僕と彼女とペイルベア
オスカー・シャロンの投稿をはじめてから半月が経過しました。
なかなかに早いものです。
朝方。
ふにふにとした感触で目を覚ますと、すぐ間近で横になるシャロンが目に入った。
なんだか既視感のある状況だが、今回はちゃんとお互いに服を着ている。
彼女を抱きしめる感じになっている左手をそっとどけて、固まった身体を伸ばしにかかる。
「あいたた……」
身体を起こすと、それだけで足腰が抗議の軋みを上げた。
申し訳程度に草で作ったベッドも、その上から包まるように配置しておいた毛布も、洞窟の地面の硬さを遮断するには大いに不足だったらしい。
1晩でこれだけ身体が凝り固まるというのに、あの結界に閉じ込められた3年の間にはこんな思いはしなかった。
身体をベストな状態に保つ効果なぞ、それだけで国宝に値するものだなぁと薄ぼんやり寝ぼけた意識で再確認する。
野営する機会が今後も増えるようであれば、何らかの対策を用意するのが得策だろう。
さて、それならば、まず作るべきは結界の機能を備えたテントだろうか。
そのためには……と考え始めたところで、後ろからふわりとした柔らかな感覚に抱きすくめられる。
「おはよう、シャロン」
「はい、おはようございます。オスカーさん。目覚めのきっすをお願いします」
「却下だ却下」
シャロンさんは朝から絶好調だ。
朝があまり強くない僕としては、目覚めてからのいきなりなその元気さには、もう少しばかり手加減願いたいものがある。
「昨晩は何もなかったですね」
「ああ、そうだな。
念のため温度調節・音声遮断・侵入阻害用の結界を張ってはいたけど、侵入を試みたものもいないみたいだ。
まあもともとがオークの巣だからな。そんなものじゃないか」
魔物や獣同士での争いだって勿論ある。しかし、オークくらいの大型の魔物に対してはそうそう毎日闘争が繰り広げられているわけでもない。
夕飯の間に多くの生き物が寄ってきていたのは、やはり煙や匂い、話し声に反応してのことだろう。
「いえ。そういうことではなくですね。
獣というならば、オスカーさんが獣になって襲いかかってくるかなー、と思って私はどきどきしながら待っていたのですよ!」
「いやいや」
「『いやいや』じゃないですよ。
地下を出たら、という約束だったではないですか!」
そういえば、そんな話をしたような、していないような。
いや、それにしても約束はしていないぞ。……していない、はずだ。
「そういうのは、もうちょっとこう、風情とか情緒とか。あるだろ、そういうの」
「乙女ちっくですか!
むぅ。あんまりにあんまりだと、私のほうから襲いかかりますからね。
あ! いま対私用の結界張って寝ようとか考えたでしょう!」
ぎゃいぎゃいと、あるいは端から見ればいちゃいちゃと。
なんとかシャロンを宥めすかしつつ、出発の準備を整えるためには、さらに半刻の時を要したのだった。
シャロンが最後に毛布を"倉庫"に仕舞い込むのを眺めつつ、今後の方針を固めていく。
まずは人里に降り、ここがどのあたりなのかを知る必要がある。
研究所の付近に出るものと思っていたのだが、"転移"してきた先はどう見ても森の中なのだ。
水も食料も当座の蓄えはできたため、少々迷うくらいなら問題はない。
「準備、できました。
どちらに向かいますか」
「それなんだけど、どっちに向かえば人里なのかがわからないんだ。
アテもなく歩き回るのでもいいけど、何か案はない?」
「はい。私の検知範囲にも村落らしきものは引っかかりませんね。遮蔽物が多いので、大した距離まで検知が及ばないのですが。
ええと、"全知"ではわからないのですか?」
「それが、こいつが見たものに特化している性質上、どうやら見つけられないみたいなんだ」
"全知"といえど、掛け値なしに全てがわかるわけではないらしい。
眼鏡という形質をとっているのでなければ、この神名はあるいは本当にあらゆる物事がわかるのかもしれない。
その場合に消費される魔力量など、考えるだけでも恐ろしい。
「そうなのですね。
では、では探索系の魔術ではいかがでしょう」
「それも、昨晩やってみたんだけどね。
