僕と黒髪少女と心の傷 そのに
リジットは茫然と、赤く染まった己の手を見下ろした。
指の間から零れ落ちた雫が、石の床に新たな血痕を撒き散らす。
「顔色もひどいわ。暗かったし、焚き火で色がわからなかったから気づかなくて――ううん、そんなの言い訳にならない」
「騒がないでくれよ。さっきから、全身がだるいんだ」
水から上がった頃合いか、それともリジットの"治癒"を終えて気が緩んだ頃か。どちらにせよ、本調子とは言い難い。
どこか悄然とした様子でリジットは、ぶつぶつと『考えないと、考えないと』と繰り返す。
「まず止血……いえ、傷口を洗って……いいえ、地下水脈の水が綺麗なんて保証はないわ。だるさは、水に濡れて風邪をひいたのかしら。いえ、それより魔力欠乏症……? 私のせいだ、どうしよう、私のせいだ」
まとまらない考えを口の中でうわ言のように反復する。
やがて少女はギリッと歯を噛み締めて、僕のほうを見上げた。その表情は、まるで少女のほうが痛みを堪えているかのようだ。どこか泣きそうな表情にも見える。
「動かないで」
リジットは少し背伸びをして、僕の首の後ろに手を添える。押し殺した吐息が、首筋に微かなむず痒さを伝えてくる。
そんな姿勢をしているものだから、マントの隙間から素肌がもろに見えそうになっているのだが、それすら厭わずに額同士を触れ合わせた。
少女の泣きそうな顔を見ていると、じくじくと鈍痛が脳髄の奥から湧き出てくる。そればかりか、耳障りな不協和音のような耳鳴りさえ感じる。されるがままになっているのも嫌だが、振りほどく気力すら湧いてこないのだ。一体どうしてしまったというのか、僕の体は。
「熱は、ないみたいね。脈もしっかりしてるし、目も……暗くて詳しくはわからないけど、魔力欠乏症の兆候はひとまず出ていないわ。良かった」
「大丈夫だから。ちょっとだるいだけだ。それより、マント押さえとかないと、見えるぞ」
「ッ! な、なんっ……! うぅ、う〜……! いえ、いいわっ。見たければ好きなだけ見なさい。今は、あんたの体のほうが大事よ」
さっさと離れてくれ、と追い返そうとする僕の発言に一瞬ジト目になりかけたリジットだったが、何やら覚悟を決めてしまったようだった。黒い瞳が気丈に見返してくる。どうやら逆効果だったようだ。
優しく手を引いて座るよう促されてしまったので、溜息ひとつ零して諦めた。
「ひどい痣に、擦り傷、こっちはざっくり切れてる」
「そのへんは、自分で視えないからな」
僕の首の後ろ側から、肩にかけてを、リジットの指がさわさわと動き、拭っていく。
『視え』ない部分は"全知"の補助が受けられない。"治癒"魔術は補助なしで行うのは難しいのだ。本来、僕にとって扱えるような代物ではないのだから、自然なことだった。
だから多少痛くとも、命に別状があるわけでもないのだから、鏡でも手に入れるまでは放っておくしかない。感染症の危険もあるが、対処できないものは仕方があるまい。
こういう事態に備えて、素材袋のポケットに小さな鏡を入れてあったのだけれど、それも水に落ちる前に手放してしまっている。呪文紙の類も、水に濡れて効力を失くしてしまっていた。八方塞がりだ。
「ええと、ええと――! そうよ、途中で収集したソケアの蔓があったでしょう。ソケアの汁は傷薬になるわ、少し臭いけれど」
触診(?)を終えて考え込んでいたリジットは、少し表情を明るくして、『名案だわ!』とばかりに手を打ち合わせた。その拍子に、マントがはらりと落ちかけて、慌ててしっかりと掴みなおしている。
少し元気を取り戻した少女の様子には微笑ましさを感じるが、しかし。
「傷薬の調合なら任せて。素材袋はどこ?」
「あー。それなんだけどな、失くした」
「なくした? なんで……そんな」
直前の光明の分だけ、リジットの落胆は大きい。素材袋を手放したことはあまり言いたくはなかったのだけど、いずれは知れることでもある。これも、仕方のないことだった。
リジットは直情的だが、決して馬鹿なわけではない。『なぜ失くしたのか』にもすぐ思い至ってしまうだろう。
「あんなに、喜んでたのに。ぅくっ、それじゃ結局、怪我させた、だけじゃない」
黒い瞳から、ついに大粒の涙がぽろりと零れ落ちてしまう。溢れた雫はマントにいくつもの水滴の跡を残していった。
ずきりと咎めるような頭痛を感じて、僕は再び顔を顰める。なんだよ。仕方ないだろ。
なぜだかわからないが、少女の涙が、僕の心の表面をさざ波のようにざわめかせ、苛つかせる。
吐き気に、頭痛に、焦燥感。"全知"で見渡して見るも、周囲に怪しい箇所はなし。なのに、なぜこんなにも不安が拭えない?
