僕と幸せな理想郷 そのに
このあたりの建物の屋根はだいたい頑丈な作りになっている。
僕はその上に無造作に寝転がり、河原から持ってきてしまった小石を指先で弄んでは、ぼんやりと空を眺めるともなしに眺めていた。
寒くなれば村には雪が降る。そりゃもうこれでもかというくらい、しこたま降る。
雪というやつは実際のところ水だ。宙を舞っているあいだは吹けば飛ぶような軽さなのに、降り積もるとずっしりと重い。
雪が降るたびに潰れているようでは建物としての役割を果たせない。雪にさえ耐える構造なのだから、当然のなりゆきとして、僕が乗った程度ではびくともしないのだ。
「こうじゃない屋根なんて、知らないはずなのになぁ」
ずっと、この村で生きてきて。
これからもずっと、そうあるはずなのに。
村の外れ、木立のそばにひっそりと佇む納屋の上には、ひとり言ちる僕の他には鳥も虫もおらず、応える者はない。ただ静寂が周囲を支配している。
この場所は木の陰や角度の関係で、横になっている限りにおいて村からはほとんど視線が通らない。
建物自体も農具が収納されている納屋であり、無人だ。そんなこんなで、ここはひとりでぼやーっと空を眺めるには絶好の場所なのだ。
「はぁ〜……なにをやってるんだろうな、僕は」
望んでいた平穏。あたたかくて、やさしくて、和やかで。
なぜ平穏を望んでいたのかさえ定かではないけれど、それでもこの生活に不満なんてないはずだ。それなのに。
頭の端にまとわりつく違和感。心の最奥が疼く。『これは違う』と。目を覚ませ、立ち上がれと魂が叫ぶのだ。
足りない。欠けている。なにかが、決定的に。
けれどその『なにか』が掴めないまま、焦燥だけが募っていく。
根拠のない感覚は流れていく雲のように捉えどころがなくて、風に吹かれてすぐにでも消えてしまいそうで。
そうやって思い悩んでいながらも、土を踏みしめる僅かな音と衣擦れを感じ取った僕はむくりと上体を起こした。
「……どうしてここに?」
「おっと、バレたか。……忘れたのか? いつだったか、オスカーにこの場所を教えたのは父さんだったろ」
「そうだっけ」
「そうだぞぉ。なんたってここ、元は父さんのサボり場所だからな、――っと」
おおかた、だらけている僕を驚かせにでも来たのだろう。
僕の父さん、オズワルド = ハウレルは、いたずらを事前に見咎められて微妙にバツの悪い子供のような顔で苦笑いする。よっこらせ、と屋根に登ってきて僕のすぐとなりに腰をおろした。
「おまえがもっとずっと小さかった頃、拗ねて山まで飛び出してったことがあったからなぁ。嵐が来るってのにさ。あのときは俺も母さんも肝を冷やしたもんさ」
「その話、もう百回は聞いたよ」
「ははは。だからまだ探しに来やすいし危なくもないこの場所を教えたんだよ。――実際、気に入ったろ」
確かに僕に至らないところがあったのは事実だけれど、幼い頃の失敗を何度も蒸し返されるのはそう気分の良いものではない。
むすーっとジト目をおくる僕の背中をばしばしと叩いて、父さんは笑う。笑ってごまかす気だなと察知した僕のジト目はますます深まるのだが。
そんな僕の様子を見、口の端は苦笑に歪ませて。
「なにか悩みがあるときはさ」
父さんは静かに息を吐きだした。
おちゃらけた様子を一転させ、目を細めて、僕と同じように空を見上げる。
「オスカーは、いつもここで空を見てたからな」
「……」
「母さんが心配していたぞ」
それが先ほどの『どうしてここに?』という問いへの答えだと気付いて、僕も深く息を吐き出した。
どうやら僕が上の空だったり、妙な違和感を抱えて思い悩んでいることに、父さんも母さんもしっかり気付いていたらしい。
