それぞれの戦い - いま、ここにいる意味 そのいち
ぴちゃり、びちゃり。
地下祭壇のある広間からは、粘り気のある水音が断続的に聞こえてくる。
あの日もそうだった。
ただひたすら無力で。惨めで。このまま消えてしまいたいと願っていた、あの日。
あの日も、こんなふうに心細くて。ルナールは膝を抱えて縮こまっていた。
正確には、その時はまだ、少女は『ルナール』ですらなかった。
『それ』は獣人奴隷として飼われていたものを母として生まれたらしい。物心がついたときからずっと、自由というものは存在しなかった。
自分にとっての父や母なる存在が誰なのかさえ知らない。生きているのか、死んでいるのかも。
他のちびたちと同じ狭い室内に押し込められ、ほとんど水みたいな粥を奪い合って生きた。常に空腹できりきり痛む腹を抱え、弱いものから死んだ。そしてそのうちまた新しいちびが放り込まれてくる。
そんな日々をどれだけ過ごしたかもわからない。その狭い空間が『それ』にとっての世界の全てだった。
はじめて外に出されたとき、『それ』の首には無骨な戒めの輪が取り付けられた。ニンゲンに逆らえばどういうことになるのかも、そのときに身をもって理解させられた。
奴隷商の嗜虐的な笑みに怯え、涙と涎をこぼしながら喉に掻き込んだ空気の味を覚えている。どこまでも惨めな、饐えた味だった。
降り出した雨に打たれ、泥濘んだ地面が奏でる、びちゃりとこびりつく音に見送られ、『それ』を迎えた黒い檻が閉じる。
糞尿の跡がこびりつき、薄汚れた冷たい檻の中。どこぞかに売り渡され、ぎしぎしと軋む馬車で運ばれていく、がりがりに痩せた子供の、名無しの獣人奴隷。それが少女を表すものの全てだった。
無力で、惨めで。このまま消えてしまいたいと願った少女の望みは聞き届けられるはずもなく。
ただ膝を抱えて、どこに運ばれているのかもわからないまま、檻の中で数日を過ごした。
びちゃりと撥ねた泥がこびりついて、たまらなく気持ちが悪く、寒かった。
買われた先は、それなりに大きな娼館だった。
育てばモノになりそうな顔立ちをした奴隷を、まだ安いうちに買い付けておいて小間使いにする、という目的で『それ』は買われたのだ。
『あなた、お名前は?』
檻の扉が開かれて、けれど『それ』は聞かれた意味がわからなかった。
問われ、きょとん、とした顔で見つめ返した相手は――美しかった。
彼女は、言葉も満足に理解していない『それ』に意思疎通するための言葉を教えた。
自分の分の食事も分け与えた。
怯えて噛み付いたときも静かに耐えて優しい笑みを浮かべた。
そして、『ルナール』という名前をくれた。
美しく気高い月光のような、それでいて静かに降り積もった雪原のような。
優しい銀の色彩を持つ彼女は、ルナールにとっては先輩にあたる同族の奴隷で、名をセラフィといった。
ルナールはセラフィが大好きだった。なによりも、誰よりも、大好きだった。自分自身よりも大切な人が存在し得るということを、ルナールは知った。
『ルナールの毛並みはとっても素敵ね。まるで月に照らされた麦穂の輝きのよう』
手の掛かる妹分を慈しむように、セラフィは目を細める。
撫でてくれる指の優しさを、温かさを、少しばかりのくすぐったさを。思い出そうとして、喉の奥底から込み上げた嗚咽が邪魔をする。
「ぅっ……く、ぅう」
娼館からさらに自分たちを買い上げた、新たな主は『獣人の楽園を作ろう』と言った。
その言葉を信じて、ほうぼうを駆けずり回って、各地の同胞を仲間に引き入れて。
『楽しみだね』と笑いあったセラフィは、もういない。
彼女だけではない。マァルも。シシカも。フィアとフェイの兄弟も。リャナもヤールータもココルもスゥも。ヌザもエピルナもパルもスルスーもケブラもテオもマッキナもクーフもドミもラワンノもモラプカも。
この世のどこにも。もう、いない。
何者にも虐げられることのない居場所を望んだ、ただそれだけなのに。
甘言に乗せられた代償は、あまりに重すぎた。
生き残ったのは、おそらくルナールただひとりだけ。
「あああああああああああああああああああああああぁああああああああっっ…………!」
狭い通路にルナールの慟哭が氾濫する。
どれだけ後悔しても、懺悔しても時間は戻らない。失われた命も、二度と戻ることはない。
理想と現実はどうしようもなく乖離してしまった。
もう何も見たくない。聞きたくない。
ルナールは稚児のように体を震わせ、冷たく凍った心から溢れる枯れない涙がとめどなく頬を伝う。
「……んん」
泣き崩れるルナールを通路の奥側に庇い、ラシュは困ったようにへにょりと眉を下げた。
