僕と黒髪少女と素材集め そのさん
リジットは、むすっと口を真一文字に引き結んだまま、僕に背を向けてずんずんと先を歩いていく。進行方向は予定通り山を下る方へ向いてはいる。しかし僕と足並みを合わせる気はまったく無いようで、こちらに一瞥もくれることがないままに山道を下る。直前までの朗らかな様子は鳴りを潜めてしまい、『魔道具技師が嫌いだ』と本人が語った通りに、無駄な馴れ合いを拒むかのような頑なさが見える。
「あ、おい。ちょっと待て。"紫剣・納刀"――おい、待てってば」
ずんずんずん。追いかけ、声を掛ける僕のほうを振り向きすらしないままに、リジットは歩みを進める。しかし地面の揺れは健在だし、さらに下山ということもあって、足への負担も大きく、いかにも危なっかしい。
山道は、体を持ち上げる分、登りの方がつらいと思いがちなのだが、実は下りも相当しんどい。足でしっかりと体重を支えながら転げ落ちないよう、一歩一歩踏みしめて進む必要がある。足腰への負担は、むしろ登りよりも大きくなったりするくらいだ。
ふらつきながらもずんずんと捨て鉢のように足を進めるリジットは、見ている間に何度もよろめき、コケかけ、傍の岩に手を着く。
「ほら見ろ。ちょっと落ち着いたらどうだ」
「――ッ! ほっといて頂戴。エスコートは必要ないわっ!」
再びバランスを崩し、地面に手をつきかけたリジットを見兼ねてすぐ横で支えようとすると、大きく振られた腕が僕の手を振り払った。
さっきまでの溌剌とした印象は翳り、淀んだ黒い瞳が僕を真っ直ぐに射抜いた。
リジットが『魔道具技師嫌い』になったのは、おそらく最近のことなのだ。まだ彼女自身が感情に折り合いをつけられていないから、振り回される。
無表情からは回帰して、しかし不機嫌さを隠すことのない黒髪少女は、相変わらずのペースで山を下る。せっかく楽しそうにしていたのに、余計なことを言ってしまったかもしれない。
せめて、もう少し安全に下りられるようにと先行すべく、僕も少しペースを上げる。『宙靴』で揺れも障害物も無効化して進めるので、さしたる負担はない。少し先を歩いて、進路上の魔物や危なそうな岩や取り除いておくとしよう。
登山のために整備された山というわけでもなく、ほぼ自然の姿そのままの山なのだ。気を抜いていると怪我をしかねない。
「って、おい」
「なによ」
ペースをあげた僕に追随、どころか張り合うように、リジットまでが速度を上げて、僕より先を行く。
「危ないだろ、そんな急ぐ必要ないんだから」
「あんた、こそ……!」
ぐい、と抜き返すと、さらにリジットは速度を上げて僕を抜き返す。
肩がぶつかりそうになりながら、僕のすぐ横を、もはや小走りくらいの速度で駆け下りていく。
抜く。抜かれる。さらに追い抜く。またも追い抜かれる。
いちおう、《騎士》としての面目躍如というべきだろうか。リジットは進行ルート上でも比較的進みやすい道を瞬時に判断し、"宙靴"の僕と追い抜き追い越しの速度を実現しているらしい。息は上がり、華奢な肩を大きく揺らし、大粒の汗をぼたぼたと零したままにしているものの、黒々とした目は前方をあちらこちらと伺って、また一歩と足を踏み出す。
しかし、そんな状態が長く続くはずもない。
「意地張ってんじゃねぇ!」
「なんの、ことだか、わかんない、わねっ! わわっ、……とっとと」
「フラフラじゃねぇか!」
「余計な、お世話よ!」
岩の目立つ山肌を、もはや安全に止まれないであろう速度で駆け下りる。いったい何をやっているのかという気はするが、僕にもわからない。
「馬鹿じゃないのか! こんなどうでもいいことで怪我するぞ!?」
「ハッ! 馬鹿っていうほうが、馬鹿なのよっ! そんなことも、知らないなんて、あんた馬鹿ぁ?」
「お前のほうが馬鹿って言った回数多いわ馬鹿!」
「あんたに、お前呼ばわりされる、謂れはないのよ。なによまた眼鏡なんてかけちゃって! そんなことしたって、キャラの薄さはどうにもなんないわよ馬鹿ぁっ!」
「キャラの薄さは関係ないだろ!?」
互いに喚きあいながら、下りるというより、もはや降ちるように、駆け下りる。
陥没している箇所があったり、倒木があったり、岩の上に泥や苔が付着して滑る箇所があったり。そんな場所をまともに走り下りることなんて、できようはずもない。
リジットは運良くコケずに済んでいると思っているのかもしれないが、何度も転倒しそうになる彼女を"念動"魔術でぎりぎり補助している方の身にもなってほしい。それをなんだ? 言うに事欠いて、キャラが薄いだと!?
