僕とみんなと最後の魔道具
血の朱をたたえ見渡す限りの空を閉ざす曇天。
大地を覆い尽くし、一切合切すべてを呑み込む泥の海。
大気を震わせる濃厚な死の気配、その中心に悠然と座するは生物の脊椎を思わせる異形の多頭龍。
世界の終わりがごとき光景に、されど。滅びに抗う希望の詩が響き渡る。
不安と悲嘆に飲まれぬように。失意と絶望に挫けぬように。負けてたまるか、屈してたまるか、諦めてなんかやるもんか! と。絶対的強者を前に咆哮する絶対的弱者の旋律が戦場を駆け巡る。
『ふわぁー……、なんだかすごいことになってるね?』
ジェシカのどこか呑気な声が、僕の内側で反響する。初めて海を見たときのような、わくわくとも畏れともつかないような。単に理解の枠を超えてしまっているだけかもしれないけれど。
『まるで昔むかしの神さまの出てくるお話みたい』
『そう間違いってわけでもないよな。アレは僕らが生まれるよりずっとずっと昔に封印された、神様の欠片みたいなもんらしいし』
天使に手を引かれた僕が人の身でそれを打倒しようというのだから、まさに神話の領分だ。後の世に語り継がれたいわけではないけれど、後の世を残すためにも負けは許されない。
そのために僕は、深い泥の底、楽園世界から戦場へと舞い戻ったのだから。
『まったく、よくやるよ〜。なくした身体を丸ごと作っちゃうなんてさ〜』
ジェシカとは違う、呆れたような、それでいて面白がるような声が転がる。フリージアだ。
『僕の肉体は消滅したわけじゃなかったからな。泥に溶かされたってだけで。そこに在るなら繋ぎ合わせて、あとは足りない部分をでっち上げればいいだけだ』
『簡単に言うけどさ〜、それ、変態の所業だからね〜? 割れて波に拐われた墨汁壺があるとするじゃない? 溢れて海に溶けた中身まで全部元通りに直すくらいのことを言っているんだよ〜? 正気を疑うよね〜。変態だよね〜。超変態だよね〜。ジェシカちゃんもそう思うよね〜』
『え? あ、あはは、うん、そだね。あーあ、お姉ちゃんの知らない間に、オスカーは変態さんになっちゃったなぁ』
『変態言うな。僕ひとりじゃさすがに無理だったよ。皆が手伝ってくれたおかげだ。フリージアだって手伝ってくれたじゃないか』
『それは〜、そうだけどぉ〜〜……』
フリージアの指摘通り、僕の肉体を構成していた物体は泥の海に呑まれて散り散りになっていた。
それをそのまま元通りに集めるなんて人間ひとりには不可能だ。でも僕は『ひとり』じゃなかった。
超高濃度の魔力の泥に溶けて無数の欠片になってしまった肉体を集めてくれたのは、同じく無数の人々の意志だ。
これまでに”災厄”に喰らわれた幾千、幾万の人の意識。泥濘に囚われた彼ら彼女らがアーシャの紡ぐ歌によって統率され、力を貸してくれた。
泥に落ちる前に断たれ、そのままシャロンが持っていた僕の腕なんかは当然泥の海の中には存在しない。だから泥の中で部品を組み立て、でっち上げたわけだけれど、それだって元を辿ればきっと誰かの身体の一部だったに違いない。
子らが生きて、育ち、恋をして、次代を育て、死んでいく。そんな当たり前の世界を守るために。永遠の牢獄を討ち果たしてくれと願った人々の想いの上に立ち、僕は今こうしてここにいる。
『でも変態は変態だよね〜。全裸だし』
「好きで全裸なわけじゃないやい!」
思わず声に出して反論してしまい、僕の内側でフリージアがけらけらと笑う。
そりゃあね、全部溶かされて肉体をなんとか繋ぎ合わせて復活を遂げたとしてもね、服まではね、そりゃあね。
この全裸は仕方のない全裸なので、僕が変態なわけじゃない。ないったらない。聞けこらフリージア。ジェシカも。
なんなら〝六層式神成陣〟の中で相まみえたフリージアだって全裸だったじゃないか、なんて反論しようものなら泥沼に嵌りそうだ。せっかく泥から出てきたところなのに会話まで泥沼に沈める必要もないだろう。全裸じゃなくて骨です〜、なんて憎まれ口を叩き返されるのが目に見えている。
内側でせめぎ合う魂たちのざわめきは、僕と手を繋ぐシャロンには伝わっていない。
突然全裸であることに文句を垂れた僕を、シャロンは優しく宥めてくれる。
「服なんて飾りです、偉い人にはそれがわからないんです」
「いやそれは偉い人のほうが正しいよ。飾りじゃないよ」
「えー。いいじゃないですか全裸。もっと堂々としていきましょうよオスカーさん。鍛えられた胸筋、引き締まった腹筋、わずかに主張する鎖骨。もしかしたら”災厄”も、この肉体美の前には負けを認めるかもしれないですよ」
「そんな”災厄”は嫌だ……」
残念ながら宥め方は斜め上だが。それでこそ、いつも通りの彼女らしいとも言えるあたりがなんとも言えない。それでシャロンの目論見通りに毒気を抜かれてしまう僕も、我ながら単純だと思わないでもない。
微妙なフォローだかなんだかわからない応答をしつつ、シャロンは〝蒼月の翼〟を器用に操作して倉庫改から取り出したズボンを履かせてくれた。
散り散りになった身体を再構成するのとは質が違うものの、厄神龍から放たれる苛烈な攻撃を高速回避しながら手を使わずにズボンを履かせるなど、これはこれで超絶技巧だろう。
「ありがとう、シャロン」
「はい。夫の下半身を管理するのも良妻のつとめですから!」
「もうちょっと言い方他にない!?」
最高な笑顔で応えるシャロンに思わず叫び返してしまう僕。フリージアのけらけら笑う声が脳裏にこだまする。
それにしても布が一枚あるだけで安心感が凄い。ズボンを生み出した人は偉大だ。僕は生まれてはじめてそんな感慨を抱く。
ちなみにシャロンは僕に上着を着せてくれる気はないらしい。まさか本気で”災厄”に効くとでも思っているわけでもないだろうに。……ない、よな? さすがにな?
