全てのヒトのガムレルの戦い 決着
終わりの時が近い。誰もがそう感じていた。
人類を鏖殺する存在の産声を、全ての民が聞いていた。
しかし。うずくまって終わりをただ待つような無欲さをかなぐり捨てて力を合わせる民衆の姿は、カイマンに一縷の希望を灯す。
「射てるのか?」
投射魔導具〝空を貫くもの〟にはところどころ罅が走り抜け、射軸も斜めに傾いている。剥き出しにされた魔法陣には後から足された術式がいくつか殴り書かれており、赤黒く変色した色彩からして、染料は血液だろう。
端的に尋ねたカイマンに対して、技師は心外だ、とでも言わんばかりに片眉を吊り上げる。
「はン! 何言ってやがんだ、この坊っちゃんは。言うに事欠いて『射てるか』だと?」
「ああ、1000%笑ってしまうな。良いか、貴殿が言うべきは――」
「『射て』だ」
口許をニッと笑みの形に曲げて、力なくハイタッチを交わす男たち。
孤独じゃない。それはなんて心強いことだろう。一刻を争う窮地であることは変わらないが、カイマンもつられて口の端を持ち上げる。
同刻、『災厄の泥』目掛けて一直線に突き進むアーニャは、カイマン同様に敵の狙いを察して顔を青褪めさせていた。小さく、鋭く息を吐く。
だってそっちは。その方角は。
『"逃げて! アーちゃん、逃げてぇえええええ!"』
首輪を介した”念話”は、残念ながらもう届かない。
オスカーが倉庫内に『災厄』を閉じ込め、転移装置が破壊され接続が切れたためだが、もし仮に声が届いたとしても、今から逃げたのでは間に合うかどうか。
「――――ッ!!」
今も優しく猫耳を打つ歌声は、アーシャがまだ戦っている証だ。
歯を食いしばって不安な想像を噛み潰し、アーニャはなおも地を蹴った。
町から離れれば離れるほどに、むせかえるほどに濃い瘴気がわだかまる戦場で、アーニャの意識は完全に泥に向けられている。
周囲を魔物に囲まれて余所見など普通は自殺行為以外の何物でもない。しかし彼女の場合は多少事情が異なる。動きが速すぎるのだ。凄まじい速度で戦場を駆け抜ける彼女を捉えられる者など、『歌声』で気勢を削がれた魔物の軍勢には一匹たりとも存在しない。
視認したと思った次の瞬間にはすでにすれ違い、彼らが勢いよく振り向いた時点で、その背ははるか向こうに遠ざかっているのだから。
身体能力に優れた獣人の中でもトップクラス、さらに魔道具と『歌』の補助によって潜在能力を遺憾なく引き出されたアーニャは、まるで流星のごとき残光の尾を引いて、踏みしめた大地を爆砕する勢いでひた疾走る。
けれどその生物離れした速さをもってして、見据えた先の敵はなお遠かった。
異形に近づけば近付くほどに魔物の数は減り、やがて周囲からは魔物の姿が消え失せる。あの『泥』を形作る栄養源として喰われたのだとアーニャは直感的に理解し、身震いした。
体表いたるところから突き出したいくつもの腕や目、無数の口は、それだけの『いのち』を貪り喰らった証。
「こんの不細工! べちゃべちゃ! こっち見ろぉおおおおおおおおッ!!」
声を限りに絶叫すれども泥の巨人は見向きもしない。ただ豪然とそびえ立ち、滅びの詠唱を紡ぎ続ける。アーニャの焦燥が大粒の汗となり首筋を伝う。
巨人のぽっかりと落ち窪んだ顔前に展開された、紅緋の極大魔法陣。凶悪な光の明滅を繰り返して収束していくそれは、周辺一帯の魔力を貪欲なまでに吸い上げる。禍々しい怨念で編まれた魔術が大地を鳴動させ、大気を震撼させた。
どうする。どうすればいい。
答えをくれる者は誰もいない。けれど、諦めるわけにはいかない。アーニャは必死に考えを巡らせる。
きっと何か手があるはずだ。きっと、どこかに。『これまで』のどこかに答えがあったはずだ、と。
『泥』はこちらを完全に無視している。狙いをアーニャに引きつけるのは無理だ。
かといって撃たれる前に倒すのも不可能だろう。ナイフの射程に入る前に極大魔術は完成してしまうし、なによりアーニャの攻撃力では泥の守りを突破できない。
先ほどの『泥』をなんとか斃せたのはカイマンが防御を引き剥がしてくれたからで――
「あ――……!」
そこまで考えて、アーニャの脳髄に電流が走ったような閃きが生まれる。
さっきの泥をやっつける寸前に、彼女は見ていたのだ。カイマンをぶん投げ、驚いた泥の巨人が詠唱を失敗した瞬間を。
そして連鎖的に思い出したのは、明け方にオスカーの鍛錬に付き合っていたときに聞いた話。彼はたしかに言っていた。『魔術の発動を妨害してやれば、行き場を失った魔力は暴発する』と。
『だから魔術師は前衛に守られながら詠唱の準備をするんだ』
『じゃあウチがカーくんの前衛やる! 今度はウチがカーくん守ったるからな!』
そう言って意気込むアーニャの髪を、どこか困ったような苦笑いでオスカーは優しく撫でてくれた。
町が起き出す前の、ふたりだけしか知らない記憶。永遠に失われてしまった工房の屋上で、白い息を吐き出した思い出。
アーニャは目を見開き、この一瞬の閃きを即座に行動に移した。
『倉庫改』から抜き放った銀の刃は、アーシャから借りた1本を抜きにすれば、オスカーに貰った最初にして最後の一振り。ロンデウッドとの戦いで半ばまで溶かされ、刃を失ったナイフ。
赤い瞳をカッと見開いて、剥き出しにした牙を獰猛に食いしばり、己の体を目一杯弓なりにしならせて、怒涛の一投を繰り出した。
(ウチのこと無視しよるなら好都合や! 当たれぇええええええええええええェェッッ――!)