せいぜい数km範囲内しか見通せなかったし、それらしいものは見当たらなかったんだ。
ペイルベアの巣とかは見つけたんだけど」
「その、ペイルベアというのは何ですか?」
「そこそこの大きさの魔物だね。
昨日倒したオークよりも大きいくらいかな」
身の丈は2m半から3mくらいで、力が強い。
木にも登るし、走りも早い。遭遇したら肉でも投げて気をひているうちに逃げるのが鉄則、らしい。
さらに厄介なことに、ある程度年齢を重ねた個体だと魔力を使って狩りをするという。
僕は直接に会ったことはないが、両親に口を酸っぱくして教えられたのだ。あれには絶対に近付くな、と。
冒険者にとってもかなり厄介な存在であり、有効な手段としては、まだ幼い間に親の目を盗んで狩ってしまうことだという。
冬眠中を狙えればなお良いが、冬の山や森など、戦闘を行わなくても危険がいっぱいである。
両親の言いつけ通りに避けて通るのが無難なのか、それとも人里への手土産に狩っていくのが良いのか。
今の僕とシャロンが相手をするのならば、1人1匹くらいならなんとか出来るのではないだろうか。無論、無茶をする理由もないので各個撃破すれば良いのだが。
「他にも、森で注意すべき魔物はいますか?」
「いろいろ居るよ。
有名なのだと、地獄姫蜂とか、雷牙狼、背赤毒蜘蛛。滅多にいないらしいけど黒邪蛇とか」
いずれも僕の故郷、キンカ村近辺で見かける可能性のある危険な魔物の類である。
それらはときに、名のある冒険者であるとか、魔物学者であるとかが討伐チームを組んで事に当たるような規模になる。
辺境の村々では、そのための報奨金を工面することすら困難であることも多いので、腕に覚えのある村人たちが討伐に向かい、その結果帰らぬ人になったりするらしい。
だから僕は、それら危険なモノには、たとえ誘われたとしても絶対に手を出してはいけないよ、と言い含められて育ったのである。
「どれも、私の知識にはない名前です」
「昔は居なかったのか、それとも名前が違ったのかもなー。
フリージアも、魔力が発見されるまではどうの、という話をしていた気がするし」
「むむ。また別の女の気配。でもパートナーの座も、伴侶の座も譲りませんからね」
そういう話だったっけ、今の。
それに、いつのまにおさえられたんだ。伴侶の座。
そんなことを考えていると、木々の悲鳴が上がった。
ずずんーー
めきめきーー
腹に響くような振動に次いで、遠くで鳥が一斉に飛び立って行く。
「魔力反応を検知。
オスカーさん、あれって」
「ああ。ペイルベアの巣があった方角だ。それに」
「人、ですね。行きますか?」
「行こう」
シャロンは頷くと、そのままがしっと僕を抱え込んだ。
「ええー」
「舌を噛みます、お静かに」
そして、シャロンはそのまま風のように駆け出した。
びゅんびゅんと、景色が流れていく。
すぐに洞窟はおろか、滝や、川の音もはるか後方へ遠ざかる。
木々が鬱蒼と茂る森のなかを、走る、走る。
当然、道なんかない。木の根や枝、ツタなんかが行く手をこれでもかと阻んでいる。
しかし、シャロンはまったく速度を緩めない。
僕を抱えているから右手は塞がってしまっているが、それすら気にしていないかのような気軽さで、バシバシと邪魔なものたちを払っていく。
そのたび振るわれる左手は、まるで白い閃光のよう。
そうして数分が経つ頃には、轟音がすぐ近くで聞こえるようになっており。そして僕はシャロン酔いでかなりの痛手を被っていた。だって上下に揺れるんだもの。
「申し訳ありません、思った以上に森の中は段差がありました。
ーーあの、大丈夫ですか、オスカーさん。おっぱい揉みますか」
「いやいや」
木立をこえたすぐ先では、激しい音が今も断続的に聞こえてくる。
そこでシャロンにおろしてもらい、シャロン酔いでばくばく言う心臓を宥めようと、側の木のあたりに腰を落ち着ける僕。
戦闘の余波がいつ来てもおかしくない場所ではあるのだが、僕もシャロンもそちらに対してはあまり脅威と認識していないのだった。
「わるいんだけど、ちょっと先行して、人間側を助けてあげてくれる?
