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僕と彼女の今日の料理

 ふわふわやわらかな温もりに包まれ、眠りについていた僕だったが、さすがに空腹感には勝てずに意識を取り戻した。

 痛い苦しいとか、悪夢とか以外の、何か幸せな夢を見ていた気がする。最近僕が眠ったり意識を失ったりしている場合には、そういうつらい状況ばかりだったため、今回はリラックスしてずいぶんとゆっくり寝てしまったようだ。頭痛はすでになくすっきりしたものだが、よく寝た気だるさと、幸せな気分の余韻のようなものがまだ残っていた。


 寝ぼけ眼をこすって目を瞬いてみると、すでに太陽は天頂高く登り、室内に差し込む日差しは柔らかなものとなっている。どうやらすでに昼過ぎとなっているようだ。

 少しばかり、うとうとしてしまっただけのつもりだったのに、ずいぶん長く寝てしまったものである。


「おはようございます、オスカーさん」


 頭の上からの声に目を向けると、いつも通りにっこりと微笑むシャロンと目があった。

 ふわふわふかふかのベッドだと思っていたものは、彼女の太ももだった。

 そういえばーー昨晩はシャロンに膝枕をされて、泣きついて、そのまま寝てしまったのだったか。


 いや。待て待て。

 たしかに僕が寝てしまった時には膝枕をされていた。しかし、まさか半日以上そのままの姿勢なんてことは、いかにシャロンといえどあるまい。おそらく。きっと。ーーうん。実際はわかってる。彼女ならやり兼ねない。


「あの。もしかして、シャロン。

 半日以上そのままの姿勢だったの?」


 半ば引いている僕である。


「いえ。

 さすがにオスカーさんが寝違えでもしては大変ですので、適度な間隔で姿勢を変えさせていただいておりました」


「いや僕じゃなくてさ」


「私ですか? はい。ずっとこの姿勢でした。

 オスカーさんを眺め続けていられたので、眼福でありましたよ」


 シャロンはそのままの姿勢であるらしかった。

 そのままの姿勢で僕の姿勢をころころと変えさせていたとは。変なところで無茶苦茶器用である。


 ただ、その。僕に尽くしてくれる姿勢は大変嬉しいことではあるのだけれど、頑張りの方向性が微妙にズレている気がしないでもない。




 ようやく起き出してきた僕が階下で遭遇した村人たちの反応も、昨日とは違った感じになっていた。


「あ。えっと、その、えっと。

 おはよう、ございます」


 村長の娘さんから、たどたどしい挨拶をされる。

 なんだろう、昨日までと違ってドン引きされている感じがするぞ。


「ああ、おはよう。

 といってももうお昼も過ぎているみたいだけど」


 応じる僕にも、曖昧な笑みを返してくる娘さん。

 そのままそろり、そろりと台所のほうへと逃げるように去っていってしまった。

 さすがにちょっと傷つく僕。


「なあシャロン。僕が寝ている間に何かあったのか?」


「取り立てては、なにも。

 夕飯の準備が整ったという連絡を、オスカーさんがおやすみでしたのでお断りしたり。

 夜食が必要かという申し出を、オスカーさんがおやすみでしたのでお断りしたり。

 朝食の可否をと様子に伺いに来られたところを、オスカーさんがおやすみでしたのでお断りしたり。

 昼食の準備の際に一応寄っていただいたのを、オスカーさんがおやすみでしたのでお断りしたりしただけです」


「それら全部で膝枕状態なのを目撃されてたら、そりゃドン引きされるよ」


 もしかしなくとも、僕はとんだ鬼畜野郎に映っているのではあるまいか。可愛い女の子に半日以上膝枕をさせる鬼畜男。

 村での噂の広がる速度というのを、僕は故郷にて身にしみて知っている。

 朝から散々な気分である。もう朝じゃないけれど。



 村長の家から出て村の様子を見て回ってみても、行く先々で興味深げな視線を向けられるのだった。

 それは村を救った救世主に対する眼差しも含んでいたのだけれど、膝枕の上で爆睡したという恥ずかしさでじろじろ見られていると思っている僕にとって、そんなところに気づく余裕はないのだった。


