誕生日のはなし - アーニャとおめかし
第四章直前の、ある日のお話。
前回の花祭りから20日ほど後の話です。
アーニャは困っていた。
口元は緩み、足取りは軽い。尻尾はあっちこっちにくねくね。なんなら鼻唄さえ出てきそうな雰囲気ですらある。しかし、困っているのもまた、事実だった。
「あにゃぁ~。どーしたもんかなー」
アーニャが『何か欲しいものはないか?』と問われたのは昨晩のこと。オスカーのその質問が、もう明日に迫ったアーニャの誕生日のことを指しているのは明白だった。
ちょうどお酒が入って良い気分だったこともあり、『普通の』デートを所望――薬物組織を潰しに奔走したりしないという意味での『普通』だ――したのだ。駄目で元々、断られたら笑い飛ばそう、くらいの軽い気分で。しかし、これがなんと快諾されてしまったのである。
「シャロちゃんが目配せしとったし、カーくんとは話がついとったんやろにゃあ」
今にして思えば、というくらいの話であって、昨晩はそのままはしゃいで飲んだくれてしまった。しかしまあ。どうあれ、デートはデートだ。よくやった、昨晩のウチ。そんなふうに思うも、部屋をうろうろと忙しなく動き回るアーニャの足が止まることはない。
もう、けっこうな時間、鏡の前でああでもない、こうでもない、と頭を捻って久しいのだ。
赤い長丈衣、シックな色味に一部だけ刺繍の入ったシャツ、薄手の涼しげな絹襟、いろんな服を衣装棚から引っ張り出しては胸の前に押し当ててみたり、また悩んだり。お祭りのときに作ってもらった、透き通った紫の花を突ついてみたり。行ったり来たり。うろうろ、うにゃあ。くるくるしている自分がなんだか妙に気恥ずかしくて、ついにアーニャは頭を抱えた。
「あ〜、もうやめやめっ! いつもの格好で行く!」
「お服選び、やめちゃうなの?」
「うにゃぁっ!!?」
がごん!
突然背後から掛けられた声に飛び上がるほど驚いて、いや、実際に少し跳び上がって、変な声が出た上に足をベッドの端に打ち付けた。恥ずかしいやら、びっくりしたやら、若干痛いやらで散々だ。べつに悪いことをしていたわけではないのだが、アーニャの背筋に冷や汗が伝う。
声の主たるアーシャは、尻尾までぴんと逆立てて驚く姉の姿を、廊下から部屋をのぞき込む形で若干心配そうに見守っている。
「い、いつから?」
「えっと、白いお服広げて恥ずかしがってたところから、たまに覗きに来てたの」
「めっちゃ最初の方やん! なんでや!? アーちゃんは店番しとったはず」
午前中はアーニャが受け持ち、お昼からはアーシャが店番。そのはずだった。
だからこそ、一人でこっそりと吟味していたというのに。
もはや意味もないだろうけれど、それでも火照る頬を悟られないようにしながら、アーニャはベッドに広げっぱなしにしていたいくつかの服を、ばばばばっと勢いよく掴んで拾い集めると、適当に衣服棚に放り込んでいく。
「オスカーさまたちが帰って来たから、アーシャはお掃除してたの。そしたらお姉ちゃんが鏡と睨めっこしてたの。よいしょ」
アーシャの勤勉さに、全アーニャが心で泣いた。
今も喋りながらも、アーニャが適当に放り込んだ服を取り出しては、アーシャはひとつひとつ丁寧に、小さな手でパタパタと畳んでいく。実に良い手際だった。
なんだか仕事を増やしてしまったようで申し訳ない気分になったアーニャは、手元に残っている服を畳んでみる。アーシャのやっているのを見様見真似で、端をつまみ、袖を内側に入れ、こう、こう、こう、こうこうこうこうこう、こうして……あれ。
「お姉ちゃん、アーシャがやるから大丈夫なの」
「うぅ。すまん」
手の中でなぜかくちゃっとなってしまった服を、アーシャはてきぱきと広げ、畳み、仕舞っていく。鼻歌まで歌って、その横顔はどこか楽しそうにすら見える。
なんとなくバツが悪くって、へにゃりと下がったアーニャの尻尾が、綺麗に整えられたベッドの上に力なく横たわる。そのベッドも毎日綺麗に整えているのはアーシャだった。
と、ひとまず一旦広げた服を仕舞い終わったアーシャは、アーニャのほうを見て、う〜ん、と小さく唸ったり頷いたりしながら、吟味して、棚から新しくいくつかの服を選び出すと、ベッドの上に並べ直した。
「オスカーさまとでーとなんでしょ? ちゃんとおめかししなきゃメッなの。お姉ちゃんたら、放っといたら結局いつも通りの服を選んじゃうの。動きやすいんやー、って」
「うぐ」
図星だった。
これまでも、もうちょっとかわいい格好をしてみようかと悩んでみたことは数知れず。しかし結局、いつも同じような格好に落ち着いてしまう。鏡の前で吟味する以外には袖を通されない可愛らしい服が、いくつも棚から恨みがましい視線を投げかけてくるかのようだ。