思えばジェシカ姉ちゃんやフリージアにも心配されていた気がする。僕は案外わかりやすい性格をしているのかもしれない。
静かに雲が流れていく。
父さんはそれ以上無理に話を聞き出そうとするでもなく、かといってその場を去るでもなく。ただ静かに側にいてくれた。それが何故だか無性に懐かしいもののように感じられる。
こうして自分のことを想ってくれる人たちがいてくれるのだから、なにも悩みをひとりで抱え込むことはない、のだろう。きっと。
ひとりで思い悩んだってろくな解決策も浮かばないから、こうして空を眺めていたんだし。
そうだ。頼れる大人がいるのに、どうして僕は自分でなんとかしないといけないと思っていたのだろう。そう考えると、それだけでなんとなく肩の荷が下りた気がするのだから不思議なものだ。
――とは思うものの。
僕の抱えた悩みなんて、言ってしまえばただの違和感でしかない。『なんとなく、しっくりこない』という、ただそれだけの。
それをなんだか深刻な悩みのように打ち明けるのも若干の気恥ずかしさがあった。だから、
「ねえ、父さん」
「ん?」
「ひさしぶりに、剣の相手をしてよ」
その要求は、ほんとうになんの気もなしに発したものだった。体を動かして、ちょっとばかり幅を利かせてきた眠気を払うついでに、悩みを聞いてもらいやすい空気を作るためだけの、そんな要求だった。のだけれど。
「――剣?」
父さんから返ってきた反応は、完全に僕の思惑から外れたものだった。
明らかな当惑。何を言っているのかわからない、という。
「え? そうだよ、剣の練習。父さんだってよく言ってたじゃない、『大切な人を守れるくらいには強くなれ』って」
父、オズワルドはべつに腕っぷしが強くもなければ、取り立てて打たれ強いわけでもない。
それでも剣を握って、冒険者としてこれまで命を落とさずにやってこられるだけの実力があって。オスカーも幼少の頃から、何度も彼と剣劇の真似事をしていて。そのはずなのに。
どうして? どうして父さんはそんな、困ったような、悲しそうな顔をするのだろう?
「いいかい、オスカー。剣なんて、もう必要ないんだよ」
「は?」
思わず呆気にとられ、素っ頓狂な声が出た。
「もう戦う必要なんてないんだ。争い事はもう起こらない。日常を脅かす敵なんていない。だから、剣なんてものはもう、いらないんだ」
「そんな、はず――」
そんなはず、ない。必要なんだ、守る力が。
田畑が獣に荒らされるかもしれない。
山から魔物が降りてくるかもしれない。
蛮族が村を焼き打つかもしれない――
「っ――!!」
「おおかた、怖い夢でも見たんだろう。大丈夫だ。もう戦わなくていい。傷つかなくていいんだ」
父さんは、静かに諭すように僕に語りかける。
そこには嘘もごまかしもない。ただ本心から我が子を心配する色だけがあって。
幼子にするように、大きな手が僕の髪をくしゃりと撫でる。
カラン、コロン、と乾いた音がした。
その硬質な音が、僕の手から取り落とされた小石が屋根を転がっていく音だと僕はしばらく気付けなかった。
「怖いものなんてなにもない。俺や、キルシュがいる。……ずっと、一緒だ」
争いのない、平和な世界で。大切な人たちと、ずっと一緒に。
その抗いがたい欲求は、僕の心の奥底にまでじんわりと浸透して、侵食していく。頭が妙にふわふわして、なのにやけに重い。
あたたかくて。平穏で。和やかで。
多少の違和感がなんだ。争いのない理想郷で、甘く、優しく、どろどろの蜜に囚われて、それの何が悪いというのか。
「……」
