僕と黒髪少女と心の傷 そのさん
一撃粉砕。もしくは、暴虐の嵐。
魔物たちにとってはそう形容せざるを得ない光景が、地下水脈を擁する洞窟に広がっていた。
ひょっこり顔を覗かせたエムハオは首から上が冗談みたいにポーンといずこかに飛んでいき、巨大な蝙蝠型の魔物は叩きつけられた壁面の染みとなった。魔力に反応したヒュエル鉱石が一瞬で臨界直前の燐光を撒き散らすと、すかさず渦を巻く水流が纏わりついて沈静化させる。
覚束ない足元に気を付けながらすぐ後ろを歩く黒髪少女は、引き攣った表情を隠そうともしない。
「よいせ」
ゴバッ!
「キュッッ――!!?」
「ギュキッ」
視界外のエムハオが追加で2体爆ぜたところでリジットは「はぁ……『よいせ』じゃないわよ、『よいせ』じゃ」と、力なく嘆息した。
「なんか、馬鹿らしくなってきたわ。なんであんたに張り合おうとしてたのかしら。敵う見込み、ぜんぜんないじゃない」
「そりゃどうも。リジットにも姫様の側近としての責任感とか、なんかいろいろあったんだろ。空回りばっかりだったけど」
「それはどうも」
僕の返答を真似るリジットは、僕の後ろでぷくーっと口を尖らせる。
「そろそろ出口も近そうだけど、ここらで休憩にしよう」
「わかったわ」
「……、えらく素直だな」
出口が近いならばもう少し頑張る、と食い下がられるかと思っていたのだが、実際少し拍子抜けだ。面倒がないのはいいことだが。そう感じていた僕の思惑を読んだかのように、リジットは肩を竦めてみせる。
「まだ行けるわ、と言いたいところだけれど。下手を打った前科がある以上、あなたに従うわよ」
その言葉の通り、水路近くの手頃な石に腰を降ろした僕の後ろで、リジットは僕の背中に己の背を預けるようにして、そっと腰をおろした。
「それ、エムハオの皮……よね。いつの間に剥いでたの?」
「"剥離"魔術は昔から得意なんだ」
「得意じゃない"治癒"魔術で骨折が跡形も残さず一瞬で治せるなんて、治療院の治癒魔術師が聞いたら卒倒するわよ」
手に入れたエムハオの皮は、塩の結晶を砕いて"念動"魔術の応用で加圧しておく。雑ではあるものの、これで急場をしのぐだけの布は確保出来るだろう。
ノーパンマントの騎士様のまま居てもらうというのも、さすがに少々いたたまれないし、余った布は簡易な鞄として使う心算だ。こういう手間が必要になるたび、"倉庫"のありがたみをひしひしと身に染みて感じる。
ひょひょいと片手間で魔術を使いながら黙々と皮を鞣していく僕の様子が気になるのか、時折、こちらを振り返っては窺うリジットの気配が背中越しに感じられる。
はぁ、と再び小さく嘆息する黒髪少女は、やや呆れた空気を滲ませた。
「あんた、本当は何が専門の魔術師なのよ。魔道具に"治癒"魔術、探知系も使いこなして。同い年くらいだと思ってたけれど、実はすっごく歳上のお爺ちゃん魔術師が、見た目をごまかしてるんじゃないの?」
「失敬な。実際僕はまだぴちぴちの若さだぞ」
「その反応が若くないわよ、もう」
ただ軽口を応酬しているだけだが、これまでは言葉の端々から感じていた、どこか切羽詰まったような棘はなくなっているような気がする。本人の言うとおり、張り合う気がなくなったというのも事実なのだろう。血が足りていないからそんな気力がない、というのも大いにあり得る話だけれど。
「はあ。この際、私のことはいいとして。あなたもまだ、身体はだるいままなのかしら」