『フリージアちゃんからお話は聞いていたけれど、本当に可愛くて愉快な子なのね。あなたのお嫁さん』
『歌声の主もお前の嫁なんだろう? いやあ、やるなオスカー、さすがは俺の息子』
『他にもいるみたいだよ〜、会ったことはないけどね〜。モテモテだね〜。変態なのに〜』
『あーあ、お姉ちゃんの知らない間にオスカーはオトナの変態さんになっちゃったなぁ』
やたらと賑やかに反響する魂の声に僕は苦笑する。
できることなら。僕の家族を、新しい友を、大切な人たちに会わせてやりたい。
でもそれはきっと叶わない望みだ。僕がまとめて泥の中から連れ出した魂は”災厄”がいくつかの神名で再現した仮初のもの。
ここで僕が”災厄”を打倒してしまえば、きっと遠からず――――
『こら、オスカー。俺たちは自分たちの信じた通りに精一杯に生きたあとだ。余計なことを考えてるんじゃない』
『そうよ。勝ったあとのことよりも、まずはどうやって勝つかを考えなさい。勝ち目はあるんでしょうね?』
それまでのおちゃらけた空気は、きっと僕が深刻に悩まないための気遣いで。
だから僕はその言葉に精一杯に甘えることにした。顔を上げた先に蠢く異形の龍種を見据える。
「勝ち目がなければ作ればいいだけだ」
豪語する。なあに、無理でも無謀でもやり遂げてしまえばそれは現実だ。
だってシャロンと出会ってから、僕はいままでずっとそうやってきたのだから!
口元をニッと釣り上げて笑う僕に、シャロンが嬉しげに目を細めて力強く頷いた。
「打開策を思いつきましたか?」
「ああ。〝希望の轍〟を改良する。シャロン! リリィ! カトレア! フリージア! 連携して時間を稼いでくれ! 90秒あればいい!」
その言葉だけでシャロンは意図を正しく汲み取り、上空で静止する。
すかさず僕は彼女の演算領域の一部を間借りして”紫電”を発動、思考速度に知覚、判断力を極限まで高める。
『死人遣いが荒いなぁ〜。簡単に言ってくれるけど、まったくもうだよ、まったくもう〜! やるけどさぁ〜!』
『聞いていましたね! オスカーさんの裸体激写会はひとまずお預けです』
『魔導機兵聞きが悪いです、激写だなんてあなたじゃあるまいし。それに誰ですかフリージアって。どこの女ですか』
『反証。リリィの個人保存領域の増分から鑑みるに1224枚相当の静止画像が保存されている』
『ちょっとカトレア!? そういうあなただって――!』
『否定。私は動画派』
『余計な演算してないで攻撃を潰してください! それとあとでデータの提出を求めます!』
頼られたフリージアはまんざらでもなさそうに憎まれ口を叩き、カトレアの突然の裏切りにリリィは狼狽し、シャロンがそれを混ぜっ返した。
女の子が集まると賑やかだなぁ……。などと呆けている暇は少しもない。
蒼月の翼が縦横無尽に飛び回り、厄神龍のブレスを阻害し、足場を崩して妨害し、爆風で視界を潰し、それでも抜けてきた攻撃をフリージアの白壁が相殺する。
一枚一枚は花弁のように呆気なく砕かれる白壁は複数の層を形成している。その数、実に百八層にも及ぶ。白き花弁は砕かれるたびにブレスの威力を空間に散らし、その威力を僅かほども僕らの元へは届かせない。さらに砕けた先から再生するさまはまるで狂い咲く花吹雪のよう。残滓であれど、"不滅"の神名を応用すればそんな芸当もできるらしい。
彼女らが稼いでくれるこの一秒は人類の存亡を賭けた命の一秒だ。けして無駄にするわけにはいかない。
〝希望の轍〟は各地に散らばる『オスカー・シャロンの魔道工房』製の魔道具を道標にして、”災厄”打倒のための魔力を集めるために作った簡易的な転移魔道具だ。
アーシャの歌声がここから響いているのは、彼女の声が魔力に乗って伝播する性質を持っているかららしい。僕の右目と一体になった”全知”がそう教えてくれる。
僕が一度やられるまでの攻防の間に〝希望の轍〟は膨大な魔力量に耐えきれずに半壊状態となっていて、今も垂れ流し状態になっている魔力はきらきらと黄金の粒となって周囲に撒き散らされるがままになっている。
これを収斂して耐え得る素材は僕の手持ちにはなかった。先程までは。
シャロンが大事に抱えていた『それ』を抜き取ると、さすがの彼女もギョッとした顔をする。
ジェシカも『うわー』と絶句しているようだった。そりゃね。僕もこんな状況じゃなきゃ他の策を検討するよ。でも今はこの『手』しかない。文字通りに。
メェルゼック鉱とテンタラギウス鋼の合金よりもなお魔力の奔流に耐え切った素材。それはこの僕、オスカー = ハウレルの片腕だった。
『……………………変態だぁ〜』
おいこらフリージア。今の、いつもの軽口じゃなかったろ。普通にドン引きしてんじゃねぇ。