泥から湧き出る獣を相手取る傍ら、呆然としていたルナールをなんとかかんとか引っ張って、泥でべしょべしょになった祭壇のある広間から、すぐ脇にあった狭い通路にまで逃げ込んで以降、彼女はずっとこの様子である。
ラシュには誰かを慰めるスキルがない。たまに小さいのほうの姉のアーシャもへにょっているときがあるけれど、泣きべそをかくのは大体の場合自分である。慰められることはあっても、泣いている子をどうこうしてあげられるような甲斐性は持ち合わせていないのだ。
とりあえず、カップに入った飲み水と、あとで食べようと思って仕舞ってあった齧りかけの干し肉、頭を押すと「ぴぇー」と鳴いて、ぺかーっ! と光る、らっぴー型の手乗りサイズの魔道具、やけに精巧な造りの木彫りの蛇、河原で拾った綺麗な丸くて白い石、成鳥になってなお頑なにラシュの頭によじ登ろうとしてくるらっぴーなどを、蹲るルナールの前にそっと並べてはみたものの、彼女がそれらに手を付ける気配はない。こまった。
「んんー」
そのまま放っておくわけにもいかず、さりとてどうすることもできないラシュは、薄闇の中から、時折、咆哮をあげて狭い通路にねじこまれてくる獣の腕や鼻先を、”硬化”された木剣でぶすーぶすーと刺しながら途方に暮れた。
そうこうしている間にも、封印の祭壇からは泥が湧き出し続け、少しずつその水位が上がってくる。
通路の奥は上へ上へと伸びていっているようなので、もっと逃げたほうがいいかもしれない。
「なにゆえ……」
ぶすーっと鼻っ柱に痛撃を受けた泥の獣が、怨嗟の断末魔をあげながら泥に還っていくのを見守っていたラシュは、背中にかけられた小さな声に、猫耳だけでピクリと反応した。
「なにゆえ、わらわを助ける」
「……んー?」
ルナールの悄然とした呟きが、狭い通路に落ちる。
鼻を啜り、涙声の、弱々しい声。
問われている意味がわからなかったわけではないけれど、ラシュは少女に向き直り、はてな? と小首を傾げた。
困っている。泣いている。だから助けた。
それはラシュの憧れる兄貴分、オスカーの在り方であり、そんなところに疑問を持たれるとは思ってもみなかった。
「わらわはぬしらの敵じゃろう」
「んん……??」
憔悴してひどく隈のできた少女の翠の瞳が卑屈な色を宿してラシュを見上げる。
けれど、ラシュは彼女から敵意を微塵も感じなかった。
背を向けている間に攻撃されることもなければ、そもそも立ち上がる気配さえないのだから。広間で虎視眈々と機を窺っている泥の獣のほうが、よっぽど敵意に満ち溢れている。
らっぴーも『なにを言ってるんだ、この小娘』みたいな雰囲気を滲ませて「ぴぇー」と鳴く。微妙に気まずい沈黙が落ちる。
「――いや、あの、あったじゃろ。ほれ、ぬしらを『解放』しようとして、わらわが乗り込んだこと」
いまいち要領を得ないラシュの様子にルナールは少しばかりげんなりとしたようで、しかしそのままでは話が進まないと判断して『自分が敵である理由』を自ら説明する。
あの頃はただ無邪気に、皆幸せになれると信じて各地の同胞たちを解放してまわっていた。
その一つひとつがルナールの罪過。ありもしない希望を吹き込み、彼らを死へと誘った大罪人。彼らには死してなお遺骸を弄ばれるに足る咎なんてなかったのに。名前のなかった頃のルナールと同じように、望みなんてなくとも、ただ、毎日を生きていたかっただけなのに。
全てに疲れ切ってしまったルナールは、糾弾され、罵倒され、断罪されるのを、ひび割れた心で望んでいたのかもしれない。
けれど少女の懺悔を受けたラシュは、しばらく「んー?」と眉に皺を寄せて考え込み、小さく「あっ」と声をあげた。手をぽんと打つ。
「あー。あのときの、子?」
「……反応うっすいのぅ」
断罪どころか、『そういえばそんなこともあったような?』くらいのとぼけた反応を返してくるラシュに、ルナールはがっくりと肩を落とす。
(『子』呼ばわりされておるが、わらわのほうが年上じゃぞたぶん)
どうにも深刻になりきらないというか、こんな状況下であってもぽやっとした空気を纏ったラシュに、知らず知らずのうちに毒気を抜かれたルナールは小さくため息をつく。
小石やカップと並べて置かれたままのらっぴー(成鳥)は『わしが育てた!』と言わんばかりに胸を張り、「ぴぇ!」とどこか誇らしげに囀る。
ラシュに片手間でぐさーっと刺された泥の獣が、おどろおどろしくもどこか虚しい叫びをあげてずぶずぶと泥へと還っていき、この微妙な空気を作り出した自覚のないラシュは「ん?」と再び首を傾げるのだった。