湯けむり嫁会合 そのに
「ふあぁぁ! ぴっかぴかなの!」
「これはぴかぴかというか、もはや新築というかなんというか」
アーシャたちを出迎えたのは、すみずみまで完璧に磨き上げられた浴室だった。
白い石の床は曇りなく光と水を弾き、壁のレンガにもカビひとつ生えていない。新品同様の輝きを放っている。綺麗だ。いや、綺麗すぎる。不自然なほどに。
「私、知ってるわ。こういうのってだいたいオスカー絡みなのよ」
「ご名答にございます」
リジットもいい加減、オスカーのしでかすことに慣れてきたらしい。
カイマンあたりが聞けば『慣れてきた頃が一番危ない。彼はその斜め上をきりもみ回転しながら吹っ飛んでいく』と遠い目をしそうだけれど、今は淑女の入浴時間だ。当然、リジットの推測に応えたのもカイマンではない。そもそも彼はまだベッドの上で絶対安静の身だけれど。
「リュカさん! こんにちは、なの」
「ごきげんよう、アーシャ様。セルシラーナ様、リジット様にご挨拶させていただくのは初めてでございますね。リュカと申します。本日の湯女を務めさせていただいておりますので、なんなりとお申し付けくださいませ」
浴室の隅に佇むメイド隊のリュカは、丁寧な所作で一礼した。
湯女は、風呂におけるいわば小間使い的な存在だ。湯加減を外の湯沸かし担当に伝えたり、湯に浮いたゴミを除去したり、求められれば髪を洗ったりマッサージといったサービスを提供する。
濡れてもいいように薄い服をまとっている。そのため体の凹凸がはっきりとわかり、少しばかり気を取り直しかけていたリジットが再び遠い目をする。ちょっとばかり涙がにじむのは、ぴっかぴかの床石が眩しいせいだ。そうに違いない。
この、過剰なほどに磨き上げられた風呂場は、リジットの推測の通りオスカーが頑張っちゃった産物だ。
アーシャから『めっ!』をされ、素材供給を断たれた彼が手持ち無沙汰に風呂掃除に参入し、得意の”剥離”を披露しまくった結果である。やっているうちについつい楽しくなってしまったのだ。床石が驚きの白さを取り戻すたび、使用人たちが歓声をあげるので。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
にこやかにリュカが促した先、一度にゆうに20人は入れそうな広い湯舟には、たっぷりのお湯が湛えられている。
少しばかりぬめりけのある乳白色。吸い込んだ湯けむりは薬草が優しく香る。
リュカが半壊した庭園から生きている薬草を探し出し、そこへさらにオスカーが各種回復効果を付与した薬湯だ。
「はふぅ〜〜〜。ごくらく、ごくらくなのですぅ〜〜」
「姫様、沈んでます、沈んでます!」
ちゃぽん、と湯に浸かるや否やセルシラーナは陥落した。まさに瞬殺だ。
水に浸からないようにまとめた髪を気にしながら、リジットはでろれんとだらけきっている主がそれ以上沈んでいかないよう食い止める。
でも、たしかに気持ち良い。姫様がこんなになっちゃう気もわかるな、と深く息を吐いた。
まるで疲れという疲れが白く濁ったお湯の中に溶け出していくかのようだ。心の奥底に澱のように固まっていた辛い記憶さえも、柔らかくほぐれていくような。
「……これも、オスカーの仕業ね」
「まちがいないのです〜〜」
「なのなの〜」
リジットの唇から落ちた呟きに肯定が重なった。
ひさしぶりの広いお風呂を満喫する少女たちの表情は、完全に緩みきっている。
しなやかな肢体でざぶざぶお湯をかきわけてやってきたシャロンがすぐ側に腰を下ろした。
「疲労回復と、魂を修復する術式が編まれているらしいですよ」
「つまりルナールのため、というわけね」
「そういうことです」
ルナールは、『大激震』の攻防における影の立役者のひとりだ。
彼女が封印の祭壇の再封印を成さなければ、オスカーとシャロンが厄神龍を討ったとしても、最終的に人類は敗北していただろう。
「くらえっ! くらうがよいっ!」
「にゃーっはははははー! 遅い遅いおそぶっっっ!!?」
「ざまぁないのじゃ! ふべっ!?」
そのルナールはいま、アーニャと本気でお湯を掛け合って、ずぶ濡れのべしょべしょになっている。水を吸った長い髪はかなり重そうだ。
もとは一面に実った麦穂のように豊かな黄金色だった髪は、まばらに色彩を失っている。再封印の際に『災厄』の侵食を受けた後遺症だった。
ルナールは魔力を扱う因子が少ない獣人の中でも、輪をかけて魔力を持っていない。魔力を食らって侵食する『災厄』の影響を最小限に食い止めながら再封印ができたのは、彼女の特性があってこそだ。
ただし、最小限とはいえ少しも侵食を受けなかったわけでもない。
目に見えるところでは髪に影響が出ているが、見えない部分への影響も深刻で、ふいに息もできないほどの激痛が走る。放っておいて良い状態では絶対にない。
けれど、ただでさえ人間への不信感を強めているルナールが、大人しくオスカーの治療を受けるはずもない。そのための策としての薬湯だ。
使い捨てられる風呂の湯に豪華な魔術付与が施されているのは、魂に干渉し、体を芯から蝕む『災厄』の魔力の侵食を解呪するためだったのだ。
