それぞれの戦い - いま、ここにいる意味 終幕
地下空間を満たす朱闇の泥が、地獄を埋め尽くす炎のようにちろちろと揺らめく。それはあるいは悪魔の舌のように。
グルルゥゥウゥァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ――――!!
血と臓腑とをまるごと煮込んだようなその色彩を蹴立て、大人の身の丈の倍をもゆうに超える獣が絶叫し、吶喊。弱者を引き裂く歓喜に満ちた、獰猛な殺気を撒き散らし身を撓め、跳び掛かる。
「っ……!」
それを真正面から見据えるラシュにとって、爪や牙を躱そうとも組み付かれたら最期だ。圧倒的に不利な体格差は反撃も脱出も許さない。
だというのに、己の喉笛を狙う鋭利な牙にも、鈍く光をはね返す闇色の鉤爪にも怖じることなく彼は鋭い一歩を踏み込んだ。纏った"肉体強化"の残光が、薄暗闇に鮮やかな尾を引く。
泥の四足獣が瞠目し、眼窩で燃える朱色が踊る。小さき者が立ち向かい、ましてや突っ込んでくるなど獣にとって想定外の事態。歩幅がずらされ、振り上げた前脚は空を切る。
だが問題ない。空中で姿勢は変えられず、激突はいかようにも避け得ない。
のしかかり、泥中に叩き落とし、それで終わりだ、と。せせら嗤うように歪んだ獣の口許は、次の瞬間驚愕に凍り付く。
「んっ!」
交錯は一瞬。
空中で姿勢は変えられない。その不変の物理法則を軽々と捻じ曲げてのけたのは『オスカー・シャロンの魔道工房』の誇る魔道具、宙靴だ。
空中でもう一段踏み込んだラシュは、強化された膂力で鋭く木剣を跳ね上げて獣の頚を切り飛ばした。
互いの位置を入れ替えるようにして獣の亡骸は泥に沈み、ラシュは剣を振り抜いた姿勢のまますっくと立ち上がった。
一騎打ちを終えても寸暇の余裕もない。
間をおかず、おどろおどろしい咆哮をあげて2匹の獣がラシュへと迫り、さらに追加の1匹が今まさに泥の中から産声をあげた。
祭壇から泥が溢れ出る限り、災厄の獣は無尽蔵に湧き出すのだ。
「ぬしよ!」
「だいじょうぶ」
耐えかねたルナールがわずかに悲鳴を漏らすも、ラシュはなんてことないように小さく頷いて応える。
今にも飛びかからんと身構えた獣たちの眼前で閃光が拡がった。太陽を思わせる強烈な光が木剣から迸り、獣の視界を塗り潰す。
グルゥゥゥゥオオオオオオオオオオオオォオォォォォォオオオオオオオオオッッ――!!
ルルァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッ――!!
強すぎる光によって闇に囚われた獣たちの雄叫びが折り重なる。
混乱は一瞬で十分だ。視界を喪失して立ち尽くした刹那の隙を、ラシュはもちろん見逃さない。斬り込んで即座に離脱した少年の背後では、今まさに顔面に大穴を穿たれた1匹が頽れて、べしゃりと泥へと還っていった。
そして――入れ替わるようにまた新たな獣がずるりと泥から這い出して、咆哮が打ち上がる。
「ぴぴぴぴぴ!」
「――っ! わかっておる、わかっておるが!」
上空を旋回するらっぴーが諌めるように警告の声をあげ、ルナールは振り向いていた体を戻し、わずかに目を伏せた。
ラシュの役割は陽動だ。
ひとりで泥の獣を斬り伏せ、大立ち回りを演じ、獣たちの目を釘付けにする。
ルナールを祭壇に辿り着かせるために、少年は命を張っているのだ。
ここで立ち止まっていては、それこそ少年の頑張りを無駄にしてしまう。
わかっている。わかってはいても、また振り向いてしまいそうになる気持ちをぐっと振り払い、腰ほどまである穢れた泥をざぶざぶと掻き分けた。
朱と黒の入り混じった泥のように見えるそれは、あまりに濃度が高すぎて質量を持った”災厄”の魔力、その塊だ。
触れるだけでヒトの魔力を狂わせ、内側から蝕み、侵食して喰らう圧倒的な”災厄”の力。
その権能は、前文明の研究者たちが生み出した耐侵食兵器ヒュームビースト――この時代でいうところの獣人――であろうとも無傷ではいられない。
生命のエネルギーは魔力へと変換が可能で、少しずつ侵食を受けるのは免れ得ないのだ。
それをなんとか中和しているのが、ルナールの上空を見守るように飛び回っている浄化の霊鳥、ラピッドクルスのらっぴーだ。
らっぴーがルナールに張り付いている以上、ラシュは正真正銘のひとりきりで無限の獣たちを相手取らねばならない。
早く、早く。少しでも、早く――!
