僕と幸せな理想郷 そのさん
このお話は、最新話更新時点で約4ヶ月前の「束ねた力の結末は」が前提になっています。こんなに間が空くはずでは……!
「ね、わかったでしょう」
どこか寂しげな母さんの声が僕の耳朶を打つ。けれど、この感覚も偽りのものだ。
この世界は深い泥濘の奥底深く、魂だけのつくりもののセカイ。
現実の僕の肉体は"災厄"の泥に溶けて、すでに存在しない。どろどろにとろけ、ぐちゃぐちゃに混ざり合って。僕はそのことをようやく思い出した。
ジレットの肉体を依り代に顕現した"世界の災厄"。歪な龍のカタチをとった厄の神を討ち滅ぼす、掛け値なしの最終決戦。僕とシャロンは果敢に挑み、僕らだけの力では足りないから、と『みんな』の力まで頼って――――――――そして敗れたんだ。
厄神龍の放った極光が掠めた左腕がごっそりと消し飛んで。半分になった視界の中の、遠ざかっていく彼女の姿が。悲痛に歪んだ蒼い瞳が。網膜さえ失った僕の魂に未だはっきりと焼き付いている。
繋いだ手は、断たれた。
ひとりでは、飛べない。
そうか。僕は――死んだのか。
「――――――――ッ!!?」
落ち着け。落ち着け。落ち着け!
いくら自分に言い聞かせたところで心の臓は爆音を奏で、口の中が干上がり、自分自身の呼吸音がやたらと耳につく。この感覚さえも偽りのはずなのに、いまの僕にとってはどうしようもなく現実だった。
「からだが溶けきるわずかの瞬間に、あなたは魂を防護障壁で覆ったのよ。とっさに泥の魔力波長を真似るなんて芸当までして」
驚くやら呆れるやら、母さんは少し困り顔だ。
魂は肉の鎧の奥深くに大切に秘匿された、その人物を成す根幹部分。いわば『存在』そのものだ。僕がまだ『僕』としての意志を曲がりなりにも保てているのはそのためだろう。
その咄嗟の機転がなければ、肉体は掻き混ぜられ精神は溶け合い、魂までも今頃とっくにひとつに統合されていたはずだ。
「すごいわオスカー。本当に強くなって。さすがは父さんと母さんの自慢の息子ね。でも、もういいの。もう戦わなくていい。傷つかなくていい。もう、失うことに怯えなくていいのよ。父さんも母さんも、あなたの前からいなくなったりなんかしないわ、もう二度と」
母さんの表情は、誇らしさと切なさに彩られている。両腕を広げ、しずかに、ゆっくりと僕に近付いてくる。世界にひとり置き去りにされた僕を優しく迎えて、抱きしめるために。本物の母さんの魂を再現して、本物の母さんと寸分違わぬ慈愛で、僕を待っている。
その腕の中に飛び込めたらどれだけ良かっただろう。すべてを諦めて、何もかもを手放してしまえたらどれほど楽だったろう。
「ちがう、僕は」
否定の言葉が反射的に口をつく。
僕はただ。理不尽に、不条理に傷つけられる人を救いたいと願って、これまで戦ってきただけだ。それが、父さんや母さんを犠牲に生き延びた、せめてもの。
「それだって、私たちのためでしょう。私たちが過酷な世界に置き去ってしまったばかりに、あなたは十分すぎるほど傷ついた。愛する息子が傷ついて喜ぶ親なんていないわ、オスカー。もう自分を赦してあげていいのよ」
「それ、は――」
僕は、赦せない。かつての弱い自分自身を。
襲いかかってきた蛮族を蹴散らす力どころか、ともに戦って果てる心の強ささえ持っていなかった自分が。背を向けてひとりだけ逃げ延びた弱さを、赦せない。
母さんたちは僕が生き残ることを望んでいた、と死者の意志を身勝手に捏造して、のうのうと生きてきた弱さが赦せない。
「きみの戦いは終わったのさ。あとは末永く幸せに暮らしました。それだけでいいんだよ〜。めでたし、めでたしというやつさ〜」
