僕と黒髪少女と別れの前に そのいち
明朝。まだ白んでもいない寒空の下、虫の音と風の音が吹き抜ける草原に、カン、カンと硬いものの打ち合わせられる音がいくつも響いていた。
「シッ――!」
「なん、のっ!」
リジットが振り向きざまに放った強烈な一撃をしのいだ振動で、紫剣を握る両の腕にびりびりと痺れが走る。
微振動する大地を物ともせずに軽やかに一歩を踏み込んできたリジットは、そのままの勢いで鉄の剣を跳ね上げて、防御のために急いで引き戻した紫剣の持ち手を強烈に打ち払う。振り上げられた銀の軌跡を目で追って「あ、やばい」と思った時にはもう全てが遅い。
ガギン!
ひときわ高い音を立ててリジットに弾かれた紫剣が、高々と宙を舞う。少し離れた地面に突き刺さる様を、防御をこじあけられたままの姿勢で見送る僕。吐き出した息が白い。
「何を迷ってるのよ。半端な気持ちで剣を振ると怪我するわよ?」
剣を振り払った姿勢で残心して、リジットはやや呆れたように、僕と同じく白い息を吐きつつ苦言を呈した。
僕が剣を弾かれたのはこれで三度目になる。彼女がそう言うのも、もっともなことだった。
「……わるい」
「ちょっと休憩にしましょっか」
鉄の剣をそっと横たえて、数日限定の剣の師であるリジットは草原に腰を下ろした。ひんやりとした風が優しく吹き抜けて、彼女の黒髪が穏やかに流れる。
リジットが使っている剣は間に合わせのものだ。僕とローレン氏が町だった場所へ赴いたときに拾ってきた。剣は刃が潰されているわけでもないのだけれど、こびり付いた肉の脂や血糊のせいで、見た目の凄みはあるもののおおよそ物が切れる状態ではない。とはいえ鉄の剣は十分に重いし、もろに当たれば普通に怪我をするだろう。
もとより剣術のみに絞った場合、僕とリジットではかなりの力量差がある。そのうえその剣が振るわれるたびに僕の脳裏に町の様子がよぎるので、このまま続けていたらリジットの言う通り、痛い目をみるのも時間の問題かもしれない。
「せっかく付き合ってもらってるのに、わるいな」
鉄の剣に付着した汚れを"剥離"してしまったら、まだマシかもしれない。でもそれは、元々の持ち主が戦った証を無下にする行為なように感じられて、鉄の剣は凄惨な見た目のままにされていた。それで気が逸れてしまうのだから、世話がない。
今日にもシヴールに到着する予定なので、必然的に早朝稽古もこれっきりとなるだろう。
リジットは張り切ってあれやこれやと僕に技を伝授してくれていたが、肝心の僕の方に集中力が足りていないこともばっちりと見抜かれていた。
「あれもこれも抱えようとしすぎなのよ、たぶんね。オスカーにはオスカーの大切な人がいるでしょう?」
「わかってるよ」
わかってる、つもりだ。少なくとも、頭では。
それでも力を持つ者の義務として、僕は誰かに降り注ぐ理不尽を払いのけたかった。それが、見ず知らずの人であっても。一種の強迫観念とも言える、異質な考えかもしれない。しかし、どうしてもそうなってしまう。
「私は姫様の騎士だもの。どんなことがあっても姫様をお守りするのが私の責務で、誇りよ。
もちろん、他も守れるならそうするわ。でもそうじゃないとき、私は悩むことすらしない」
「大切なものが決まってるから?」
「ええ。その通り。オスカーは私よりずっと強いんだから、その分たくさんの人を助けたい気持ちも、わかるつもりよ。
それでも、全てを救うことなんて出来ない。きっと、どれだけ強かろうともね」
「……」
それも、わかってる。
頭では理解している。
「オスカーはオスカーの大切なものを守るために、こんなところまで来たんだから。
えっと、勘違いしないでよね? 姫様の騎士としては、オスカーの助力はこの上なくありがたいことよ。私自身だって何度も助けられてるし、玉柩まで直してもらっちゃったし、余計にね。
それでも、私たちがオスカーの大切にしているものの障害になるときは、そうね。躊躇う必要はないわ」
こんなこと言うとほんとは騎士としては失格だけどね、とリジットは片目を瞑り小さく舌を出す。
「今だって剣のみで相手をしてるから私の方がまだ優勢でいられるけど、なんでもありだったらきっと勝負にすらならないもの」
「それは……」
