湯けむり嫁会合 そのいち
「もう逃げぬ、逃げぬから離すのじゃ! 自分で入る! 自分で入れるのじゃ!」
「にゃあっはっはははははーーー! いっくでぇえええーーー!」
「聞けというに! ぁあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あぁーーーーーー……!!」
よく響くルナールの断末魔を追うように、ざっぱーん! と大きな水音が上がった。
「……。アーニャはいつでも元気いっぱいね」
ぎゃあぎゃあばしゃばしゃと響いてくる騒ぐ声にリジットは苦笑いする。
浴室と脱衣所は空間が隔てられているものの、扉があるわけでもない。中の喧騒は丸聞こえだ。仮に扉があったとしても十分聞こえるくらいの大騒ぎではあるけれど。
「静かなのがあまり想像つかないのです。寝てるときくらい?」
「それが、お姉ちゃん、寝ててもたまに大笑いして動き回ってるの」
「なにそれこわいのです」
床に散乱する脱ぎ散らかされたアーニャの服と、適当に剥ぎ取られたと思しきルナールの服を拾い集めるアーシャ。それらをきちんと揃えられたシャロンの服の隣に畳みながら、こともなげに姉の寝相の悪さをバラすので、セルシラーナは若干狼狽えた。
ちなみにそういうアーシャ自身も寝ている間は抱きつき癖があるので、あんまり寝相が良いほうではなかったりする。
そんな姉たちに全く動じることもなく、一度寝たら朝までぐっすりなラシュは、ある意味で大物の風格を持っていると言えるかもしれない。
リーズナル邸の浴場に娘たちがこぞって集っているのは、もちろん風呂に入るためだ。
ちなみにこの時代の技術水準では、風呂には結構な労力やお金、もしくはその両方が必要だ。
井戸から湯舟を満たす量の水を汲み上げて運んでくるのも重労働だし、湯を沸かす燃料代も馬鹿にならない。
そもそも、世間一般的な民家に風呂はない。
彼らは汚れに耐えきれなくなる頃に大衆浴場へ赴き、溜まったニオイや汚れを洗い落とす。
そうでない日は川で水浴びでもするか、さもなければ濡らした布で体を拭いておしまいだ。風呂は贅沢品なのだ。
それなりに豊かな領地を持つ貴族なだけあって、リーズナル邸の備える湯殿はたいそう立派なものだ。
それでもいつぞやオスカーが工房の屋上に作ったような、魔道具で水を用意し湯を沸かすようなとんでもない設備があるわけではない。というかそんなものは王宮にだって無い。かわりに王族は温泉地に湯治用の別宅を構えていたりするのだけれど。
アーニャたちが当時、魔道湯沸かし機構に対してとくに疑問を抱かなかったのは、人里離れた野山で暮らしていた彼女らが市井の『普通』を知らなかったからに過ぎない。
入りたいときに好きなように風呂に入れるというのは、とんでもなく贅沢なことなのだ。
「ひさしぶりのお風呂なのです」
「上機嫌ですね、姫様」
いちおう高貴な身分であるセルシラーナも、今は居候させてもらっている身の上だ。
わざわざ風呂の時間を分けてもらうような我儘を言うつもりもない。
今のリーズナル家の財政が火の車なのは、居候している面々も薄々は察している。
オスカーが言うところの『食べられる虚無』である臭蕪を、家主までもが朝夕毎食、感情の抜け落ちた顔で黙々と腹に押し込んでいるのだから、そりゃまあ気付く。
カトレアが仕入れから戻ったことで食糧事情改善の兆しが見え、毎食臭蕪縛りから解放されるかもしれない、ということで瞳に生気が宿ったリーズナル家一同が、『せめてこれくらいは!』と大急ぎで風呂の支度を整えてくれたのだ。
メイドや使用人たちが水を汲み薪を割り、今も火の番をして温度調節をしてくれている。
その労力を最小に抑えるため、なるべく短時間にまとまっての入浴に異を唱える者はいなかった。一名ほど逃げ出して捕縛された者はいたけれど、今はアーニャに水を掛けて返り討ちに遭っている音が響いている。