「あ。ヒンメルさんですよ、オスカーさん」


 そんな僕の様子も気にせずに、あたりを見渡していたシャロンは見知った名前をあげた。


 シャロンの言葉通り、忙しげに働く村人たちのなかに、昨日の商人の姿があった。ラルシュトーム = ヒンメルその人である。

 ヒンメル氏も僕らの姿に気づいたようで、軽く手を上げて歩み寄ってきた。


「昨日ぶりですな。オスカーさん。

 昨夜は……ええと、ゆっくり寝られたと聞いておりますぞ、はい」


「ぐはっ」


 直接的な言葉によるダメージを受ける僕だった。村のネットワークはこれだから。噂話には尾ひれ背びれがつきものである。気を引き締めてかかりたいものだ。

 ちらちらと横目でシャロンを伺いつつ、こほんと咳払いをするヒンメル氏。


 それに対しては昨日のように僕の服の袖を掴みつつ小動物のような細かな動作で、にこっと微笑みながら会釈するシャロンにより、ヒンメル氏も「ぐはっ」とダメージを受けたようであった。

 可愛いからね、仕方ないね。痛み分けということにしておこうね。


「いやはや。なんともお羨ましい。

 それはさておきましてですな、あなたの馬車を、村の復興のために使わせてもらっておりますぞ。

 事後承諾となってしまって申し訳ないですが」


 ヒンメル氏が指し示す方には、確かに昨日ごっそりと改造した例の荷馬車が、木を満載にして村に入ってきたところだった。


 燃えてしまった家屋を立て直したり、補強したりするのだろう。

 幌を取り去り、大きな木を8本も積載しているというのに、村人たちが見守るなかスイスイと荷馬車は稼働しており、銀色の車輪が日を反射して眩しく光っていた。


「いや、あれヒンメルさんの馬車ですから。僕としては好きに使ってもらえればと。

 何か食べてからでよければ、手伝いましょうか。木材の加工とか」


「わかりました。荷馬車の金額交渉につきましては、またいずれ。

 お昼がまだなのでしたら、ちょうど良いので私の家へおいでください」


 ヒンメル氏の申し出に一も二もなく応じると、僕が応じたならば反対する気などもとよりないとばかりに、シャロンも半歩右後ろについてくる。


 『食べる間も惜しんで一晩中お楽しみ』という噂は本当でしたか、と続けて呟くヒンメル氏の声は聞こえなかったことにしたかったが、あまりにもダメージがあったためがっくりと項垂れる僕。尾ひれ。尾ひれがすごいよ。もう尾ひれが本体だよ。


 シャロンもシャロンだ。自身の頬をおさえていやんいやんしていないでしっかり否定してほしい。お楽しみってなんだ。膝枕の柔らかさのことなら確かに楽しんださ。でもそういうニュアンスで伝わっている気がしない。でも実際は膝枕を堪能していただけです! というのも恥ずかしくてなかなか言えたものではないのだ。

 そうして考えるうちに、半日以上堪能していたシャロンの柔らかさ、温かさ思い出してしまい、ぶんぶんと頭を振る。ばっちり挙動不審な僕であった。



 ヒンメル氏に促されるまま、村の奥地にまで戻ってくる。ちょうど村長の家からすぐ側、裏には木立がまばらに並んでいる。

 そうして見えてきたヒンメル氏の家は、一階部分が商店の店先となっているようだ。

 標準的な家屋よりもやや大きいその家にたどり着くと、ヒンメル氏は店を切り盛りしていた女性に声を掛けた。


「ソフィア、いま帰ったよ。

 ハウレル夫妻に昼食を用意してくれるかい」


「あらあら。あなたもどうせ食べていないのでしょう?