そんなやりとりをぎゃいぎゃいとしていれば、周囲への注意が疎かかどうかなど、考えるまでもない。その結果として、魔物の接近に気付くのが遅れた。いや、正確には僕らのほうが接近して行ったのだけれど。
進路上に姿を見せたのは、薄汚れた灰色。だらんと力なく垂れ下がった長い耳。一見すると、何かを持ったエムハオが一匹、現れただけのように見える。しかし。
「おい、リジット止まれ! 魔物だ!」
「うっさいわね! たかがエムハオ一匹じゃない、私が仕留めてやるわよ!」
リジットは魔物を視界におさめても速度を緩めず、腰のナイフを引き抜いた。
「よく見ろ、ただの雑魚じゃない!」
「え――? そんな!? 『死縛茸』ッ!?」
腹部にキノコを抱きかかえているかのように見える四つん這いのエムハオ。だが実際のところ、"全知"の視界では、あのエムハオは既に死んでいる。エムハオの死骸を動かしているのは、生物の血のような色の毒々しいキノコのほうだ。デッドリィパムルは、生き物に寄生して体を内側から破壊して自身の苗床とする性質があるらしい。吐き出された胞子を吸ってしまうと、こちらまで寄生されるだろう。
"全知"が僕に齎した情報は、リジットにとっては予め知っているものだったようで、エムハオへと迫っていた彼女は顔面蒼白となった。エムハオが激しく揺れながら奇声を発する。胞子をまき散らす算段なのだろう。
間に合うかどうかは怪しいが、"結界"の術式のために魔力を充填する。こんなことならば紫剣の杖を出したままにしていれば――いや、杖があったらリジットと同じ速度で下山なんかできなかった。そもそもリジットのやつがムキになるから……ええい、くそ、集中しろ!
焦る僕と奇声を上げるエムハオの間で、急制動のためバランスを崩してそのまま倒れ込みかけたリジットだったが、咄嗟の機転で岩に手をつくと、勢いよく腕を伸ばし、反対側へと――エムハオの左側を抜ける位置取りへと跳ぶ。しかし、位置が悪かった。さらには、運にも見放された。彼女が着地しようとした場所にはエムハオの巣穴があったのだ。リジットが崩れた姿勢で踏みしめようとした大地は足元に存在せず……
「くっ……あぐっ!? きゃああぁぁあああっっ!!?」
「リジット! おい!?」
穴に足を取られただけでは済まず、ボキリと鈍い音を響かせたあと、リジットは長い悲鳴を残して穴の中へと滑り落ちていく。
ダパァアン!