「ん、ああ。まあ、そうだな」
"念動"魔術でエムハオの皮を流水に潜らせ、すすぐ。水から上げた皮に重圧を加えつつ、水気を"剥離"、『革』として使えるように仕上げていく。
そんな工程の最中にも、体の末端から力が抜けていくような、拭い去れない身体のだるさは健在だった。加えて、頭痛に吐き気の大盤振る舞いだ。もし欲しい人がいれば、全部無料で進呈したい。
ひときわ強い揺れが尻の下から伝わってきて、妙な胸騒ぎを助長する。
「やっぱり、そうなのね」
「なんだよ。心当たりでもあるのか」
「心当たりね。――ええ、そうね、あるわ。つい最近、私が同じ状態だったもの。
そう、きっと、だから一人ではどうにもならない」
リジットの声音は、自分で話題を振っておいて、固い。それでいて、語尾に近づくにつれ寒さに凍えるように震えたように聞こえた。
ほぼ裸マント状態で水辺にいるので、実際に寒いのだろうけれど、背中越しに伝わる彼女の鼓動からは、それだけでないことは明らかだった。彼女の緊張から、何か当人にとっては重大なことを言わんとする空気を察した。
「ねえ、オスカー」
固い声で、リジットは僕へと呼びかける。
少女が僕の名を呼ぶのは、もしかしたらこれが初めてのことかもしれない。
「あなたには、二度も助けられたわ。それに、恥ずかしいところも見せちゃってるし」
現在進行形でノーパン騎士様である。
しかし、そんな混ぜっ返しをリジットが望んでいないことは、"全知"なんてなくたって背中から伝わってくる緊張感から察せられる。
僕は小さく頷きだけを返して、手元の作業を続行する。僕の不調に心当たりがあるというのなら、聞いても損はあるまい、と。焦燥感のような座りの悪さを感じつつも、そのままリジットの言葉の続きを待った。
少女は、深く息をつく。そうして、ゆっくりと言葉を続けた。
「ねえ聞いて。あんたにとって……ううん、オスカーにとって、きっと興味のない話だと思う。それでも聞いて、私の話」
耳だけはそちらに傾けて、手は黙々と皮を鞣す作業を続ける僕に、無言の肯定と受け取ったのか。リジットは、ぽつりぽつりと話し出した。
「私は魔道具技師が嫌い。ちょっと前に、ここに落ちる前にオスカーにも言ったわね。魔道具技師が、嫌い。憎いくらいに。
――つい最近、嫌いになったの。それまでは、好きだったわ。大好きだったの」
リジットは、ぼんやりとした視線を水流に投げた。滔々といずこかに流れ行く水か、もしくはその水の中で魔力に反応してぼんやりと光を発するヒュエル鉱石でも眺めているのだろう。
「私の名前は、リジット=ランディルトンって言うの。異国のオスカーには馴染みがないかもしれないけれど、この国では少しは知られた家名なのよ。
かつては、連綿と続く魔術の名門として。とはいえ私には魔術の才能はなかったんだけどね。そして今では――ええ。今となっては、その家名は裏切り者の筆頭よ」
どく、どく、どく、どく。
言葉とは裏腹に落ち着きのない黒髪少女の鼓動が、背中越しに感じられる。少し、呼吸が荒い。この話は彼女の、心の傷の本質なのだろうことは、これまでの反応から僕にも察せられた。
リジットはそれを自ら抉り出すような真似をしている。
そして少女の荒い呼吸は、驚いたことに僕の呼吸とほぼ一致していた。そこで初めて、僕の息も上がっていたことに気付く。
――リジットの心の傷の話で、なんで僕の頭が、痛い?