 ちょうどいいわ、少し遅いけれどお昼の準備をしますね」


 そう言って応じたのは、線の細い感じの、おっとりほんわかした雰囲気のある女性である。

 昨日、村長宅で紹介を受けたのをおぼろげに覚えている。ソフィア = ヒンメルさん。ヒンメル氏の奥さんだ。

 歳の頃はヒンメル氏よりひとまわりほど若く見える。恰幅の良いヒンメル氏と違い、どちらかというと痩せ気味である。

 しっとりと自らの夫を見るその笑顔は落ち着いた雰囲気をさらに際立たせている。


「夫妻、うえへへへオスカーさん。ハウレル夫妻ですってオスカーさん」


「ちょっとシャロンは落ち着こうか」


 シャロンも普段通りにっこりと微笑んでいる状態ならば、並び立つものなど居ないほどの美貌の持ち主だというのに、ちょいちょい言動がこうなってしまう。


 そんな僕たちのやりとりを微笑ましそうに眺めつつ、ヒンメル夫人はいそいそとお店を休止する準備を始めた。

 言葉を交わさなくてもヒンメル氏と作業を分担し、効率よくぱたぱたと進めていくその様は、夫婦の息がぴったりであることを遺憾無く知らしめていた。

 ああいうの、なんかいいなと思う。


「私たちも、幸せな家庭を築きましょうね」


 そっと寄り添って、僕の肩に額を押し当てるようにじゃれついてくるシャロンの様子に、ガラにもなく僕は「そうだな」なんて返しちゃったりしたのであった。

 自分で言い出しておいて、僕が肯定するとは思っていなかったのだろう。照れたと思われるシャロンが頭をぐりぐりとぼくにめり込ませてくるまで、1秒と掛からなかった。ぐりぐりうりうり。


 余談ではあるが、その時ちょうどヒンメル商店へ買い物に来ようとしていた村人は、とつぜんの桃色空間に即座に回れ右をした。

 村としてはもはや珍しいものでもなくなったヒンメル夫婦の仲睦まじい様子はそれとして。

 "熊殺しの女神"と"車輪のオスカー"の噂話が、僕らの預かり知らぬところでさらに更新されることになるのだった。




「さて、と。なにかリクエストはあるかしら?」


 商店の2階部分、ヒンメル夫妻の生活するスペースへと招かれた僕らの前で、ヒンメル夫人はエプロンを付けながら尋ねる。

 1階と違って質素なものだが、それでも商人の家らしく、地図や本などの高価なものが整然と棚に並べられたり、綺麗に保たれている台所など、管理が行き届いていることが見て取れる。


 それだけに。大きな袋に詰められた白い粉がででんと場違いに置かれているのは不思議な絵面だった。

 "全知"によると、あの粉は《サモチ粉》である。


「あの大量のサモチ粉はいったい」


「ああ。あれは昨日、村の非常用食物庫が燃えてしまいましたのでな。

 オスカーさんのご活躍によって火は消し止められたのですが、そのときに湿気ってしまい早く消費しないといけないものを、安く譲り受けたのですよ。

 商人としての役得ですな、はっはっは」


 サモチ粉は麦やモロスを挽いて作る白っぽい粉で、保存が利くものだ。

 臼を使ってごりごり挽くのはわりと重労働であり、もっぱら畑作ができない時期に少年たちに割り当てられる仕事として知られている。

 お湯で溶いて粥のようにして食べることはできるが、そこに積まれている袋は到底二人で消費しきれるような量ではない。


「ヒンメルさん、ああ言ってますけど。

 ある程度飼料に回したとしても大部分破棄するしかなかったので、無理にでも村長さんにお金を握らせて引き取ったんですよ、あれ」


 シャロンが耳打ちしてくる。大体そんなことだろうとは思っていたが、つくづく儲けに遠そうな性格をしている商人だ。毎日こんな感じでは、ヒンメル夫人もなかなか大変ではないだろうか。