走力まで加えて打ち出された銀の閃きは、淀んだ大気に風穴を穿ち猛進する。
アーニャと『泥の巨人』の間に存在していた距離を瞬く間に食い破り、発動間際の極大の魔法陣に着弾する――その寸前。
顔のない貌で巨人が嘲笑ったように感じられて、アーニャは肌を粟立たせてる。ぎり、と奥歯が鳴った。
(あいつ、無視しとったんはわざとか!)
その戦慄を肯定するように、巨人の体表から無数の泥の触手がまるで壁のように伸び上がる。
直進するしかない銀はそのまま魔法陣の寸前で泥に呑まれ、あとに残ったのはわずかな白煙のみ――
そして。その一瞬の攻防が最後の機会であったかのように。
鮮烈に輝く魔法陣が、極大魔術の完成を告げていた。
「アーちゃん……!」
アーニャが顔面を蒼白にし、呆然と呟く。それとほぼ同時に。
詠唱を終えた『災厄の泥』は破滅の弓を解き放った。
『”救イ清メル獄炎ノ抱擁”』
世界が純白に塗りつぶされた。
鮮やかすぎる白光が、闇朱に閉ざされた天地の狭間を眩く灼き裂いていく。
「――――――――――――――――――――ッッッッッッッッ!!」
自らの叫ぶ声すら聞こえない。
解き放たれた無慈悲な破壊の劫火は、アーニャが駆け抜けた戦場を一直線に駆け抜け、リーズナルの屋敷へと驀進する。
遮るものは、なにもない。
いや。より正確にいえば寸前までは、なかった。
泥の壁がアーニャの銀の刃を遮ったことの意趣返しのように、それは飛翔する。
ぐるん、と〝空を貫くもの〟が射ち出した最後の一射が、どんぴしゃりのタイミングで極光の射線上に割り込んだ。
「こんな立ち回りを、よもや二度もすることになろうとはね!」
投射魔道具が放った最後の弾は、砕けた東門の瓦礫とカイマン = リーズナルその人だ。
ガチガチと鳴る歯の震えを強がりで覆い隠し、極大魔術の射線に飛び込んだカイマンと、瓦礫の表層を覆うのは鮮烈な紫。
携えた黒き剣の中で眩い輝きを放つ花弁によって付与された”硬化”の魔術だ。
屋敷の周囲一帯を根こそぎ吹き飛ばしてお釣りまでくるであろう極大魔術に対して、その身ひとつで飛び込むなど、荒唐無稽。前人未到。狂気の沙汰。
――否。他ならぬカイマン自身が、極大魔術を受けとめるのも、ぶん投げられるのも、これで二度目である。
『一度目はできたのだから』なんて嘯く彼を問答の末射出した技師たちや町人が揃って目を点にしたのは言うまでもない。
”硬化”を受けた瓦礫と劫火が接触し、凄まじい熱と衝突音を撒き散らす。
ビキ、ビキリと甲高い音を立て”硬化”がひび割れると、秒を待たずに紅蓮の濁流が瓦礫を融解させていく。
「ぅ、ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ――!」
滅びの光を切り裂く黒き剣士が、雄叫びをあげる。
体がばらばらになりそうな衝撃にカイマンの視界は二重にぶれて見えるが、握った黒剣の中央では、けして朽ちぬ紫の花弁が燦然と輝き、極光と競り合う。
死にたくないと本能がわめき立てる。
生存のために全ての意識が鋭く研ぎ澄まされていく。
全ての音が消え失せた世界で、それでも心に響く『歌』が、まだカイマンを支えている。
『”希望は消えない いつだって 隣を向けば ほら 孤独じゃないから”』
大丈夫。受け止められる。いや――――、
「受け止めてみせる!!」
”硬化”が破られるまでの、流星のように一瞬の輝き。
意思の力と紫の魔力を黒剣の光沢を輝きに乗せ、カイマン = リーズナルは祈るように咆哮する。
カイマンが永遠のような一瞬を拮抗するさなか、
「これがっ! 最後の一本、なのですっ!」
戦場の背後に顕現した泥の巨人の、それよりもさらに後方から、若い女性の声が響き渡る。
