僕の大切な
繋いだ手と手を介して〝紫電〟を発動。シャロンの演算能力を間借りして思考領域を拡張、加速した意識で世界すべてが色褪せて見える中、新たな素材を概念縫合された『希望の轍・改』が完成する。
無数に伸ばした不可視の魔力の指先によって組み立てられたそれは、傍目から見るとひとりでに組み上がったようにさえ見えるかもしれないけれど、僕の中にいる名も知らぬ技師に彫金師や魔術師とともに作り上げた、今でき得る限りの最高傑作だ。
『がんばれ』
『あとすこし』
『ぶちかましてやれ』
『できるさ、君たちなら』
協力してくれた彼ら彼女らは持てる魂を燃やし尽くして、役目を終えたとばかりにわずかな言葉を残して僕の内側から消失していく。つい今しがたまでそこにあったはずの意識が、一瞬後にはもう失われている。喪失感にぐっと奥歯を噛み締めた。俯いている暇はない。
多層結界、あまたの白壁、無数の蒼き翼片を隔てた向こうで厄神龍は新たな行動に出た。
これまでの空間圧潰や闇針、極光ブレスではこちらの総掛かりの防御――シャロンが言うには「愛フィールドです!」――を抜けないと判断した厄神龍は、天と地、さらには前後左右に白と黒の巨大な魔法陣を六重展開。魔法陣同士の間には稲妻が走り抜け、ひとつひとつの轟音だけで空間ごと震撼させる。
――神名〝略奪〟、神名〝審判〟、神名〝大嵐〟、神名〝忘我〟、神名〝超越〟による複合干渉。さらに神名〝不変〟による妨害対策。
白熱する右目が内包された権能を暴きたて、それが不可避であることを知る。
「ちょっとやる気になった途端これか! もう少し余裕ぶっこいててくれれば良かったんだけどなぁ!」
悪態もそこそこに、僕も希望の轍・改を介しての魔力収斂を開始する。けれど、こちらが一撃を叩き込むよりも”災厄”のそれのほうが早いことを、僕の右目に溶けた”全知”が無慈悲に告げる。正確で助かるけど、真実はときに人を傷つけるんだぞ。
”世界の災厄”というやつは存在の規模が人間のそれとは全く異なる。
奴にとって人間は食料だ。それも軽食のたぐい。食料に悪意や敵意なんて持つだろうか? 答えは否だ。一度泥の中に堕ちたことで僕はその確信を持っている。
ジレット = ランディルトンとの問答の中で奴が”世界の災厄”と取り付けたという『カイラム帝国の領土だけは呑み込まずに残しておく』という約束とやらも、案外そのまま守る公算もそう低くはない。
”世界の災厄”にとって人間との『約束』は、少しばかり従順で愛着のある家畜と意思疎通ができた、くらいのもので、どうしても守ってやる義理もないが、かといってことさらに破ってやるほどの悪意も持っていない。そもそも敵意や悪意を感じるほどの障害と見做されていないのだ。存在の格が違うというのはそういうことだ。
”災厄”は神を嘯くだけあって、個の生き死になどまるで頓着しない。
だからわざわざ泥の中に人間の魂を再現してみせたり、ヤツの思う理想世界を形作ってごっこ遊びに興じてみたりした。泥の中には『かつての僕の村』のような世界が他にも幾多も存在していたに違いない。
これまでの僕らとの戦いも勝利を確信していて――いや、戦いとすら認識していなかっただろう。繰り返された蹂躙劇の一幕でしかなく、片手間であしらってやれば済む程度の。
どれほど厄神龍を砕かれようとも痛手にはならず、大地に薄く根を張った”災厄”の精神体から魔力供給を受けてたちどころに再生する。反面、こちらにはブレスを掠らせるだけで致命傷だ。
『敵』として捉えられていなくても何の不思議もない。
それが、ブレスを幾度か阻まれて少々疎ましく感じたらこれだ。まったく嫌になるね、傲慢な神ってやつは。少しはうちの茶目っ気たっぷりな女神を見習ってほしい。
「だめです、オスカーさん! いくら攻撃を加えても権能発動を阻止できません!」
『魔力計測不能。退避を推奨』
『空間への干渉を確認。転移系術式での回避は不可能と判断します。欺瞞した防衛塹壕を構築済みです』
『目一杯壁張っとく〜? さすがに耐えきれる自信全然ないけどね〜』
「いや、防御も無駄だ。あれはいくつもの神名を組み合わせた広範囲の世界改変だ。範囲外への退避も間に合わないな」
魔道具回収のために注文した90秒を持てる手札のすべてを駆使して守り抜き、そのうえ荒ぶる神の暴威を目の当たりにしながらなお彼女らは諦めない。少しでも活路を見出そうとする言葉に、自然と僕の口角も持ち上がる。
当然、僕だって諦める気なんてさらさらない。もともと諦めは悪いほうだったけど、最後に残っていた諦観も泥の中に置き去ってきた。
だから、僕は彼女らに伝える。勝つために。
「権能は魂への干渉。存在の書き換え。具体的には『名』を奪われるみたいだな」
つまりあれが発動すれば、僕は勇者のあんちくしょうのような状態になるということだ。
この局面になっても勇者は姿を現さないし、少なくとも”災厄”に対して脆弱になるのは確かだろう。