達観したようで、それでもどこか寂しげに己の力量を語るリジットに、そんなことはない、と反論したところで意味はないのだろう。
リジットの掌は、女の子らしい見た目とは裏腹に、固い。長年剣を振り続け、鍛錬を重ねてきた者の手だ。誇るべき武人の手だ。おそらく、剣の腕ではどこか底の知れなさを持っていたダビッドとも、斬り結べるほどだろう。僕とは剣のレベルが違いすぎて、どちらが勝つのか見当もつかない。
そんなリジットでも、いや、そんなリジットだからこそ、僕と敵対したら勝ち目はないとわかっている。僕が体勢を整えたり、距離を取ったりする前に一撃のもとに斬り捨てるしか、彼女に勝機はないのだ。
それをわかった上で、リジットは僕に言う。躊躇うな、と。
「きっと、ひどい光景だったでしょう。そんな惨状を放って逃げてる私たちに不信感を持つくらいには。
そうなると思ってたから、元々はオスカーたちを集落に近づけるつもりはなかったのよ」
「だから僕が町に行きたいって言ったとき、渋ってたのか」
具体的には『ついに来たか』みたいな張り詰めた空気になっていた。
「ええ。ほんとはうまく誘導してはぐらかす手はずだったんだけど、ローレンったら何考えてたのかしら」
「本人を前にしてそんな裏側語っちゃっていいのかよ」
「いいのよ。命乞いだもの。なるべく誠実さをアピールしとくわ」
冗談めかして笑うリジットは、まだ明けきらない空を見上げた。
一人分くらいの隙間を開けて僕もリジットの隣に座り込み、同じように白みはじめた空を見やると、まだ夜を終わらせる気のないいくつかの星々が瞬いている。リジットの黒い瞳にも、同じ星が映っているのだろうか。
躊躇うなと言ってみたり、命乞いだと言ってみたりとリジットの言葉にはいまいち一貫性がない。
きっと、彼女も旅の終わりを予感して、どこか気分が落ち着かないでいるのだろう。どうあれ、今日シヴールについたら僕らの協力関係も終わるのだから。
願わくは、敵対することなく円満な関係のまま別れたいものだった。
「っと、そうだ。これ」
会話が切れたタイミングで、リジットへの用件を思い出した僕は忘れないうちにと声を掛けた。これこそ、せっかく用意したのだから、別れる前に渡さなければ。
左手首に嵌めたシャロンと揃いの金の腕輪がチカっと真紫の燐光を散らして、新しく組み込んだ術式が発動する。何事かと見守るリジットの目の前で、僕の手元には花をあしらった髪留めが出現した。
硬質なきらめきを持つ髪留めをリジットに差し出すと、彼女はそっと両手で受け取って、その輝きに息を飲んだらしかった。
「髪留め、で合ってるかしら。これ私に?」
「ああ。素材集めの時に、なくしちゃっただろ。その代わりに」
「――ありがと、とっても綺麗……それに、見たことない花だわ。もしかして、今の一瞬で作ったの?」
朝霧を反射してリジットの手のひらで輝く髪留めは、サクラという花をモチーフに作ったものだ。僕も、見たことも聞いたこともない花だったが、シャロンが指先に光を纏わせて僕に映像を見せつつ言うには『サムライガール向けな花です』とのことだった。
見た目上は繊細な細工が施してあり、さぞ壊れやすそうにも見えるが、実際の耐久性に関しては単なるアクセサリーの域に留まらない。
グレス大荒野で出くわした、色とりどりの色彩を持つ毒蝶の羽根を加工したものだ。これがなかなか素材として難敵で、なかなか切れない、砕けない、溶かせないと成形にえらく手間がかかった。最終的に、かなり精密さを要求される”大切断”をやる羽目になった。大変だった。
「いや、寝る前にちょちょっとな。今は取り出しただけだ。
玉柩の仕組みを僕の腕輪に組み込んで、物を仕舞っておけるようにしたんだよ。便利だぞ」
「セルシラーナ姫がお聞きになったら、また卒倒されかねないわね……」
転送装置を魔改造した”倉庫”に物の貯蔵や運搬の多くを頼っていた僕らにとって、手荷物を抱えての旅はなかなかに堪えた。面倒くさいったらない。ダビッドソンも移動手段としてはこの上なく優秀だが、荷物の持ち運びという点では難がある。ダビッドソン自体の持ち運びという意味でもだ。しかしその問題も解決だ。