「それじゃあ、ソフィアさん。

 リクエストなんですけど、イツ・クルソスは作れますか」


「いつ、えっと。ごめんなさい、わたしの知らない食べ物のようね。簡単かしら?」


「作るの自体は難しくないです、少し手間ですが、それでもよければ。

 サモチ粉とブルガ、塩と卵があれば、あとは僕の手持ちで作れるので」


 僕の意図に気づいたらしいヒンメル夫人はにっこりと笑顔を返すと、ちくりと主人を牽制した。


「サモチ粉が使えるのは助かるわー、この人、すぐ考えなしに買ってくるお馬鹿さんなんです。もう慣れましたけどね。

 そのイツ・クルソスというのはどういうお料理なんですか?」


 夫人からもお馬鹿さん呼ばわりをされ、うぐぐと唸るヒンメル氏を黙殺する。

 たしかにお人好しがすぎるので、この程度は言われてしかるべきだろう。きっと彼はやめないのだろうし。


「肉料理の一種、かな。僕の故郷でのご馳走でした。

 お恥ずかしながら、僕の大好物で。母が、何かの記念のときによく作ってくれたんです」


 たとえば、初めて文字を書けたときだとか。

 たとえば、初めて魔術を使えたときだとか。

 そういう、思い出深い料理なのだった。


 僕の好物発言に、すぐ側にいたシャロンが俄然興味を引かれたように、がばっと顔を起こした。

 その表情は真剣そのもので、一言一句聞き逃すまい! という表情が見て取れる。

 そんなシャロンの様子をヒンメル夫人は微笑ましそうに見守っている。


「それじゃあ、ふたりも一緒に作りましょうか。卵はいくつくらい要るかしら。

 ーーあなた、1階から卵とブルガを取ってきてくださいな」


 ヒンメル氏を容赦なく使いっ走らせながら、僕とシャロンの分のエプロンを取り出してくれた。

 桃色で、花柄の刺繍が入った可愛らしいエプロンは、シャロンの金の髪とも調和し、控え目に言ってもとても似合っていた。


「新妻さんっぽいですね、いまの私!」


 エプロン姿ではしゃいでくるくる回るシャロンの様子を、にこやかに眺めるヒンメル夫人。大人の余裕が垣間見える。

 しかし"全知"さんの見解は違うようで。


《可愛いなあ、可愛いなあ。まるでお人形さんのよう。娘ができたらお揃いのエプロンをこしらえることにしましょう》


 ぽわぽわとしている性格なだけで、実は大人の余裕があるわけではないのかもしれない。



 さて、それではイツ・クルソスの作り方である。

 記憶がおぼろげなところは、"全知"がいい感じに補ってくれると丸投げもとい期待をするとしよう。


 まずは、粗めのブルガをお湯でもどし、サモチ粉を入れて捏ねまわす。

 次に、塩と卵を混ぜてさらに捏ねる、捏ねる。しかし塩は貴重品である。このような山とも森ともつかぬ場所であれば、なおのこと。

 なので、使われるのは生地を浸透させるのに最小限の量だ。

 この段階で、もちもちとした手触りの薄黄色い生地が出来上がる。


 さすがに普段から料理をしているためだろう、工程を聞いただけでヒンメル夫人の手つきは手慣れたもので、丁寧、正確、そして手早かった。

 僕がまだ捏ね捏ねとしている間に、まだ指示する前から生地を休ませに掛かっていた。勘所をおさえていれば、そういう料理センスは磨かれるようである。


 ある意味意外だったのが、シャロンである。なんでも正確にこなす印象のある彼女だが、料理の腕まではおさえていないらしかった。

 表情は真剣そのものなのだが、卵と粉がうまく混ざり合わずに若干涙目になってしまっている。


 あとで聞いたところによると、魔導機兵が製造される頃には食材を直接加工ーーいわゆる料理だがーーするような文化などは継承されておらず、記録として残っているだけとのこと。