間延びした声に振り向くと、いつのまにか戸口にはフリージアが立っている。血のように真っ赤な瞳と目が合って、ふんわりと笑みの形に歪む。
その後ろでは父さんが静かに見守り、ジェシカが心配そうにこちらを見つめていた。
弱い僕では助けられなかった人たちが、口々に僕を案じて、諭して、ここに居ていいと望んでくれる。その優しさが積もり積もった澱のように足を絡め取り、高く聳える檻のように道を遮る。いや――そもそも行く道なんて、もう、どこにも。
「あなたひとりが頑張って、傷ついて。悲しみを背負う必要なんて、どこにもないのよ」
「違う。違うよ。違うんだよ、母さん!」
父さんも、母さんも死んだ。ここにいるのは紛い物だ。
それを言うなら僕だってもう肉体を失って魂だけの存在なのだから、紛い物のようなものかもしれない。それでも僕は必死に食って掛かる。
「確かに僕は頑張ったさ。強くなりたくて足掻いたし、何度も戦って傷ついた。悩むこともあったし、うまくいかないことだって多い。だけど僕がこれまで頑張ってこられたのは僕だけの力じゃない。僕はひとりじゃなかった。こんな僕を支えてくれた人たちがいたんだ」
シャロンに。アーニャに。アーシャにラシュにらっぴーに、カイマンやヒンメルさん、リーズナル男爵、妖精亭のマスターに、リジット、セルシラーナ。リリィにカトレア、フリージアや、勇者のあんちくしょう。ベルカたちを助けられたことだって、僕の心の支えになっている。数えだしたらきりがないほどたくさんの人に支えられて、今日まで僕は頑張ってこられた。
その中にはもちろん、父さんや母さんも含まれている。
「大切な人たちをまた失うのが怖いのね」
「――――ッッ!」
「そんなに怯えなくて大丈夫。大丈夫よ、オスカー。もう何も心配いらないから。やがて地表すべてを泥が飲み込むわ。そうすれば、あなたの望む人たちもずっと一緒にいられる。ひとつに溶け合って、互いをわかり合った新しい理想世界で暮らすの。別離のない幸せの中で。永劫に、永遠に」
僕の傷口を見透かすように、甘く、優しく。母の声が語る永遠は実に甘美だった。
僕とシャロンが敗れた――――いや。今思えばそのもっと前、”災厄”の復活を阻止できなかった時点で、その終わりは定められたのかもしれない。
ただ死ぬのが早いか遅いかの違いで。抗う術もなく、泥に押し流される定めが。
争いのない世界で、すべてがひとつに溶け合って、未来永劫幸せな結末。
これまでの生命の枠組みに囚われた意識が受け付けないだけで、本当は忌むべきことじゃないのかもしれない。
どちらにせよ、肉体を失って魂だけとなった僕には、文字通り手も足も出ない。どうすることもできないのだ。
世界がすべて泥に飲みこまれるにせよ、途中で勇者みたいなやつがポンポン湧き出してそれを阻止するにせよ。どちらにしても、僕が一番会いたい最愛の少女にだけは、この世界でさえ二度と会えないだろう。そんな確信にも似た予感がある。
生命の枠組みから外れた、機械仕掛けの天使には。
繋いだ手は断たれて、失ってしまったのだから。
「シャロン――――――……」
最愛の名をそっと呟いて、戸口の向こう、偽りの空を見上げた。
空の向こうでは遺された彼女がひとりだけで、まだ滅びに抗っているのだろうか、と。
そして、気付く。つい先程まで薄ぼんやりした群青だった空が、不安を掻き立てる、名状しがたい色に染まっている。
「なに、どういう、こと……?」
ジェシカが不安を表してきょろきょろ見回し、フリージアも何を考えているのかわからない目を空へと向ける。
僕は浮かびかけていた涙を拭い、右目に意識を集中させてジェシカを盗み見た。