『名』は存在を表す目印だ。それを奪われるということは、きっと。
「僕は『オスカー』という存在から切り離される。これまでの『オスカー』と僕とが紐付かなくなる。シャロンでさえ僕のことがわからなくなるかもしれない。……いや、そうなるだろう」
世界中の人から、僕は忘れ去られてしまうのかもしれない。
外界から隔絶されていたフリージアのような例外を除いて『赤衣の勇者』の名がどこにも残っていないように。
つないだ手と手が離れても、ふたりなら飛べると少女は歌った。その声は今も戦場を駆け抜け、僕らの心を勇気で満たす。でも。『名』を喪えば僕の大切な人たちの心からも存在が失われ、僕は本当にひとりぼっちになってしまうかもしれない。
想像するだけで底なしの虚に呑み込まれるような、途方もない恐怖が襲う。
握った手からきゅっと握り返してくる力が強まった。
「でも。もし出会いからやり直すことになったって、僕は諦めない。何度だってシャロンに好きになってもらう。何度だって惚れさせてみせる」
嘘偽りのない本心を、力強く宣言する。
勝つために。勝って、ふたりで帰って、『これから』を始めるために。
隣でシャロンが微笑んだ気配。
「はい。たとえ何度引き裂かれようとも。私は何度でもオスカーさんを好きになり、愛すると誓います」
「うん。約束だ」
「はい、約束、です!」
何の保証もない言葉。ただそれだけで僕の心は暖かさに包まれる。
この先待ち受けるのが果てのない虚でも――怖くはあるけれど、前に突き進める。
本命は名を奪われた後。世界改変を繰り出したあとの隙間へねじ込む反抗にある。その次の行動を起こさせる前に仕留めれば、神を打倒し得る。
『大人だぁー、オスカーが大人だぁー。ちぇっ、「おっきくなったらお姉ちゃんと結婚しようね」って言い聞かせてたのになぁ』
『しかもこれを半裸で言ってるのがウケるよね〜』
僕の内側でジェシカとフリージアがころころと笑った。
ていうかやめろ、半裸への言及は。全裸でなくなっただけマシだろうが。僕に変態属性を刷り込もうとしないでくれ。
フリージアは僕に何か恨みでもあるのか。あれか。彼女の想いも考えずに『生きてほしい』と願ったやつか。その節はたしかにすまんかったけども。
『困ったわねぇ』
『ああ――困ったな、本当に』
”災厄”起こす世界改変の魔法陣によって引き裂ける空間に生じる白と黒の豪雷が耳を劈く、この世のものとは思えない光景を前に、ふたつの意識が木霊する。
母さんと父さんのしみじみと噛み締めるような想いが、僕の裡で反響する。
『あんなに小さくて泣き虫だったオスカーが、こんなに立派になったのを見られた』
『ええ。こんなに素敵なお嫁さんをもらったのもね。ああ、困った。――もう思い残すこと、なくなっちゃった』
そう言って。
膨大な意識を引き連れて、黄金の魔力へと形を変えて僕の内側から離反していく。
ジェシカもフリージアも。父さん母さんと一緒に、僕の外へと。彼女たちが『ばいばい』と小さく手を振るような感覚が、僕の胸中にそっと残される。
「なっ!? いったい、」
『だって。私は”お母さん”だもの』
何をする気か、と問い糾そうとする僕に被せるように、その思念が直接僕の脳裏に届く。
それはシャロンにとっても同じだったらしく、彼女は曖昧な人型を形作る黄金の粒子に向けて目を見開いた。
直後。
光が爆ぜた。
”災厄”が世界改変の権能を行使する猶予時間が、ついに終焉を迎えたのだ。
轟音と激震、明滅する視界に五感を塗りつぶされながら、けれどその思念は僕らに届いた。
――だって。私は”お母さん”だもの。
それは我が子のためだけに、ただのちっぽけなひとりの人間が、すこしだけ特別に生まれ変わる魔法のコトバ。
――名前は私たちからこの子への、初めてのプレゼント。
――最初の祝福。誰にも奪わせたり、するものですか。神様だろうと手出しなんてさせないわ!
「ッッッッッ――――――――!!!??」
音として響いたわけではない。
けれど魔力を帯びた思念が、このとき確かに僕らを包み込んでいた。
存在に、魂に干渉する、多数の神の名を擁する世界改変。
それをごく僅かな領域に絞って魂の集合体による防護で凌ぐという奇跡。
理屈の上ではそれ以上のことではないかもしれないけれど。僕にとっては両親の愛そのもので。
世界が砕け、破片が溢れ落ちていくがごとき、終焉の衝撃。
永遠のように感じる一瞬の激震。空間が粉砕されるような感覚の中、僕の左目からは涙が伝っていた。
「僕は。僕はね。父さんと母さんの子で、幸せだったよ……」
声になったかどうかさえ定かではないけれど。僕の口をついたのは別れの言葉だった。
生前伝えるのことのできなかった言葉は、消えゆく父さんと母さんに、きっと届いた。そう信じている。
聴覚と視覚がまだ回復しきらない中で、僕の存在を握って離さない掌だけが支えている。
あいているもう片方の手で残った涙を弾き飛ばし、僕らは神を討ち取る矢を番えた。
「"回れ! 久遠に往くために!"」