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私が、変な意地、張ったせいだ」
謝ってほしいわけではないし、すでに起こったことは起こったこと。時間が戻せるわけでもなし、後悔はするだけ無駄だ。
――だめだ、だめだ。どうにも思考に余裕がない。
「ぐすっ。泣いても、意味ないもの。今、できることを、考えないと」
無言で佇む僕の前で、リジットは溢れる涙をぐしぐしと強く拭って、顔を上げる。目元は赤くなっているが、ふらつきながらも少女は立ち上がった。
「滲みると思うけど、我慢してね」
「いいよ、放っといてくれ」
「そういうわけにはいかないわ」
「ちょ、……痛ってぇ! 沁みる、沁みてる」
リジットはかろうじて引っ掛かっていた『服だったモノ』をさらに裂くと、僕の首の後ろあたりを丁寧に拭いはじめた。それに伴って、じくじく、じくじくと熱を持ったように自己主張をはじめる傷口が、引き攣ったような痛みの大合唱だ。
傷口付近に貼りついた泥やら何やらを落とすためだろう、すぐ近くで少女の吐息が感じられる。その真剣な横顔に、あまり文句を言うのも憚られて、結局僕は口を噤んだ。
リジットの持つボロ布は、すぐに血を吸って真っ赤に染まる。それを水辺で清め、絞り、焚き火に翳し、僕の身体を拭う。そんなことを、少女は黙々と繰り返した。僕はそんなリジットに反抗するのさえ億劫で、されるがままになっている。
「あ、あんまり見ないでよね」
さっきは好きなだけ見ろと言っていたが、服を裂いて、裸の上にマントを羽織っているだけの状態を見られるのは、やはり恥ずかしいらしい。視線をあちこちに彷徨わせながら、リジットはもにょもにょと口を尖らせ、それでも手当をやめようとはしなかった。
――変なやつ。
散々こちらを警戒していたのにも関わらず、やると決めたら誠心誠意、とことんまでやる。魔道具技師が嫌いだ、とも言っていた。それなのに、リジットは額に汗を浮かべてまで、今も献身を続けている。
「だいたい綺麗になったわ。ふぅ、次は縛って止血して、その次は、あっ!?」
立って、座って、拭って、洗ってを繰り返していたリジットは、ついには足を縺れさせてフラつき、べしゃあ、とばかりに倒れ込んでしまった。その拍子に水に落ちたボロ布は、すぐに見えなくなってしまう。
傷は塞いだものの、気力で動いているだけで、リジットだって全く本調子ではなかったのだ。
「あいたたたた……」
「大丈夫か? 大人しく座ってろよ、もう」
「うぅ、うぅぅ……もう、ちょっと、だけ……!」
うろちょろされて、また怪我でもされたら面倒なんだ。
膝を着き、拳を握りしめたリジットは、しかし。それでもまだ、諦めた様子はなかった。
彼女はしばし逡巡した素振りを見せたが、やがて決然とした面持ちになり、屈んで何かを取り出した。また転びやしないかと横目で見守る僕をちらっと振り返りながら、なぜかコソコソとその何かを水洗い。やたらと丁寧に洗って、再び難しい顔で停止した。
「おい、リジット?」
「にゃっ!? ななっ、なんでもないわよっ!」
なぜか真っ赤な顔になったリジットは、こちらに戻ってきたかと思うと、僕の肩より少し下のところに、握りしめた何かをぎゅっと巻きつける。
