それぞれの戦い - いま、ここにいる意味 そのに
いちおう会話が成り立ったので、ラシュは縮こまったままのルナールに回復薬茶の小瓶を渡そうと試みた。獣人にも効くオスカー印の特別製ポーションである。座り込むルナールの前にずらりと並べていた物品のうちのひとつを、しかしルナールは見つめ返すばかりで受け取ってくれない。いや、それどころか微動だにしなかった。
「……」
「……」
突き出された謎の溶液に対する困惑と怯え、そしてなぜか気遣われている惨めさがないまぜになり、感情がぐちゃぐちゃになって動けないのだということに、とラシュは気付けない。
どうして受け取ってくれないのだろう、とラシュも困惑を浮かべ、双方の間にしばらく沈黙が落ちる。
ややあって、沈黙を破ったのはラシュの方だった。
「ラシュ」
「……?」
「ラシュ。ラシュ = ハウレル、だよ」
猫人族の少年が自らの名を伝えているのだと理解するまで、ルナールはしばしの時を要した。
『知らない相手に物をもらってはいけません』という姉貴分の言いつけを思い出したラシュは、そういえばお互いの名前さえ知らないことに気付いたのだ。
何かを受け取るには知っている相手にならないといけない。そんなふうに微妙にズレた判断をしたラシュは少女にとっての『知っている相手』になるべく名乗りをあげ。
それを受けた狐人の少女は、まっすぐに自らを見詰める眼差しから俯いて目を逸らし、
「……ルナール。ただの、ルナールじゃ」
小さく沈んだ声で、ぼそぼそと名乗りを返したのだった。
ラシュと名乗った猫人族の少年は、口数こそ少ないものの、存外に押しが強い。
ルナールは手元の小瓶に視線を落とし、小さく嘆息する。
名を教えあったことで打ち解けたと判断されたのか、耳をぴこぴことさせながら、どこか期待に満ちた眼差しで再度押し付けてきたそれを、ルナールは結局のところまんまと受け取ってしまった。いや、なぜか追撃のように『すきなのは、さかな』とよくわからない主張をされたのもあり、受け取らざるを得なかった。
「……」
「む、むぅ」
ちらり、と少年のほうを窺えば、じいっ。と見つめてくる真ん丸な双眸と目が合った。
静かで、穏やかで、それでいてくりっとした眼差しは『飲まないの?』と雄弁に物語っている。無言の圧にルナールはうろたえた。
小瓶は手のひらにすっぽりとおさまるほどの大きさだ。中はとろりとした薄紫色の溶液で満たされてる。
ルナールは夜目に優れる狐人である。灯りに乏しい穴ぐらでも、それくらいのことは容易に見て取れる。しかし――それだけだ。
生まれてこのかた奴隷として、もしくはカイラム帝国にいいように使われてきた身の上だ。セラフィが教えてくれた以上の知識や学と呼べるものなどほとんど備わっておらず、必然、小瓶に満たされた液体が毒かどうかなんて見分けるスキルは持ち合わせていない。悪意や敵意、害意といったものに対する自身の嗅覚さえも、長らく信じていた相手に裏切られた今、もはや信じるに値しない。
「……っ」
締められた首の痛みと、呼吸のできない苦しみを鮮明に思い出して、ルナールの指先がわずかに震える。
思わずさすった首元には、彼女を戒め、縛っていた〝隷属の首輪〟はもう存在しない。酸素を求めて自ら掻き毟った引っ掻き傷が、じくじくとした熱と痛みを残すのみ。けれど刻みつけられた恐怖は少女をがんじがらめに縛りつけたままだ。
ルナールはけして無垢な被害者というわけではない。
同胞を守ろうとして使命感に駆られ、その実、彼らを死に追いやっていた事実に、彼女自身の心が耐えられない。騙されただけだと己を免罪するには、少女はあまりに素直すぎた。
それでいて、ラシュに自分から『敵だ』と明かしておきながら。糾弾されることを望んでおきながら。
もし死ぬのなら苦しみたくないと願う身勝手さに、ルナールは目を伏せてかすかにわらった。笑うではなく、己の愚を嗤うように、暗く沈んだ双眸が冷然と細まる。
ラシュはそんな少女を相変わらずじぃっと見続けていたが、やがて、ちいさくひとつ頷いた。すぐ近くにまで歩み寄ると、少し遅れて気付いたルナールの肩がびくりと跳ねる。
身構えて硬直したままのルナールの手からそっと小瓶をつまみあげ、そのかわりに暇そうに床をほじっていたラピッドクルス、らっぴーを少女の腕の中に押し付ける。ルナールの怯えの大部分は、盛大な困惑へとすり替わった。
「……ぇ、あ? な、なんじゃ?」
「ぴょ!?」
「らっぴーだよ」
「こやつの名を聞いてるわけではないんじゃがな? のう、ぬしよ、トリも驚いとるぞ……?」
「あったかいよね、らっぴー」
