子猫と姫と侵入者
今回はみじかめです。
「けて……」
ぴくん、と猫耳が震える。
か細いその声をアーシャが聞き取ったのは偶然だった。
これから皆でお風呂に入ることになっている。頑なに風呂に入りたがらないルナールを捕縛しにいった姉の分まで着替えなどを用意して、リーズナル邸の廊下をひとりでぱたぱたと歩いているさなかの出来事。
「……たすけて、だれか」
猫人族ご自慢の聴力をもってしてようやく聞き取れるほどの、消え入りそうなその声が助けを求めるものだと気付いたアーシャは、弾かれたように顔をあげる。
敵襲。
どくん、と心臓がひときわ強く脈打つ。
冷静に考えたら、シャロンやオスカーたちの警戒をすり抜けて屋敷に侵入を果たせる相手に対してアーシャでは歯が立たない。”調律”の神名があるとはいえ、自身の戦闘能力は高くないためだ。けれど、助けを求める声にアーシャの体は反射的に動いていた。
「助けにきたの!」
声の聞こえたすぐそばの扉を開け放つ。オスカーたちに割り当てられている部屋のふたつ隣、シンドリヒトからの客人ふたりに割り当てられた部屋だ。
そこには祈るように手を組み、一点を見つめて怯える元お姫様、セルシラーナ = セス = シンドリヒトの姿があった。
そして彼女の視線の先、ふたつ並んだベッドの片方の上には、対峙するように己が武器を振り上げた侵入者の姿も。
「……えっと。たしかフォルフォス、なの」
「名前とかどうでもいいのでたすけてほしいのです!!!」
フォルフォス。鎌持つ虫。シャロンがこの場にいたならば、前文明での呼び名を教えてくれたかもしれない。いわく、カマキリ、と。
なぁんだ、と息を吐くアーシャとは裏腹にセルシラーナは涙目だ。
セルシラーナはできる限り相手を刺激しないようにアーシャに小声で懇願する。
怖い、けれど視線を切ったら侵入者がどこかに移動するかもしれない。そんな葛藤が見て取れる。
薄緑色をした鎌虫の大きさは、アーシャのてのひらをめいっぱい広げたよりも少し大きいくらい。まあまあ立派なサイズだ。
少しばかり攻撃的な見た目をしているし、今だって『お? やんのか?』とばかりに両手の鎌を振り上げてできる限り己を大きく見せ、セルシラーナと部屋に入ってきたアーシャを抜け目なく威嚇している。
それでもまあ、魔物でもないし、しょせんただのむいむいの域を出ない。
「大丈夫なの。フォルフォスはちっちゃな虫を食べるだけだから」
「そういう問題ではないのです!!!」
戦闘能力は高くないとはいえ、さすがにフォルフォスに負けるアーシャではない。というか威嚇されてべそべそしているセルシラーナだってたぶん負けないと思うのだけれど、戦う前から完全に心が折れている。戦わない者に勝利は訪れないし、ベッドはフォルフォスの気が済むまで占領されたままである。むしろ気が済んでベッドが解放されたとて、今度はどこに潜んでいるかわからないヤツの気配に怯え続けなければならない。
そんなことになるのが嫌で、セルシラーナは今泣いているんだ!
「やれやれなの」
オスカーがたまにやるように、アーシャは小さく肩をすくめた。
『お? やるか? なんだ? お?』と微妙に横揺れするフォルフォスにすたすたと近づき、むんずと掴むと、ずさささっと後ずさるセルシラーナのわきを通り抜け、部屋に設けられた空気穴からぺいっと外に放り投げる。
脅威が除去されたと見るや、アーシャの腰あたりにセルシラーナがひしっとしがみついてきた。
「もうだめかとおもったのですよ……」
「よしよしなの」
めそめそしているセルシラーナをあやしながら、思う。
アーシャたちは文字を覚えるさい、オスカーの好きな本を何度も読み聞かせてもらった。その中には『囚われのおひめさま』を竜種から救い出す騎士さまの話もあったのだけれど、実際はこんな感じでトカゲとか追い払っただけなんじゃないだろうか、と。
物語は皆が喜ぶように脚色され、尾ひれも背びれもくっついていくもの、だそうだ。
なんてったって、皆を元気づけるために歌ったアーシャのことが、『救世の女神の歌声』だとか吟じられているくらいなのだから。
そんな身も蓋もないことを考えながらセルシラーナの頭を撫でていると、開けっ放しになっていた扉からひょっこりとリジットが顔を覗かせた。
湯浴みの準備をしていたはずのセルシラーナがなかなか階下に降りてこないので呼びに来たのだ。が。
「姫様、準備できま――……………」
振り向いたアーシャと目が合い、数瞬、気まずい沈黙が流れる。
アーシャを見て、その細い腰にひしっ! とすがりつくように抱きついて離れない自らの主を見た騎士は、ふたたび視線をアーシャに戻す。
「……」
「……」
「ええっと、その。ごゆっくり?」
結局なにをどう解釈したのか、扉をそぉっと閉めると静かに退散していった。唯一の騎士として、それでいいのだろうか。
「……やれやれなの」
噂話に背びれや尾ひれがつく前になんとかしなくちゃ、とアーシャはふたたび肩を竦めるのだった。
かまきり「くそっ…じれってーな 俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!」