。あの傷はですね、アーニャさんに初めて出会ったあと――」
アーシャに『鎖骨』を教えたシャロンが追随し、あれよあれよという間に恋する少女たちがきゃいきゃいとはしゃぎ、置いていかれたセルシラーナは『ちょっとこの空気、どうにかならないのです?』と視線で訴えかけ、『知らぬ。発端となったぬしがなんとかせよ』とルナールにすげなく断られ。
それをさらに外から眺めるリュカは、『あらあら、うふふ』と少女たちが久しぶりのお風呂を満喫するさまに笑みを浮かべた。
ちなみに。シャロン以外はもれなくのぼせた。