ほわほわと要領を得ない返答をするラシュに、『天然』、あるいは『マイペース』と呼ばれる手合に未だかつて遭遇したことのなかったルナールはさらに困惑を深めた。
手触りの良い羽毛はたしかに温かいけれど、少女が抱えるには成鳥となったらっぴーは些かサイズが大きく、不安定だ。腕の中でらっぴーは楽な姿勢を求めてうぞうぞぴぇぴぇと蠢き、ルナールはいよいよ『わらわ、一体何をされてるのじゃろうか』と途方に暮れる。
腑に落ちない様子のルナールが見ている前で、ラシュは小瓶の縁に口をつけ、躊躇うことなく半分ほどを口に含む。
小さな喉がこくりと動き、溶液を完全に嚥下したところで、ようやく少年の意図を悟ったルナールは瞳を揺らした。
(わらわは『敵』じゃと言うたのに。お人好し、じゃな……)
〝隷属の首輪〟によって絞め殺されかけていた時と違い、ルナールが工房を襲撃した愚かな獣人だとわかってなお、ラシュの瞳の中の真摯な輝きは揺らぐことがない。
ラシュから再び手渡された、中身が半分残った小瓶を受け取るのを、ルナールは今度は躊躇わなかった。――けして、腕の中でうぞうぞしている鳥類をはやく離したかったからだけではない。
くぴ、くぴと小さく音をたててルナールの喉を特製回復薬茶が滑り落ちる。
忌まわしき首輪に締め付けられた傷が痛んだが、それもほどなく引いていき、完全に消え去った頃、少女は目を瞠った。不思議な香りのする飲み物だったけれど、後味の中にひとつだけ、知っているものが含まれていたのだ。
「セラ、姉ぇ……」
ルナールが知っているということは、それはすなわちセラフィが教えてくれたと同義である。
福天草の香り。小さくて儚い、白銀の花弁。
それは、流行り病に懸かり熱を出して倒れたルナールのため、泥だらけになりながらセラフィが採ってきてくれた希少な薬草だった。
数日に渡る看病と、本来ならば休息に充てる時間に娼館を抜け出して薬草を探したのだろう。
言うまでもなく危ない橋だ。脱走に気付かれれば即座に〝首輪〟が絞められる。娼館のしごとに穴をあければ食事すらもらえないから、もちろん必死に働いた上で。
熱が下がって薄っすらと目を開けたルナールが見た、そのときのセラフィは、美しい銀の毛並みはよごれ、目の下には隈が浮かび、ひどくやつれていた。それでも少女の無事に涙を浮かべて喜んだ彼女を、ルナールはたまらなく美しいと感じて。一緒に泣いた。
『どうして自分なんかのために必死になってくれるのか』と。
ある日不安が抑えられなくなったルナールは、セラフィに直接尋ねたことがある。
『あなたのことを大事に想っているからよ』
わずかに困ったように眉根を寄せるセラフィに、少し拗ねたようにルナールは重ねて問うた。
『どうして大事に想ってくれるのか』と。
セラフィは、やっぱり困ったような、どこか観念したような笑みをたたえて、すらりとした足を折った。ルナールと視線の高さをあわせる。
『わたし、死ぬのが怖かったの』
それは誰だってそうだろう、そう言いかけたルナールを視線で遮って、セラフィは。
『わたし、ひとりで死ぬのが怖かった。モノみたいに扱われて、いつか壊れる、それが獣人奴隷。そうなったとき、誰も悲しんでくれるひとがいないのが、怖かった。誰にも、なんにも残せないまま、ただ壊れて、いなくなっちゃうのが怖かったの。わたしが生きてた意味が、なんにもない気がして』
その考えは、当時のルナールには難しすぎた。正直なところ、今のルナールにさえ。
『わたしがいなくなったとき、あなたに悲しんでほしいから。あなたに泣いてほしいから。ね、結局自分のことばかり。ひどい狐なのよ、わたし』
セラフィの考えはよくわからなかった。わからなかったけれど、『そんなことない』と縋って、幼いルナールは泣いた。他でもないセラフィにさえ、セラフィのことを悪く言ってほしくなくて、くるりと耳をまるめ込んで、わんわん泣いた。
彼女はルナールにとって初めての家族だった。初めての絆、はじめての温かさだった。
セラフィがそばにいてくれるだけで、ルナールの心は安堵した。
セラフィは、優しく見守ってくれる月だった。
それはあの男に――ジレット = ランディルトンに拾われて以降も変わらない。ずっと。ずっとそばで見守っていてくれる。そのはずだった。なのに。
『”みんなの力を、貸してくれ!”』
懐かしい香りによって思考の渦に囚われていたルナールは、直後、仄暗い穴ぐらに意識を一気に引き戻された。
ラシュでもらっぴーでも、もちろんルナールでもない、第三者の切迫した声によって。
その声は、びくぅっ! と尻尾を逆立てて驚愕しているラシュの、戒めには似つかない灰色の首輪から響いていた。