アーシャは片手を腰に当て、反対の手の小さな人差し指をアーニャの唇に触れさせ、改めて「メッなの!」とポーズをとると、次にまるで小さな花が咲くように、はにゃりと微笑んだ。
「お姉ちゃんのでーとがうまくいくように、アーシャもお手伝いするのっ。……ど、どうかしたの? お姉ちゃん」
両手をぐっと握って意気込むアーシャがあまりに不意打ち気味に可愛すぎて、鼻血が出るかと思ったアーニャは、咄嗟にあさってのほうへと首を回れ右。ごきりという激しめな音に、アーシャが若干引いている。
さすがに乙女として、鼻血を垂れ流すという絵面は避けたいという気持ちもまだちょっと残ってたアーニャは、真っ赤なヒメリの実の味を思い浮かべて耐える。耐える。耐えた。
「お姉ちゃん、なんでそんな酸っぱい顔してるなの?」
「ちょっとな、乙女としてのアレをな、ソレしたぁてな」
「んん。よくわかんないの」
そう言う間にも、アーシャはスカートなどをごそごそと取り出して、適当に放り込まれていたものに関しては丁寧に畳みながら、ベッドの上に並べた。
実のところ、アーニャたち姉弟の服は結構な数がある。というのも、小太りの商人のところの奥さんが『あらあら、うふふ〜』とか言いながら新しいのをどんどん作って持って来るのだ。『ハウレル家御用達って看板を出して、服屋でも始めようかしら〜』だとかなんとか言っていた。
それというのも、アーニャたちがあまりお金を使わないので、それならばとオスカーが作ってきた服を買い取るという約束を交わしたためだった。アーニャとしてはお酒なんかはちまちまと買っているし、アーシャも食べ物を買っているのだけれど、旦那さま的にはまだまだもっと使ってほしいらしい。そのために稼いでるんだから、だとか。
「これと、これと……う〜ん、う〜ん。ふわっとしたほうがきっと可愛いの」
「あ、あんな? アーちゃん?」
「やっぱりこっち……さっきお姉ちゃんが選んでたお服だと、ちょっと長めなスカートのほうが合うの」
「もしも〜し、アーちゃん? アーシャ、さん?」
「うんっ。これはなかなか良い組み合わせなのっ。でも、こっちのわんぴーすも捨てがたいの。あ、でもアーシャのお服だと、お姉ちゃんはおっぱいがどかーんだから……うぅ」
アーシャは、服を広げると少し背伸びをしながらアーニャに押し当て、頷き、あるいは首を傾げながら真剣に吟味をする。しまいには自分のお気に入りのスカートを出してきてアーニャに押し当て、うんうんと唸っていたりする。アーニャはほとんど、されるがままだった。
押し当てられた服を前に、鏡の中のアーニャは実に情けなく困った表情を晒している。実際の顔もまた、同様だろう。
「こういう、かわいいのはなぁ……アーちゃんのほうが似合うやろ。ウチには似合わん」
「そんなことはないの!」
「いや、でもなぁ」
アーシャは小柄で、ふりふりしたレースのついた服装が実によく似合う。それに引き換え、アーニャは身長はあるし、胸はこんなだし、さらに言えば性格だって可愛いものが似合うようなタイプではないという自負がある。似合う者が来たほうが、服のほうも嬉しかろう。
「そんなこと! ないの! お姉ちゃんは、かわいいの!」
「でも、似合わんって――」
「お姉ちゃんは! かわいいの!」
「うぅ」
すごい剣幕で、食い気味にアーシャは強硬に主張する。
きめ細やかな気配りをして、普段はおとなしい面の目立つアーシャだが、実のところは結構我が強い。今も、「誰がなんと言おうと絶対なの!」と小さな両の拳を握り、まっすぐにアーニャの目を見上げて主張している。
少し困ったように耳をぴくりと動かして、アーニャは息をついた。
「いっつも楽な格好してんのに、変やないかなぁ……。デートやからって必死になりすぎみたいな。
カーくんの一番大切はシャロちゃんなんわかってんのに、本気ではしゃいでもーてさ、馬鹿みたいに見えへんかなぁ」
ふと、ぽつりと零してしまったのは不安だった。
それは、似合わないし、という言い訳で隠れていた、隠していた、不安だった。
「オスカーさまは、笑ったりしないの。アーシャたちの旦那さまは、そんな人じゃないでしょ? なのなの」
アーニャは、アーシャが広げてみせる真っ白なワンピースを着た自分を想像してみる。
オスカーの前で、もじもじとしながらえへへ、とはにかむ。……だめだ、ものすごく滑稽な気がする。それに、恥ずかしさだってある。猫人族の集落で暮らしていた間はボロ布を纏っていただけのようなものだったので、いつもの露出多めな恰好のほうが落ち着くのだ。