「こんなに賑やかなお風呂は初めてなのです」
リジットが指摘するようにセルシラーナは上機嫌だ。声がわずかに弾んでいる。それを隠す気もなければ、その必要もない。なんて素晴らしいのだろう。
だいたいいつも曖昧に微笑んでいるのが姫としての努めだったので、感情を表に出しても窘められないというのは存外に心地よい。
セルシラーナにとって同年代の娘たちと親密に接する機会など、これまでほとんどなかった。
王侯貴族ともなれば、立場があり、発言や立ち居振る舞いにはどうしても責任がつきまとう。不快感を表情に出せばそれは圧力となり、みだりに喜びを出してしまうと王家に取り入りたい者たちの攻防に巻き込まれる。
お茶会や夜会での人脈構築や胃の痛くなるような牽制やらの経験はあれど、このような気を使わなくていい同年代の付き合いなんてほとんど初めてだ。しかも裸の付き合いなんて。
もともとお風呂自体が好きなことに加え、そういったわくわくどきどきする気持ちが、鎌虫によって蹂躙されていた彼女の気持ちを楽しくさせていた。
ひさしぶりのお風呂を楽しみにしていたのは、なにもセルシラーナだけではない。
「ふんふんふふ〜ん」
実はアーシャもけっこうお風呂が好きだ。思わず鼻唄をこぼすくらいには。
もともと髪や尻尾が濡れるのはあまり好きではなかったのだけれど、それもすでに過去のこと。
お風呂あがりにオスカーの膝の上にちょこんと腰掛けると、彼は得意の魔術ですぱーんと水気を弾き飛ばし、ふわっふわに乾かしてくれる。そのまま背中を預けて、少しばかり甘えてみたりするのが至福の時間だったりする。たまに頭をぐりぐりこすりつけていたずらをしてみたり。
「ふんふふ〜ん。……えっへへ」
つまりは風呂が好きというより『その後』のひとときがお目当てなのだけれど、そのことに大した違いはあるまい。
髪留め紐をほどき、しゅるしゅると絹擦れの音を立てて、纏っていた服を一枚いちまい丁寧に畳む。最後にぴかぴかに磨き上げた首輪を外し、そっと服の上に置いた。
お風呂の後のことを思い、ついつい口許を緩めながら。
「……」
ほにゃりと幸せオーラを放つアーシャをチラりと横目で盗み見る鋭い視線があった。リジットだ。
彼女は、一糸まとわぬ姿になったアーシャに向けていた視線を、恐る恐る自分の胸元に落とし――そのまま緩やかに崩れ落ちた。半裸のまま、膝を抱えてうずくまる。
「まさかアーシャにも負けているなんて」
「え、なに、どうかしたなの? しんどい?」
「気にしなくていいのです、リジットの持病みたいなものなので。ほーら、どうどう」
勝手にダメージを受け、小ちゃくまるまった騎士の背中をさするセルシラーナ。
鍛えられ、いい具合に引き締まった白い背中に、肩から腰にかけての健康的な流線。張りのある肌に癖のない艷やかな長い黒髪がさらさらと流れるのを見て、アーシャは『かっこいいなぁ』なんて内心羨んでいたりするのだけれど、傷心の当人は気付かない。隣の芝は青いのだ。
「アーニャが『ああ』なんだものね。これは予測できた事態だったんだわ。アーシャにならあるいは、なんて思った私が浅はかだったのよ……ふふ、ふふふ……」
「???」
アーシャはこてん、と首を傾げた。
アーニャの持つ圧倒的な物量と比べてしまうとどうしても霞んでしまうが、アーシャも『ない』わけではない。とくにハウレル家に迎え入れられてからはよく食べよく眠っている。今後に期待といったところだ。
「ルナールは服の上からも『ある』のがわかるもの。どうせっ、どうせ私は鉄板よっ、うぅー!」
「はいはいどうどう。それとリジットが渾名されてたのは鉄板じゃなくて鋼鉄なのです」
なんの話をしているかピンときていないアーシャでもわかる。今のはトドメだと。
がくっと項垂れたリジットを宥めるのには、また少しばかりの時間を要した。
お風呂回…になるはずでした。ちなみに前回も。