 食べ物はすべて自動的に合成されたりして作られるのだとか。そのため、魔導機兵の仕様として調理機能はなかったのだという。

 そういう弁明なのか悲しみの声なのか、はたまた開発者への怨嗟の声なのか、そういう悲喜交々な声を、このあと僕は村長邸に戻ったあとに聞かされることになる。


「ふんふんふ〜ん♪」


 そんなシャロンの様子を見かねてか、鼻歌混じりで力添えしたヒンメル夫人の手によって、生地はたちどころに綺麗に艶のある卵色にまとまっていく。

 シャロンの表情からは料理を楽しむといった風情ではなく、どこか決然としたーー《ぜったい、習得してオスカーさんの胃袋を掴んでみせるんだからっ》ーーうーん、決然としてるか? 何か、頑張りが伝わってきた。


 生地を休ませている間に、今度は中に詰める具を作る。

 今回はペイルベアの肉があるので、それをひき肉にしよう。

 オーク肉より脂が少なく、引き締まった赤身がぎゅぎゅっと内包されている。


 ひき肉を作るにはちょちょっと"加圧"し、細かく切り刻んでしまえばそれで完了だ。

 手間短縮のために料理でちょいっと魔術を使うなど、世の魔術師が二度見するような所業であるが、僕にとってはもはやナイフで細かく刻むことよりも数段容易いことであった。


「それ、わたしにもできるかなぁ」


 もはや驚き慣れたと思しきヒンメル氏と違い、夫人の反応は新鮮だ。

 しきりに感嘆し、ふうじん! と言ってみたりもしているが、もちろんそれだけでは普通、魔術が発動したりはしない。適正も関係するし。


 しかし、手頃な箱に肉を込め、あの荷馬車の車輪のように外につけた持ち手に魔法陣を刻み円運動をさせ、中で魔術を発動させて切り刻むというのはなかなか良い発想なのではなかろうか。魔術が使えない人でも食材を細かくしたり、混ぜたり、ミンチを作ったりできるというのは、なかなか便利な気がする。普通に手でやろうと思ったらけっこう時間がかかる上に重労働だからだ。

 どれほど需要があるかはわからないけれど、売れそうな代物だったらそのうち作ってみるのもいいかもしれない。


 ひき肉ができたら、ヒメリの実を加えて混ぜ合わせる。

 ヒメリの実は肉の臭み消しの効果があるらしいことを"全知"で知った。

 見た目は赤く、小さな丸っこい1cmほどの粒である。噛むと酸味があっておいしい。そのまま食べても良いが、山村では日持ちする食料として、主に乾かしたものが貯蔵してある。

 これは、地上に出た初日に滝の側に自生しているのを見つけたので、ある程度むしっておいた生のものだ。

 これを、ひき肉、塩と混ぜ合わせる。


 あとは、先ほど作った生地をこぶし大の大きさに千切り、指で押し広げる。

 その中にひき肉の具を包み、油を使ってカリッカリに揚げるのだ。


 しかし、塩と同様油も貴重品である。

 村にさほど蓄えがあるとも思えない。が、その点も問題はない。


 たまたま、おとといオークの肉を大量に手に入れているのだ。

 このオーク肉の脂っこさは、嫌という程味わったばかりである。

 この脂身部分を切り出し、大き目の鍋に放り込む。


 "加圧"し、強めの火にかけてやると、ジュワァアッという肉から油がどんどん滲み出てくる音と共に、香ばしい匂いが2階中を包み込んだ。

 匂いはいいんだけどね、食感は昨日味わった通り、もっちゃもっちゃしていてなんとも言えなかった。


 肉の焼ける匂いに、それまで遠巻きにしていたヒンメル氏も近づいてきて「おぉー」と感嘆の声をあげている。

 なお、ヒンメル夫人は鞄から次々とオークの生肉を取り出すシャロンを見て以降、驚き疲れたのか鍋に対してただひたすら優しい眼差しを向けていた。感情の許容量を超えた際のヒンメル氏の反応とそっくりである。さすが夫婦。