僕にとっての大切な人たちと、ずっと一緒に楽しく過ごせるなら、それ以上のことなんて何もないじゃないか。
夢でも幻でも、永劫に醒めないのならばそれは現実と同じことだ。
ならばもう、それでいいじゃないか。
苦しいことがなくて。悲しいこともなくて。
優しくて。楽しくて。そんな世界で、いつまでもずっと。
「もう何も心配はいらないんだ。オスカーは十分頑張ったろう。――ゆっくりおやすみ」
父さんに見守られながら、僕の意識は撹拌されて、次第に微睡みの中に沈んでいく。
ゆっくりと瞼を閉じた僕の頬を、さぁっと風が撫ぜる。
深く、深く。ずぶずぶと、ぬるま湯の心地よさに、魂までもが飲まれようとする、その寸前。
――ずっと一緒に。
その言葉が、闇に落ちかけた僕の意識の端に引っかかる。
意志の力を総動員して、閉ざされかけた瞼をわずかに持ち上がる。滲む視界に、くすんだ空が映った。
僕は知っている。こんな空よりも綺麗な蒼を。
陽の光よりもなお温かな黄金の輝きを。
『あなたのシャロンは、ずっと一緒におります。ずっと、ずぅっと一緒にいてくださいね、私のオスカーさん』
そうだ。僕は。
「オスカー? どうしたんだ?」
見上げた先にいる父さんが怪訝そうに問うてくる。その手を、僕は振り払った。
その場に跳ね起きて、父さんの悲しげで傷ついた表情に、ぎゅっと、腹の辺りが冷たくなるような心地がしたけれど、負けずにまっすぐ睨み返す。
ずっと一緒にいられれば、どれほど良かっただろう。けれど。
「先約があるんだ」
短くそれだけを告げると、僕は父さんの返事を待たずにその場に残し、納屋から一息に飛び降りた。
足を向けた先は懐かしの我が家。蛮族の襲撃で焼き払われ、今はもう失われたはずの、幻想の揺り籠。
そこでは、あるいは僕が来るのを知っていたかのように、その人が待ち構えていた。
「母さん」
「なぁに?」
満面の笑みをたたえた、母の形をした何かは、僕に優しく問い返す。
記憶の中の母さんそのものの仕草に、僕の胸はじくじくと痛む。
それでも、僕にはシャロンと交わした約束がある。たとえどんなに幸せな幻想でも振り払って、前に進まなきゃ。
疼痛を奏で続ける胸の裡を無視して、僕は問いかける。
「お前らは――誰だ」
面食らったように。『それ』はひどく悲しそうな顔をした。
「なにか嫌なことがあったの? それにしたってあんまりじゃないかしら」
「尋ねてるのは僕の方だ。答えてくれ」
母さんの顔、母さんの声、母さんの口調を借りて『それ』は寂しげに目を伏せる。
「間違いなく、あなたの母、キルシュよ。偽物なんかじゃない。父さんだって。フリージアちゃんや、ジェシカちゃんだってそうよ。わかるでしょう? オスカー」
「……」
黙ったまま睨み続ける僕に、『それ』は小さく首を振って、諦めのため息を吐き出す。深く、深く。僕の心を抉り取るように。
「魔力は人の魂と深く結びついているわ。死に際のものなら、それはもはや魂の断片と呼べるほどに。あまたの神名を持つ、まさに神のごとき存在にとっては、魂の欠片から人格を再現するくらい造作もないことなの」
だから、と。こちらに近づいてくる『それ』に対して僕は無意識に一歩後ずさってしまったことに、扉にぶつけた背中によってようやく気付く。
「だから――わかるでしょう。肉体が泥に溶ける瞬間に、砕けた”全知”の一部も混ざりあったあなたなら」
認めたくはない。認めてはいけない。
けれど。僕は否応なく理解してしまった。悲しげに言う『それ』の言葉は真実だと。
「私は間違いなく、あなたのお母さんなのよ」
真実を語るときに赤を使うゲームだとしたら、まず間違いなく赤文字になるやつです。