大きな水音が上がり、それきり声は聞こえなくなった。
「地下水脈ってやつか!? この、邪魔だ!」
ようやく編みあがった"結界"で死縛茸に侵されたエムハオの死骸を弾き飛ばして、リジットの消えた巣穴を除き込む。真新しい擦れた跡のある縦穴に繋がるように、らっぴーより少し大きいくらいの横穴が接続していて、そこがエムハオの巣になっていたのだろう。そちらも死縛茸が繁茂しているかもしれない。縦穴のほうは暗くて先が見通せない。
勝手に不機嫌になり、勝手に競り合ってきて、勝手に落ちていった少女の面倒を、これ以上見る必要があるのか。わざわざ危険に身を晒してまで、自分を嫌う相手を助けることに、何の意味があるのか。護衛とはいえ、そこまでしてやる義理があるのか。
「考えるまでもないな、仕方ない」
瞬時に決断を下し、細い縦穴に体を滑り込ませた。
僕が行かねば、リジットはこのまま死ぬことになろう。おそらくどこかの骨が折れているし、そんな状態で水に落ちた。食料もない。もしかしたら落ちた先に魔物だっているかもしれない。どのみち、暗闇で、孤独に死ぬだろう。
それはきっと、シャロンに出会えなかった僕の末路と一緒だ。蛮族を呪い、己が無力を呪い、世界を呪った。そんな逆境を跳ね除ける力を願い、今の僕にはその力がある。
穴を滑り落ちたのはほんの少しの間だったが、それだけでも出っ張っている石や木の根に引っかかれ、擦られてあちこちに傷ができる。穴から抜け落ちて一瞬完全な浮遊感が来たところで"宙靴"を動作させ、そのまま水中に没するのは免れた。靴の下をサァァアっと勢いよく流れ落ちる水音が横断していく。が、中空に留まった僕の視界に、チカチカッと瞬く岩肌が目に入った。
やばい。ヒュエル鉱石だ。
『いい? ヒュエルが埋まってるかもしれないでしょう』
『もし近くに埋まってたら、大変なことになるかもしれないでしょう?』
少し前の、どこか得意げに知識を披露するリジットの言葉が思い起こされる。魔力に反応して炸裂する性質は、"宙靴"に仕込まれた術式も見逃してはくれないらしい。魔石を動力にしているので、当然といえば当然か。これでは魔力光を作り出すこともできない。
ヒュエル鉱石が光ったことで、うつ伏せに流されていくリジットの姿も確認できた。こんなところで炸裂されては、ふたりまとめて生き埋めになる。そうなったら、僕はともかくリジットが助からない。
「チッ」
"全知"は服の内ポケットに仕舞い、"宙靴"を停止させる。僕を空中に留めていた力がなくなり、冷たい水の中へ落ちた。足が届かない深さで、水の勢いもそれなりに速い。鉱石をはじめ、素材の詰まった袋は躊躇うことなく手放した。勿体ないが命には代えられない。これで、まだ少しは自由に動ける。
水の流れに従って、手探りでなんとかリジットを捕まえるが、水を飲んだのだろうか、意識が無いようでぐったりとしており、重い。ぬるりとした生暖かい感触と、こびりつくような鉄の匂いが鼻を衝く。
「リジット。おい、リジット!」
心臓は鼓動を続けているか? 息は? ……わからない。早急に水から上がったほうがいいことだけは確かだ。暗闇に目が慣れて、少しでも見えるようになることを期待しても流されるばかりで、どちらに進めば岸に上がれるのかすら、判然としない。
苦難はそれだけに留まらない。
「ん……? ぐぁッ! 痛ってぇ!」
何も見えないほどの暗闇で、ふと、シャロンが放つ『威圧』を何倍にも薄めたような殺気を感じた気がした。直感に逆らわず身を捻ると、直後に脹脛のあたりを何かが切り裂いていった。冷たい水に浸されて、じくじくと痛みを持つ部位を触ってみると、表面を浅く食い破られたかのようになっている。水の中に潜む石か何かで切れたわけではなさそうだ。
「勘弁してくれ……!」
左腕に、ぐったりとしたリジットを抱きなおす。落ちてきた位置からは少し流されたが、このあたりにもヒュエル鉱石があるかもしれない。魔術戦は躊躇われる。しかし、丸腰で居続けるわけにもいかない。
――仕方がないな。炸裂してくれるなよ。
「"紫剣収斂・ナイフ"!」
右腕一本で振り抜いた紫剣のモードはナイフ。"倉庫"が使えない今、これを落とせば完全に無防備だ。
紫剣から漏れ出す僅かな魔力に反応し、チカチカと光を帯びたヒュエル鉱石によって浮かび上がるのは、力なく項垂れるリジットのほっそりとした、柔らかな首筋。そして、少し離れた水面から突き出す、艶を帯びたいくつかの背びれ。飛び掛かる隙を窺っているかのように、水流に逆らってこちらへと狙いを定める。
『こちらはお任せください。オスカーさんも、無茶はしないでくださいね。と言っても、何かしらするのでしょうけれど。――ちゃんと、帰ってきてください。約束です』
目を閉じ、出発前のシャロンとの約束を思い返す。この約束を反故にしないためにも、もうひと頑張りするしか道はない。
冷たい水の中、左腕には大荷物を抱えて、暗闇での戦いが始まった。