 "加圧"により、ぎゅうぎゅうと油を限界まで絞り取られたあとには、鍋には白濁した強烈な灰汁と、並々とした油の層ができていた。

 この灰汁は以前までの僕なら捨ててしまっていたのだが、どうも"全知"によると植物の求める栄養となるらしい。

 "剥離"、"抽出"したあと小箱に入れて保管しておくことにする。……すごい匂いなので、密封しておこう。


 さてこれで綺麗な油が手に入った。

 菜の花から抽出したものよりもドロっとした、黄金色のなみなみとした油を前に、ヒンメル氏がごくりと唾を飲む。


 香ばしい匂いで食欲が刺激されるのはもとより、油の販売価値は相応に高いことによる、商人としての思いもあるだろう。

 精製に手間や技術が必要な上、運搬するには重いし嵩張る。また、長期保管すると傷んでしまうという性質もある。

 そのため、油は高価になりがちなのだ。

 照明に使うようなものであればまださほどでもないが、食用に耐えうるものとなると、なおさらである。


 僕としては知ったことではないので、惜しげも無く使うことにする。

 先ほどひき肉を包んだ生地を、熱した油にそっと差し入れていく。


 ジュワァァアアア


 小気味良い音を立てながら、生地に焼き色が刻まれていく。

 そのまま2分ほど待ち、狐色に染まったら裏返す。両面がカラッと焼き色がついて中に火がちゃんと通っていれば、出来上がりとなる。


「シャロン、あんまり鍋に近づくと危ないよ」


「はいっ、あの。でも、あのっ」


 揚げ始めたあたりから、シャロンは機嫌を完全に直し、わくわくそわそわといった様子で鍋を見つめ続けている。

 そろそろいいかな、というあたりでシャロンに網を使って引き上げさせると、カリッと狐色に揚がったイツ・クルソスの完成だ。


「うわぁ、うわぁっ。

 オスカーさん、オスカーさん!

 すごい良い匂いがします、この熱源」


「熱源言わない」


 すごいはしゃぎっぷりである。

 シャロンだけでなく、ヒンメル氏までそわそわとしている。

 夫人は知らない料理を覚えたことで、興味深そうに出来上がりを見ているようだ。

 かくいう僕も空腹であり、くぅ、と情けない音を鳴らしたのを皮切りに、遅めの昼食と相成ったのだった。


 イツ・クルソスは冷めてもいけるが、揚げたてはまた格別だ。

 サクッとした外側の歯ごたえのあと、中の肉からじゅわっと肉汁が沁み出してくる。

 ペイルベアの、よく引き締まった深みのある独特な肉の味に、ぷちぷちとした食感のヒメリの実の甘酸っぱさが味を引き立てている。

 ううん、美味しいけれど、やっぱり母が作ってくれたものとは味が違うなぁ。肉とか油の種類にもよるだろうし、そんなものかもしれない。


 両手で抱えてはもはもと食べているシャロンは、満面の笑顔だ。

 ひとつを食べきって満足そうな顔をしていたかと思ったら、突然はっとした表情になる。


「オスカーさん、どうしましょう。

 味をしっかり覚えて、また今度オスカーさんに作ろうと思っていたはずなのに、気づいたら食べきっちゃっていましたーー」


 がーん、という感じでうなだれてしまったシャロンに二つ目を促しつつ、僕も二つ目を齧る。

 彼女もすぐに調子を取り戻し、笑顔ではもはもと齧り出した。本当にシャロンはころころと忙しく表情が動く。


 そんな僕らのやりとりを、ヒンメル夫妻もまた微笑ましげに眺めていた。


「どうでしょう、ヒンメルさん。

 ペイルベアの肉もそんなに日持ちしませんし、これなら作業の合間にでも食べやすいと思いませんか?」


 ヒンメル氏は深く頷くと、次いで苦笑いを返してきた。


「これだけでなく、商店に並べている麦酒が飛ぶように売れそうだよ。

 まったく、オスカーさんには借りばかりが増えていって恐ろしいですな」


 そうして僕らはお腹を満たしつつ、荷馬車や護衛を含めた賃金やら何やらの話を片付けたのだった。

イツ・クルソスは、我々の世界ではピロシキやイチリ・キョフテなんかと近い食べ物です。

ひき肉の代わりに肉味噌を入れたりとか。ビールととてもよく合います。

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