まやかしの身体であろうと、泥の中に形作られた仮初世界での僕の身体だ。
泥に飲まれる寸前に”全知”の眼鏡は砕け散り、僕の右目に突き刺さった破片はそのまま一緒に溶かされて混ざりあった。
それを『母さん』は知っていた。つまり、泥と完全に一体化している再現された魂は、外界の様子――おそらくは”災厄”の認識したものを共有しているのだ。
はたして、その目論見は成功した。
【魔力】【封印】【供給】【祭壇】。
読み取れたのは断片的な単語だけだったけれど、推測は十分にできる。
封印の祭壇に何かしらの異常が生じて魔力の供給が揺らぎ、その影響が出たのだ。
そしてそんな『何かしら』を引き起こせる、あの場にいた存在は。
「は、はは……!」
「オスカー?」
白っぽいふわふわの尻尾をもさっと揺らし、『ん?』と首を傾げるその姿を脳裏に描き、思わず笑いが漏れた。
父さんが怪訝に眉を顰めるが、構うものか。
ひどい思い上がりだった。戦っていたのは、何も僕とシャロンだけじゃない。
みんなそれぞれ、各々にできることで滅びに抗っている。戦っている。『生きるため』に!
その確信はすぐに肯定された。
遠く。遠く。遥かに遠く。
泥の湖面から浸透して、仮初の理想郷に届けられた歌声によって。
『”希望は消えない! いつだって 前を向けば ほら、明日が見えるから!”』
高揚する。これが笑わずにいられようか。否。笑うしかない。
ひとりで勝手に諦めて、絶望して。何が『肉体を失って魂だけとなった僕には、文字通り手も足も出ない』だ。赤面モノだ。穴があったら入りたい。今からでも掘るか?
ただ肉体を失っただけで諦めるなんて、僕も随分と物分りが良いお利口さんになったものだ。
「オスカー? いったい何をする気なの?」
母さんの声が狼狽を。
「どうして。もうお前が傷つく必要なんてないのに……!」
父さんの声が悲痛を示す。
彼らの魂は”災厄”によって再現されたもので、けれどふたりが僕を本心から心配しているのは、きっと”全知”の断片がなくたってわかる。
”災厄”にとっては、いまさら僕がどうにか戦線復帰したとしても、わずかほどの痛痒も感じないだろう。せいぜい侮っているがいい。
「きみもよくよく諦めが悪いよね〜」
「実はそうなんだ。知らなかったろ」
「知ってたけどさぁ〜。何をしたところで、千に一つも勝ち目なんてないんだよ〜?」
フリージアの紅蓮のような瞳が僕を真正面から値踏みする。
僕はそれを見返して、口の端を吊り上げた。
「千に一つ。万に一つ。たとえ億に一つの可能性だったとしても。今この場でその一つを引き当てれば何も問題ない。そうだろう?」
豪語する。
付き合ってられないとばかりに、まったくもう、やれやれだよ〜と肩をすくめるフリージアの向こう。ジェシカは肩を震わせ目を伏せた。
「ここにいてよ、ねえ、オスカー! みんなで仲良く幸せに、日々を楽しく暮らそうよ……! またわたしたちを、置いていくの……?」
泣き落としは、正直苦手だ。
根を詰めて徹夜作業をしているときに『寝ないと体を壊しますよー』とシャロンにやんわり注意されてもある程度まで粘る僕だが、『寝ないと駄目、なの……』と半泣きの上目遣いでアーシャに居座られるとどうにも弱い。
おかげで若干拗ねたシャロンから『アーシャママに寝かしつけ頼んできますね』と言われたら素直に寝るようにして……ってそれはともかく。
「つれていく」
「……え?」
「僕がみんな連れていく!」
不安定に蠢く空を睨めつけたまま、僕は獰猛に牙を剥く。
思い知らせてやるさ。まるごと全部飲み込むのは、災厄の専売特許じゃないってことを!