ぶんぶんっ! と勢いよく首を振るアーニャの手を、アーシャの小さなてのひらがそっと握る。
「大丈夫なの。お姉ちゃんは、かわいいの」
ベッドに座るように促され、とすんと腰を下ろすと、アーシャが後ろに回り込んで、ベッドに膝立ちになった。"倉庫"を呼び出す、見慣れた薄紫の光がパァっと散ったあと、アーシャの手には木製の櫛が握られていた。
「〜♪ 〜♪」
ふんふんと『熊殺しの女神』の唄を鼻歌するアーシャに梳られるがままに、アーニャは鏡の中で困り顔の自分と目を合わせた。
いつも乱雑に扱われ、乾かしたなりになっている赤い髪は、上機嫌なアーシャの手によってさらさらに整えられていく。鏡の中で困った表情を覗かせているのが、落ち着いた深窓のお嬢様を思わせるようになるまで、さほどの時間も掛からない。
「できたの!」
ふんす! と薄い胸を張るアーシャの前で、アーニャは再び白いワンピースを体にあててみる。綺麗な赤い髪のお嬢様は薄く頬を染め、鏡の中で少し困った顔をしていた。赤い三角の耳がぴくりと震える。
たしかに。これなら。オスカーの隣にいても、変じゃないかもしれない。それよりも前に、まるで自分ではないみたいで、かなりむず痒い感じはするけれど。
服を当てるだけでなく、今度はしっかりと袖を通してみる。ふわりとした上質な肌触りで、白いワンピースにアーニャの体はぴったりと収まった。胸が苦しい、なんてこともない。ヒンメル夫人の腕前がきらりと光った逸品である。
「気に入ってくれたなの?」
「……ん。あんがと、アーちゃん」
なんとなく見た目の様子に引きずられてしまい、言葉遣いまで少し大人しくなっている気がする。
照れ臭くはあるけれど、デートに浮かれきって、慣れないお洒落をしちゃいました、みたいな感じには見えにくいことだろう。獣人である自分と仲睦まじく歩いていたとしても、彼の風評を落とす心配も、少ないと思いたい。
「彼、仲睦まじく、なんて……にゃふふ」
髪を整えてもらって一転お嬢様っぽい見た目になったアーニャの、心の欲望が少しばかり表に漏れ出していることを、本人は気づかない。それを見守るアーシャも、微笑ましいものを見守るように目を細める。この光景からは、どちらが姉なのかわかったものではない。
「じゃあ、髪をまとめるリボンと、ぴったりのお靴を買いに行くの」
「にゃふふふ……はっ。えと、なんて?」
「お買い物なの。リボンとか、靴とかなの」
頬を染めつつベッドの上でごろんごろんしはじめたあたりで、アーシャは姉に声を掛ける。己の奇行を微笑ましく見守られていたアーニャは、さらに頬を朱に染めた。
「言うて明日やで? 靴は無理ちゃう?」
「リムレットさんのお店なら、きっと大丈夫なの。よーせーさんがお手伝いしてくれるんだって」
「よーせーさん」
「ちょっと踵の高い、白いおしゃれ靴が良いの。きっと似合うの。さ、そうと決まれば急ぐの。明日の朝に受け取れるように、お願いしなくちゃ」
「待っ、ちょぉ待って! アーちゃん、着替えるから! ちょっと待ったって!」
よーせーさん、とか気にかかるところはあるものの、アーニャの手を引いてすぐにでも買い物に出ようとするアーシャを引き留める。しかしアーシャは怪訝な顔だ。
「そのお服と合わせてみないとだから、着替えたらメッなの。さあ、行くの。きりきり歩くの」
「いーやーやぁー! 恥ーずーかーしーいー!」
買い物に出るということは、1階にいるオスカーの前を通る必要があるということだ。
「どうせ、明日見せることになるの」
「うぐっ。そうや、明日のお楽しみにせなあかんやん? ほら、靴とかは今回諦めよ?」
「でも、一番かわいいお姉ちゃんで行きたいでしょ? でーと。かわいいって、言ってもらいたいでしょ?」
「うぐぅっ……」
くすくす、と笑みをこぼすアーシャに完全に見透かされているようで、アーニャはついに視線を逸らした。そして、見つけた。買い物にも出られ、かつ1階を通らない出入り口を。
「窓! 窓から行くっ!」
「あっ。ちょっと、お姉ちゃん!? ぱんつ! ぱんつ見えちゃうのっ……はぁ。おしとやかな恰好しても、お姉ちゃんはやっぱり、お姉ちゃんなの」
言うが早いか、軽い身のこなしでひらりと窓から階下に消えたアーニャの背に、アーシャの呆れ声はおそらく届かなかっただろう。
一足先に外へと消えた姉を追うために、半ば呆れ、半ば楽しそうに、アーシャはぱたぱたと階段を降りるのだった。
翌日昼前には、ガムレル中央広場の噴水前でそわそわそわそわして、数分おきに水に映るリボンの位置を確かめてたりするアーニャの姿が観察できます。