その声に合わせて、天高く射られた矢は白い光を纏って放物線の軌道を描いて飛翔し、その頂点で無数に分裂すると、重力加速度を得て一気に降り注ぐ。
純白の矢は『泥の巨人』の足元、泥が緩やかに広がった裾野部分に着弾すると、付近の泥を一時的に吹き飛ばした。
その結果を見届けるよりはやく、同じ声――ガムレルに亡命するためグレス大荒野を抜けてきた、セルシラーナ = ヴェルゼ = シス = シンドリヒト皇女殿下が翠玉の瞳を燦めかせて馬上から号令する。
「あとは頼んだのです、我が騎士!」
その声を受けて、すでに飛び出していた黒髪の少女は、触れれば斬れるような鋭い視線をまっすぐに『泥』へと向けた。
「”閉ざされし銀の相剋、我が手に宿りて打ち払う力と成せ”」
少女の掲げる掌に真紫の閃光が散る。
セルシラーナの騎士、リジット = ランディルトンは一本に結わえたトレードマークの後ろ髪をふりんっと靡かせて軽やかに泥を飛び越えると、矢の降り注いだ仮初の空白地帯を踏みしめた。髪留めが彼女に呼応するように小さく瞬く。
「"出でよ紫輪の儔 紅華、雪華――ッ!"」
凛と冴えた声が響き、カチリ、と鍵の噛み合う小さな音を残してその手に召喚された一対の夫婦剣。
一直線に突き進んだリジットは、そのまま左手に雪華を掲げる。
途端、雪華の刀身を、白く輝く氷の刃が覆っていく。長く、鋭く伸長した氷刃は少女の身の丈の倍では効かないほどの超大剣を形成する。
一度振り抜いてしまえば持ち上げることすら不可能な氷の刃を、リジットは打ち下ろす際に体の捻りを加えて斜めに薙いだ。
「ヴィィ”ィ”ィイイ”イ”イ”イ”イ”イ”イ”イ”イ”イイイイイイイイイイァァァアアア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”アアアアアアアアアアアアアアアアァッ――――――!!」
思わぬ方向からの攻撃を受けた災厄の泥は怨嗟の咆哮を放つも、氷の刃で両断された足部分を支えることは叶わない。ぐら、と傾いてバランスを崩し、顔貌の正面に展開していた魔法陣が本来の射線から逸れる。
カイマンの守る範囲から外れた光の束がリーズナル邸を掠め、アーシャが歌声を届ける拡声魔道具の部屋から、わずかに一部屋分だけ逸れて屋敷に大穴を穿つ。そのまま上滑りした極光は、朱に染まった空を白く灼き焦がしていく。
希望の『歌』は途切れない――!
リジットは雪華を振り抜いた硬直を、足元に氷柱の足場を作ることで相殺し、紅華を正眼に構えた。
刀身に眩い炎が宿ったところで、少女を叩き潰さんと落とされた泥の拳を跳躍して躱す。
「あなたが誰かは知らないけれど。討たせてもらうわ」
かつて同じ学び舎で勉学に励んでいたはずの級友の、変わり果てた姿。『泥』の核となった人間を思い出す。
わずかな疼痛を感じて瞑目し、けれど一瞬で振り払う。
そんなリジットの視界に、『泥』の正面から猛然と突き進んでくる者の姿を見出して――そしてその爆乳に、こんな状況だというのにリジットは額に深く皺を刻んだ上で二度見して――学術都市で一戦交えた『泥』の核と同じ場所を、えぐり出すように紅華を踊らせる。
咲き乱れるは、紅蓮の大輪。泥の巨人の表面をうねり、のたうった炎が『泥』の鎧を焼き滅ぼし、焦がして抉り取る。さらには雪華の返す刃による斬撃が泥を凍てつくかせ、再生を著しく妨げる。
「これで、終いやぁぁああああああああああああああああああああああああっ!!」
『ヴァァア”ア”ア”アア”ア”ア……忌々シキ、神敵ヨ……』
刹那、剥ぎ取られた泥の中枢に飛び込んだアーニャが、ガムレルにおける最終決戦の幕引きの、銀の刃を閃かせた。