どうもあまり旗色がよくなさそうだし。貴重な情報源だ」
「はい、わかりました。
推定、ペイルベアの数2。殲滅します」
「あ、でも素手でペイルベアを粉砕してるのを見られても、面倒なことになるかもしれない。
"倉庫"に剣っぽいものがあるから取り出して、一応持っておいて」
シャロンは僕の言葉に頷くと、"倉庫"から銅の剣を取り出した。
剣といっても、単に銅を剣の形に加工しただけのものなので、強度や使い勝手に難がありそうな代物だ。
僕の戦う手段として念のため用意していたのだが、オークとの戦闘はいきなりだったし、なにより魔術でずばっと一撃で倒せる相手に対しては、わざわざ剣を使う必要は薄そうであった。
「はい。では行ってきます。
オスカーさんに何かあれば一瞬で飛んで来ますからね」
僕は結界に不用意に触れてしまった前科がある。
そのため、シャロンとしては僕の側を離れたがらないかとも思っていたが、杞憂かもしれない。
僕に何かあれば飛んでくる、というのは比喩でもなんでもなく、本気だと感じられる凄みはあったが。
「ありがとう、でも大丈夫だよ。ちょっと休んだら行くから」
「わかりました」
言うが早いか、シャロンの姿がその場から搔き消える。
僕を抱えていたときの移動は、あれでも気遣われていた速度だったのだろう。
金の閃光となって消える後姿を、かろうじて"全知"が捉えていた。
シャロンに限って、負けるといったことはないだろう。
感知した限りの魔力量・体長であれば、話に伝え聞くほどの脅威をペイルベアからは感じない。
時間が掛かるようなら、応援に行くとして。
まずは水でも飲んで落ち着くこととする。
"倉庫"内には、氷を投げ込んだ箱の中に、水を満載しているものが2つある。
これは昨晩のうちに滝の裏側周辺の澄んだ水を汲んでおいたものだ。
いつでも冷たい水が飲めるというのは、貴族もかくやというような贅沢な行為である。
貴族は知り合いにいないので、実際のところはわからないのだけれど。
しかし、その贅沢を堪能する前に。
ーーズン
ーーズドン
はらわたにまで響くような低音が2回繰り返されたあと、周囲は静寂に包まれた。
念のため周囲を索敵してみるが、やる前からだいたいわかっていた。
シャロンの反応、人間と思しき反応が4人分のみがあり、さきほどまで確かにあったペイルベアと思しき魔物の反応2つが消失。
いわゆる、瞬殺である。
仕方なしに、冷たい水をそのまま喉に押し込む。味わうとか贅沢とか言っているあいだに登場の機会を逃すのはまずい。
まだ若干ふらふらするが、僕は仕方なしに、がさがさと草木の間を分け行った。
歩くこと1分ほど。
ややひらけた場所で、その光景は広がっていた。
半壊した馬車。
銅の剣で木に縫いとめられ絶命しているペイルベア。
地面に倒れ伏し、失った頭部からドクドクと血を大地にしみこませ続ける巨体がもう1体分。
若干戸惑いの表情で、しかししっかりと両の足で立っているシャロン。
僕の接近を察知し、パァッと笑顔が弾ける。
ペイルベアの顛末についてはある程度わかる。
伝わって来た衝撃から考えても、シャロンが瞬殺したのだろう。
昨日の戦闘後もそうだったが、シャロンの白衣にも、その金髪にも、返り血はおろか一切の乱れがない。
そして、そんなシャロンを拝むように平伏する4人の人物の姿があった。
「えっと。なにしてはりますのん」
間抜けな声を出してしまう僕。
「さぁーーなんなのでしょうか」
色濃い困惑の表情を浮かべるシャロン。
なかなか、平穏無事にとは進まないみたいだ。
はぁ。何度目になるかわからない嘆息をしながら、僕はシャロンに歩み寄って行くのだった。