「もはやなんでもアリね。一体どこに行こうとしているのよ、オスカーは」
「むしろあなたたちがどこに行ったのかと思いましたよ。なかなか入ってこないんですから。せっかくのお風呂回ですよ?」
「お風呂回? なのです?」
「はい。お色気肌色成分をお手軽補給できる、お風呂回です!」
拳を握りしめ、シャロンがざばぁっ! と立ち上がったので、思わずリジットはごくりと唾を飲んだ。
濡れた長い金の髪から落ちた水滴が、白く輝かんばかりの肌からおへそへと伝っていく。
その肌には明るい浴室内でさえ傷一つ見当たらない。均整のとれたしなやかな肢体に、形の良い胸。小さな顔に、蒼穹を思わせる大きな瞳。腰のくびれにかけての曲線には衝動的に指を這わせたくなるほどのなめらかさ。
神が作ったと聞かされたらそのまま納得してしまいそうなほどの、同性でも思わずドキリとしてしまう造形美が、そこにはあって。
目を見開いて見惚れてしまっていたことに気付いたリジットがやや赤面しつつ顔を逸らすなか、そんなことは知ったこっちゃないシャロンは実に堂々と偏った知識を披露する。
「なにかの特典だったりすることもありますが、やけにキワどいアングルだったり滑って転んでこれまた際どい姿勢になったりしつつも、水飛沫や湯気が肝心なところを頑張って隠してくれる、あのお風呂回ですよ!」
「は、はぁ。そう、なのですね?」
「オスカーさんは今なぜか厨房にいらっしゃるみたいですが、このあときっと小麦粉が爆発するとか果物の汁が飛び散るとかして全身べとべとになってしまい、お風呂でばったり遭遇みたいな展開になるんですよきっと。私は詳しいんです。フラグが! フラグが立った!」
「えっと、それはよかった、のです?」
「オスカーが来るの!? ここに!? そんな、こ、困るっ……!」
黙っていれば誰もが女神と見紛う容姿でありながら、胡乱な与太話を熱弁する様は、いつも通りにシャロっシャロだ。
これがシャロンの通常運転だと知るアーシャにとっては見慣れた光景ではあるのだけれど、まだ再会から日が浅いセルシラーナは面くらい、リジットはもにょもにょと狼狽えて勢いよく口元まで湯に沈んだ。ついでに、いつぞや学術都市シヴールを目指していた道中の薄暗い洞窟で、すでに彼に裸を見られていることを思い出し、耳まで真っ赤になってぶくぶくぶくと泡を吐き出している。恥じらいモード全開である。
「こういう時のシャロちゃんはあんま気にせんでもろて――ってありゃ? リジにゃん? おーい、どしたん」
「たぶん今のはアーニャさんのそれがトドメだと思うのです」
半ばムキになっていたルナールとの水の掛け合いが一段落したらしい。
やや苦笑いしながらアーニャまで近付いてきて、ついにリジットは頭まで沈んでしまった。ぶくぶくぶく、と上がってくる泡が弾けて消える。
セルシラーナの視線を追って、沈んでいるリジット以外の全員の視線がアーニャの顔よりやや下に注がれる。白い湯を押しのける、褐色の巨大な双峰へと。
「わたくしも結構大きい自信があったのですが、さすがに驚愕なのですよ」
おそるおそる伸ばされたセルシラーナの手のひらがアーニャの右のそれをもにっと持ち上げ、
「何食べたらこんなことになるんでしょうね」
唇をかわいらしく「むぅっ」と尖らせたシャロンの手のひらが左のそれをもにもにと揉みしだく。
「んっ……! ちょぉ、こそばいんやけど! んんっ、もぉ〜。それにこれ、けっこう邪魔なんよ? 重いし揺れて痛いし汗かくし」
「あ〜、それはちょっとわかるのです。暑い時期はとくに汗が……。人前で拭うわけにもいかなくて困るのです」
「ほっといたら痒なるしにゃあ。服着ぃひんかったらマシになるで」
「姫はそういうわけにもいかないのですよぅ」
完全に『持てる者たち』の会話にシャロンはジト目を向け、リジットは一度息継ぎをしてから再びぶくぶく潜航していった。アーシャはもう完全に別世界の話と割り切っているようでぱしゃぱしゃとお風呂を楽しんでいる。ちなみに浴室の隅に控えたままうんうんと頷いているリュカは『持てる者』側であるらしい。
「そういえば」
アーニャの胸をもにもにしたまま、ふと気付いた様子でセルシラーナは小首をかしげる。今度の目線は、揉まれ続けている部位よりもやや上の。
「アーニャさんのそれは、外れないのですか?」
「ん? おー、ほんまや。忘れとった」
アーシャが自分の首輪を外して丁寧に置いてきたところを見ていたセルシラーナにとって、純粋な疑問だったのだろう。
言ってから、「聞いちゃ駄目なことだったらどうしよう」と少しばかり瞳を揺らしかけたセルシラーナの杞憂は、アーニャの後ろ手に回した手が、カチリという小さな音とともに首輪を外したことですぐに解消された。
「お預かりします」
「ん、ありがとーねー」
ぺこりと一礼して、外したばかりの首輪を受け取ったリュカの背中を見送ってアーニャが手をひらひらとさせる。
その様子を、少し離れた位置からじぃっと見つめていたルナールは、
「ほんとに、簡単に外せるんじゃな……」
ひとり小さく呟いて。
薬湯の効果で少しばかり薄まった首の傷跡を、指でそっとさすった。