泥を掻き分け、もつれそうになる足を必死に動かし、ルナールは『それ』を探した。
『まるで太陽の輝きみたい』とセラフィが褒めてくれた毛並みは見る影もなくぐちゃぐちゃのどろどろで、思わずあふれ出しそうになる涙を堪える。
ここは月の灯りさえ届かぬ地下祭壇。たとえ天からセラフィが見守ってくれていたとしても、薄汚れた今の姿など見られる心配はない。
少女の最後の頑張りを見届けるのはひとりと一羽のみ。
「ぴぴ、ぴぇぴぴぇっぴ!」
「む、でかしたトリ!」
「ぴぴぴぴぃ、ぴっぴーぴぴぇ!」
なんとなく『トリじゃない、らっぴーだ!』と怒ってるような声音で囀るラピッドクルスの示す先に目的のモノを見つけ、ルナールは安堵の表情を浮かべる。
泥に半分沈み込むように浮かんでいたそれは、ルナールの同胞たちの成れの果てだった。
バカげた計画の、バカげた犠牲。
獣人の心臓を繋ぎ合わせて造られた魔道具。ジレット = ランディルトンが封印の祭壇に触れたときに纏っていた、悍ましき衣。
オスカーが咄嗟の判断でジレットを『倉庫』に放り込んだ際、”転移”術式さえも受け流して、それはこの場に遺されていたのである。
ルナールにとっては見たくもなければもちろん触れたくもない、忌むべきモノでありながら、それは今この時に残された希望のひとつだ。実に業腹なことだが。
ルナールの逡巡はわずかだった。無駄にできる時間はない。もたもたしていればいるだけ、陽動をこなすラシュの命が危険に晒される。
ことが上手くいけばラシュは助かる。さっさとやるにこしたことはない。
「ぬしだけは死なせはせん」
自分自身の命に代えても。
少女の決意をラシュは知らない。
『神の御使い』たる自分にかかれば再封印など余裕だと丸め込んで、疑いの眼差しを向ける少年に陽動を押し付けた。ルナールは『悪い狐』なのだ。かつてのセラフィと同じに。
らっぴーの助けによって浄化された同胞を着込み、ルナールは祭壇へと進み出る。
溢れ出るは、目にするだけで魂をがんじがらめに縛り付け、体中の血液を凍りつかせる存在。
生存本能が悲鳴をあげ、一刻もはやくここから立ち去るべきだと狂った鼓動ががなり立てる。命を捨てる覚悟をしたはずなのに指先は震え、視線は定まらない。いまにも膝は折れ、泥のなかに崩折れてしまいそう。
手を伸ばしかけて躊躇して、唾を飲みこんで、荒い息を吐き出す。腕が、言うことを聞いてくれない。『べしょべしょ丸』のくせに、腹立たしい。
せめて。せめて最後に。
少年の奮起を目に焼き付けようと思い、おどろおどろしい咆哮の轟く背後を振り返った。
彼は、いくつもの傷を負っていた。
防御に使ったのだろう、左腕はだらりと力なく垂れ下がり、ところどころが焼け爛れたような傷口から赤い血があふれ出ては泥へとこぼれ落ちていく。
目の上にある裂かれたような傷からも血が吹き出し、左目は閉ざされている。
内臓にもダメージを負っているのだろう、跳び退る動きもどこかおかしい。
それなのにラシュは悲鳴の一声もあげず、呻吟すらも噛み殺し、ルナールの方へ向かおうとする獣を牽制しては斬り伏せていく。
片方が閉ざされた橙の瞳がルナールの視線と一瞬だけ交わって、彼は「ん?」と小首を傾げた。
共にあった時間はとても短かったけれど、それでもその『いつもどおり』な様子にルナールは小さく吹き出した。いつのまにか、指の震えは消え去っていた。
「ぬしよ」
少し逡巡するような間があって、けれどルナールは結局何も言わなかった。
視線を彼のほうに向けたまま、ルナールは薄く笑む。どうせならば。覚えておいてもらうのは泣き顔や不安な顔よりも笑顔がいいと。そう思ったから。
自由も、尊厳もなく。『楽園』という夢物語に踊らされ、良かれと思って解放して回った同胞も死なせてしまい、モノのように使い捨てられて。
憎悪と悔恨の中で、ただ無為に縊り殺されるはずだったいのち。誰にも悼まれることなく消え去るはずだった金狐。
『ぼくが、いるよ』
胸の裡の孤独をそっと埋めた少年が、見ていてくれると言ったのだから。
だからこれは、少女のあんまりな一生に用意された、最後にして最大の見せ場なのだ。
「わらわは、もうよい。あやつを、ラシュを守ってやってくれ」