「これで、よし。っと」
なにが、『よし』なものか。
右腕が締め付けられて、強い圧迫感がある。
「痛いんだけど」
「締め付けることで止血してるの。きつめに締めないといけないから、悪いけど我慢してちょうだい」
すぐ近くで、真剣な眼差しを向けてくる黒い瞳は、さも当然のことをした、とでも言いたげのよう。その若干恥ずかし気なドヤ顔は、なんなんだ。
「そんなことしてくれなくたって、いいよべつに」
「よくなんかないわ」
「頼んでないだろ」
「頼まれてないわよ。それでも、お願い、これ以上私を惨めにさせないで」
実に面倒くさい。
リジットは、弱っているのだ。さっさと体力を回復させて、こんなところからは脱出したい。それなのに、彼女はちっともじっとしてやいないじゃないか。いっそ"粘着"魔術で床に貼り付けておこうか。――なんて、思わないでもないけれど。
僕を見つめる、真剣な眼差し――どこか必死さすら見える、彼女の献身を無下にするのも、なんとなく座りが悪い。
「もう手当てされちゃったものは、仕方ないか」
誰に言うともなく。いや、自分への言い訳か。
ため息とともに呟いた声は、これまでと変わらず水流へと溶けて消えた。
「そうだ。これ、何で手当てされたんだ。よく見えないんだけど」
今も何かで締め付けられ続ける、僕の右肩あたりを反対の手で触ってみる。リジットの手によって、しっかりと何かの布が巻きつけられているのがわかる。しかし、リジットの服だった布は水脈に流されていったはずで、マントの下は裸同然の極めて心許ない恰好のはず。
何か手頃なものを見つけたのかもしれないが、首を回してみても、僕からはいまいち見えないのだ。
謎の物体でぎっちりと縛られているというのは、なかなかどうして気持ちの良いものではない。
まぁもともと、見えないからこそ治癒できないのではあるのだけれど。
「なあ、リジット。これ、何で縛ってあるんだ?」
「……ぃ」
「え、なんだって?」
僕の疑問は、突然バッと目を逸らしたリジットの不振極まれる動きによって、強い不安感へと取って代わる。
僕が突如難聴を発症したわけじゃない。単純にリジットの声が極端に小さくなったのだ。水音に拮抗する気配さえ感じられない音の並びは、聞き取りやすさという観点を完全に見落としている。
「なんだよ、一体何で締め付けられてるんだ、これ。不安になるだろ」
「……ょ」
「だから、なんて?」
もにょるリジットの顔を両手で固定して、正面からまっすぐに目を覗きこむと、潤んだ黒い瞳が、僕をキッと見返してきた。
頬が真っ赤に染まっているのは、焚き火の色ばかりではあるまい。
「下着! 私のぱんつ! うぅ〜……! これ以上、私を惨めにさせないでってばぁ、馬鹿ぁ……っ!」
少したじろぐ僕の耳朶へと、頬を染め上げてやけくそになったと思しき少女の叫びが、したたかに叩き付けられる。両手はきつく握り締められ、それでいてあまり力の乗っていない拳が、ぽかぽかと僕の腹筋あたりに浴びせられる。
「うぐぇ。やめ、やめろリジット」
「うるさい、うるさいっ!」
そして、無駄な追及を行った報いというべきだろう。本人は頑なに認めなかったが、泣きべそをかきだしたリジットが落ち着くまでに、もうしばらくの時間を要する羽目になるのだった。