「カイラム帝国を名乗る集団が独立を宣言したとき、名門のうち三つの家の頭首が寝返り、王家を裏切ったわ。そのうちのひとつが、ランディルトン家よ。
――いえ、より正確に表すなら寝返ったというよりも、クーデター首謀者の一人ね。帝王として担がれているのは、やっと3歳になったばかりの、姫殿下の弟君だもの」
リジットはそこで一旦言葉を切り、長い息をついた。
頭痛を堪えるかのように、彼女は小さくかぶりを振る。そのたび、僕の首筋をさわさわと彼女の黒髪が撫でるように流れ落ちていく。
リジットが語るのは、彼女の目線から見た最近の王国の、そして自身の変遷だった。
ランディルトン家はシンドリヒト王室お抱えの、魔術の名門だった。それが、今となってはどうだ。王家、ひいては王国そのものの転覆を企む主犯格として、その名を汚された。
偽造貨幣の流通や、新種薬物の蔓延、犯罪者の脱獄を手引きしたり等と多岐に渡り、周到に国を『破壊』せんと蠢いていたといい、リジットがシヴールから戻り『こと』に気付いたときには、何もかもが手遅れだった。その時にはすでに、破壊し尽くされた王国の亡骸が転がっていたという。
犯罪者や新種薬物の騒動と言えば、僕らの工房があるガムレルの町にもその余波は及んでいた。今回の旅だって、それらの『疑惑』を掴んだ記者、ウィエルゾアが工房へと駆け込んできたことに端を発する。
リジットの話、とりわけ家名を聞いて僕の脳裏によぎるのは、眼鏡をかけた瘦せぎすの白マント姿の男だ。レッドスライムを相手取り共闘したこともある男の名は、ジレット = マグナ = ランディルトンといったか。
あの飄々とした男は、きっと王家を陥れた側だ。根拠なんてあったものではないが、確信めいた感覚があった。彼の観察眼と扇動力が油断ならないことを、かつて僕は目の当たりにしている。彼が王家派に属していたなら、いいように蹂躙されることは考えづらいし、その逆ならば手際の良さからも納得感がある。
「信じてたのに、ひどい裏切り。騒動は多くの人を巻き込んで、大きな軋轢ができて、疑心暗鬼が蔓延って……ひどいことされたり、見せしめに殺されたり、したわ」
かつての名家はもはや見る影もなく。リジットは無力感に俯き、震えることしかできなかった。
震える彼女の肩は、怒りからか、恐れからか。それとも、無力な自分への憤りか。触れた背中越しにリジットの激情が伝播してくるようだ。
「私自身、姫殿下に庇っていただけなければ、どうなっていたか。考えたくもないもの」
「……」
「それで――ううん、ごめんなさい。これ以上詳しく話せるほど、まだ落ち着いてないみたい。自分の弱さが、ほとほと嫌になるわ」
言葉を詰まらせて苦しそうにしながらも、リジットは言葉を吐き出し切った。僕は相槌を打つでもなく、ただ静かに悲痛な少女の言葉に耳を傾ける。
名家としての誇り、誉れ、栄光に、自負。信じていた者からの裏切りによって、それらは音を立てて崩れ去ったのだ。
そして、自らの気持ちと折り合いをつけられぬままに、それでも騎士として激動する状況からセルシラーナ姫を救い出そうと躍起になり、心身ともに疲弊が重なって――あとは、僕の知るところのリジットとなったのだろう。
「そういう、まあいろいろがあって、私は魔道具技師が嫌いになったの。だから、ごめんなさい。オスカーは何も悪くないの。大部分は――ううん。ほとんど全部、私の八つ当たりだったんだと思う。
とはいえ、セルシラーナ姫に対する態度や言葉遣いだけは、もうちょっとなんとかしてほしいものだけれど」
「辺鄙な村の出でな。あいにくと高貴な人への接し方がわからない」
「そんなことだろうとは思ったわよ」
リジットは、やや呆れたように背中で笑い声を滲ませた。
僕に気を遣わせすぎないよう、わざとそういう話の締め方をしたのだろう。元々は、そうやって人への気遣いを欠かさない人物なのだ、この少女は。そっちのほうが、なんだかんだと面倒見の良いリジットらしい、そう思う。
そんなリジットが、なぜリジットが突然身の上話を始めたのか。
彼女は、僕の状態に『心当たり』があると言った。
その後唐突に語り出したのは、彼女の向き合うトラウマ。心理的な傷。傷跡。瑕疵。向き合えば苦しむ、大きな穴。無力感に震える、激情。
それは、僕にも覚えのあるものだ。
いや。覚えがあるどころか、むしろ馴染み深いもので――ああ、そうか。そういうことか。
「ここには、シャロンがいないんだ」
僕の呟きに、何を当たり前のことを、みたいな怪訝さを浮かべるでもなく。リジットはただ、華奢な背中を預けてくる。
とくん、とくんと。先ほどよりも落ち着きを取り戻した鼓動が微かに、だが確実に刻まれる。温かさが、じんわりと染み入ってきた。
見通しの悪い、閉塞感のある地下水脈の、その岸辺。世界から切り離されたかのごとき、暗闇。ああ。ここはまるで、あの場所のようじゃないか。
「僕は」
ようやくそのことに気がついたとき、掠れた声が僕の口をついていた。
「力が、欲しかったんだ」
リジット編が(いつも通り)思った以上に長引いてしまっていますが、次で終わります。たぶん。おそらく。きっと。