「ぴ?」
祭壇からあがる瘴気を避けて旋回を続けるらっぴーから怪訝な声が返るが、ルナールは応じなかった。体中の血液が凍りついたような寒気は変わらないが、もう、腕も、指も震えない。生存本能のやつも諦めたとみえる。
ラシュが生き残って、もし少女の墓でも作ってくれるなら、それは空虚ながらんどうにはなるまい。たとえこの身が溶け落ちたとしても、青と赤のリボンを渡してある。
セラフィが生きた証は残り続ける。ルナールがここにいた意味はそれで果たされる。だから、いいんだ。
幸い、封印の祭壇は完全解放されていない。”狩魔”の支援による封じ込めもなく、獣人でもないジレットが強行したためだ。
だから、ルナールならばきっと戻せる。
『神の御使い』と銘打たれた贄。それだけが今も少女を支える唯一の存在証明だ。
なに、もし死んでもセラフィたちのもとにいけるのならば、さして悪いことでもない。
そう自らを奮い立たせ、一思いに泥に汚れた指が、封印へと触れた。
瞬間。
「ぎっ――――!!?」
堪えそこね、引き攣った悲鳴が軋み出る。
凄まじい衝撃に、一瞬で思考がまっしろに塗り潰される。
肉体から魂を引き剥がす、痛みを超えた痛み。
細胞の内を無数の虫が這いずり回る耐えようのない異物感が、愚かな狐の矮躯を蹂躙する。
喘鳴。苦痛。叫喚。頭が割れる。正気も理性も粉々に磨り潰され、血の色に染まった視界はぐらりぐらりと揺れながら狭窄していく。意識が刈り取られる。塗りつぶされ、あちら側に持っていかれる。
感覚の剥ぎ取られた手のなかで、封印が微かに脈打ち、蠕動している。
苦しい。苦しい。苦しい。
存在することそのものが苦しみを生む。
解決策は簡単だ。生命を手放せばいい。目を閉じてしまえばいい。二度と開くことのないように。
”災厄”の魔力が奏でる甘美な囁きが脳の中枢へと送り込まれ、取り込み、乗っ取ろうとする。きっと獣人の、その中でも魔力が皆無なルナールでもなければ、瞬時に籠絡されてしまっただろう。あの男がそうなったように。
音も、感覚も、視界さえほとんど潰れ、消え去った世界で、魂を軋らせる封印が徐々にあるべき位置へとにじり寄っていく。
痛い。怖い。苦しい。たすけて。なんで。出して。いやだ。
それは少女のものか、それとも別のなにかのものか。
ぐちゃぐちゃに混ざりあった意識が溶け出し、神経を焼き焦がしていく。
獣人。人間。恨み。どうして。死ね。死ぬ。死んだら。殺して。殺せば。殺せ。殺す。殺す。殺す。殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺
■■■■は壊れた思考の中で、思う。
きっと、神は、平等なのだ。
人間だろうと獣人だろうと、そこに一切の区別はなく、平等に殺戮するだろう。きっと、あとかたもなく。
せかいが全てこわれたら、きっとそれは素てきなことだとおもう。
みんなみんなさべつされたりしない、りそうの、らくえん
「……じゃ」
何故。
「おこと、わり、じゃ」
何故。何故。何故――
何故なんてもう、散逸した思考では思い出せないけれど。
『ぼくが、いるよ』
名前も思い出せない誰かの声が、まだ、がらんどうの胸をあたためているから。
その誰かに生きていてほしいという願いは。
きっとだれに押しつけられたのでもない、■■■■の願いだったから。
だから。そんな神のもたらす『らくえん』なんて。
「おことわりじゃぁああああああ――っっ!」
最後の絶叫とともに”災厄”の魂を封じていた祭壇は本来の機能を取り戻し。
もはやほとんど像を結んでいなかった網膜に映したその光景に、どこか満足そうな笑みを浮かべて。
さいごのちからを使い果たした狐は、そのまま深い泥へと沈み、沈み、沈んで――。
その腕を引き上げる誰かの手は、凍てついた死体同然の少女にとって、まるで太陽のようにあたたかく、月のように優しかった。
各戦線を終え、残すはオスカーとシャロンのみ。
長かった旅もようやく終わりのときが近づいております。
どうぞあと少し応援のほどよろしくお願いいたします。
ご感想やブックマーク、評価などをいただけますととっても嬉しくて気合が入ります!