腕輪を媒介に仕舞っておける量は魔力に依存するが、仕舞われる側の異空間に動力となる魔石をこれでもかと放り込んであるので、容積に困ることもないだろう。異空間側に置いてあるだけなので、重量に悩むこともない。
”倉庫”と違い、時間を捻じ曲げるような効力を発揮するにはさすがに燃費が悪すぎて盛り込むのは断念したが、あれは”六層式神成陣”が蓄えに蓄えた、馬鹿げた魔力量があって初めて可能となる大魔術だ。魔法や奇跡の域に片足突っ込んでいると言ってもいい。
持ち運びが改善されるだけでも恩恵は計り知れず、玉柩の術式を作った天才技師には感謝してもし足りない。
そういう意味では玉柩という存在を知れただけでなく中身の構造も”全知”でつぶさに観察させてもらえた――無断でだが、直すためには仕方あるまい――ので、セルシラーナ姫殿下御一行を助けた分の見返りはすでに十分に得ている。
当のセルシラーナ姫は玉柩の試作改良品の動作確認をする僕の様子を見るや、しくしくとふて寝を決め込んでしまったのだけれど。尊い犠牲だった。
「オスカーのせいで、世の魔道具技師の評判が落ちたら大変ね。私としては、ちょっとせいせいするところもあるけれど。
ともあれ、ありがと。大事にするわ」
リジットは髪留めを口に咥えて、流したままになっていた後ろ髪を結い上げるように持ち上げる。白いうなじが露になった。
慣れた手付きで手早く一本に纏めあげることで、リジットの真っ黒な『しっぽ』が復活する。
「どう? 似合う?」
「うん。なんかリジットって感じがする」
「今までも私は私だったのだけれど」
出会ったときに髪を一つ括りにしていたイメージが強いためか、髪をおろしている彼女はなんとなくしっくりこなかったのだ。もっとも、当初の張り詰めたような悲壮な緊迫感は鳴りを潜めており、ぷくぅっと頬を膨らせている今の様子から受ける印象は、またかなり違ったものになってはいるが。
「なかなか可愛くていい感じだな、うん。工房に帰ったらアクセサリー作りも初めてみるかな」
「か、かかかわっ!? わわっ、い、いえ勘違いしないでよね私! この朴念仁は髪留めの完成度に納得してるだけだわきっと。きっとそうよ!」
本人を前にして朴念仁とは結構な言われようだけれど、実際のところ図星を突かれている。僕は沈黙して、やや頬を染めて朝の冷たい空気をすぅはぁするリジットを見守った。
「でも、いいのかしら? 身に着けてしまってから言うのもなんだけれど、私に髪留めを贈ったなんて知れたら、奥さんがあまりいい顔はしないんじゃない?」
「うん? いや、その髪留めの仕組みから柄から全部、教えてくれたのもシャロンだぞ。そもそも、僕が髪留めの作り方を知ってるわけがない」
「なんでそこで威張るのよ。うう、朝に顔を合わせた時が怖いわ。美人のジト目は心にくるのよ、心に」
来たるべきシャロンのジト目に怯えるリジットは、自らの両肩を抱いて身震いする。ただ、どちらかといえばシャロンに関してはジト目な時よりもにっこり顔に虚無が宿っているときのほうがなお怖いと僕は思う。
確かにシャロンに何か手頃なものはないかと聞いたのは僕だし、そのときにぐぎぎと渋い顔をされたのも事実である。しかし結局のところ髪留めを提案してくれたのはシャロンのほうだし、大丈夫だろう。――そう思いたい。
リジットに贈ったのは髪留めだったが、正直なところ円環状に術式が書ければ何でも良かったのだ。
花弁など、円環の最たるものだった。
「それじゃ、動作確認するから立って両手を突き出してみてくれ。手は開いてな」
「やっぱり魔道具だったのね、髪留め。守りの呪いでも掛けてくれてるのかなとは思ったけれど、動作確認って?」
「いいから、いいから。あとは、僕の教えた通りに詠唱してくれ」
「なんだか、本格的なのね」
促されるがままに立ち上がったリジットは、疑問を表情に貼り付けながらも僕の指示に従う。
「詠唱なんて小さな頃に魔術の適性が無いってわかって以来だから、なんだか緊張するわ」
そうは言いつつも、魔術への憧れも同時に持ち続けていたのだろう。リジットの声は隠し切れない期待に弾んでいる。気に入ってもらえれば良いのだけど。
「それじゃ、やるわよ」
両手を前に突き出して、輝く黒い瞳は眼前の事象を見逃すまいと見開かれている。
大きく息を吸い、間もなく、少女の唇が『歌』を紡いだ。