僕と彼女と荒野の果て
険しく切り立った断崖絶壁。そこに掛かる大きな吊り橋は、揺れの影響をもろに受けて撓み、ギシギシと不快な音を立て続ける。
停車したダビッドソンの上に跨がったままの僕らと、渓谷を挟んだ向こう岸には、大きな馬車がひとつ停まっていた。その周囲はシンと静まり返っているが、しかし周りに何もない、というわけでもない。
馬車の周りには二匹の大蛇のような魔物が、荒涼とした地を音もなく徘徊していた。
赤黒い血管のような模様が背を埋め尽くす大蛇は、馬など軽く捻り殺し、一呑みにできそうなほどの大きさと太さを誇っている。口の中央から一本だけ突き出た、見ようによっては角のようにも見えるものは、どうも牙であるらしい。
馬車に繋がれたままになっている二頭の馬は、大蛇に怯えるように目を見開いて固まっており、文字通りの蛇睨みにでも遭ったかのように微動だにしない。
「グレス大荒野に出るぞって聞いてた魔物に、あんなやついたっけ」
「いいえ。荒野だけでなく、冒険者組合の書物にあった、どの魔物とも一致しません。近いのはいくつか居ないでもないですが、体躯、色合い、大牙等の特徴が一致しません」
僕の疑問を裏付けるように、シャロンも覚えがないという。落とさないようポケットの中に仕舞い込んでいた眼鏡を引っ張り出し、レンズ越しに姿をあらためる。
「こいつも新種だってのか」
「判別できなかったのですか?」
背中から問いかけるシャロンに、"全知"の見立てを頷きで返した。昨今は新種の見本市でも開催されているのだろうか。
特徴的な一本の牙、その全体がぬらぬらと煌めいて見えるのは、先端から漏れ出ている溶解性の毒液によるものらしく、それに関しては"全知"の力で看破できた。眼鏡の持つ"全知"の神名の力が衰えてきているとなれば直しようがないのでお手上げなのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
大蛇は一本牙から溶解液で相手の身体の体表面を溶かし、剥き出しになった血管に直接毒をぶち込むという攻撃手段を取るようだ。上品にも程がある。
ただし、攻撃手法が判ったところで、いつもであれば看破できるはずの種族名は不明なままだ。レッド・スライム、闇狼と同様の現象だった。
なぜまだ馬車が襲われていないのかは不明ながら、奴らが安全な存在でないことも、また同様に明らかだ。大蛇のすぐ近くで、人間の片腕だけが鮮血を地に吸わせていることから、奴らの凶暴性は十分に察せられる。肉片が握りしめているのは馬用の鞭のようなので、哀れな御者の肉体の一部だろう。
他の部位がどこに行ったのかは――でっぷりとした大蛇の腹を見れば、こちらもまた明白に思えた。
そんな魔物2匹に纏わりつかれた大きな屋根付きの馬車は、今や広々とした棺桶が如しだ。
大蛇のほうも、とっくに僕らに気付いているようで、にゅっと鎌首を擡げてみせた。黄土色のぎょろぎょろした眼球が忙しなく蠢いているのが、渓谷を挟んだこちら側からも見て取れる。僕らを獲物と見定め、睥睨しているのだ。
これまたどういうわけだか、馬車の側から離れる気はないようだったが。
「ダビッドソンなら振り切れると思うけど、あの馬車も気にかかる。……ちょっと寄り道になるけど」
「はい。オスカーさんの望む通りに。
――ふふ、私はオスカーさんのそういうところも、素敵だと思っていますよ」
シャロンはいつものように二つ返事で応じてくれる。それに伴って、ダビッドソンの進路を橋へと向けた。
大きく軋む橋を渡るのは、本来であれば神経を削る行程となっただろう。
しかしダビッドソンの車輪はレッド・スライムの特徴であった吸着と魔力固化、並びに宙靴と同様に車輪の下に"結界"を展開して走破することもできる。最悪、橋が落ちたとしても僕らは問題なく向こう岸に渡ることが可能だ。
ともあれ、橋が谷底へと落ちていくこともなく、そのまま渡りきった僕らは、ダビッドソンから降りて伸びをした。
長時間同じ姿勢でダビッドソンに跨っていたために身体が凝り固まっており、また、普段は"倉庫"頼りのために久しく感じていなかった荷物の重みによる疲労からの、生理的な反応だ。が、二匹の魔物にとっては挑発に見えたのか、それとも大きな隙と感じられたかしたらしい。敵意を露に、溶解液を放ってきた。
「"紫剣抜刀――収斂・直剣"」
特徴的な一本牙から噴出された溶解液は一瞬だけ舞い上がり、雨のように広範囲に散布される。
それが降り注ぐ前に、腰に備え付けておいた紫剣の柄を握り、引き抜きながら詠唱を口にした。
起句に呼応した紫剣は、柄だけの状態から回帰。間を置かず、夕日を吸い込むような深い紫を宿す剣身を宿す。
紫剣の剣身は、魔石が剣の形をとっていると言って過言ではないような、高密度の魔力結晶である。
僕の魔術発射台として、威力を高めたり、肉体への負荷の低減、二重詠唱の制御を比較的容易にしてくれる反面で、剣として扱い続けるにはいささか脆かった。闇狼との一戦では、あわや砕けるかというところまで追い込まれたほどだ。
さりとて、魔術補助具としての性能を落とすのも癪だった。紫剣をより頑丈にする方向での改修を諦めた僕は、それならばいっそ、壊れそうになったら剣身を作り直せるようにしようという発想に行き着き、その結果生まれた産物が今の紫剣である。
ひゅん!
勢いよく風切り音を振りまき、剣先を大蛇へ向けて固定。
「"凍てつき閉ざせ、氷結!"」
降り注ぐ溶解液は"結界"魔術で防ぎ、同時に紫剣に蓄えられた魔力を用いて攻撃を行う。
複数の術式が体内で荒れ狂うことがないので、二重詠唱の負荷はかなり軽減できる。
溶解液を噴出した直後の硬直に、地面から突き出た氷の刃が殺到する。
狙い違わず、1匹の首をすっぱりと切断し、わずかに反応できたもう1匹のほうも、その身を深々と貫かれる。
「グッ!? ギャゥルルルルルルゥ――!!」
縫い付けられた1匹が苦悶の絶叫をあげる中、即死したもう1匹は毒々しい緑の体液を噴出し、わずかばかりの間だけ宙に舞っていた首が地面に到着。どちゃりと生々しい音を振りまいた。
僕とシャロンとダビッドソンの上面を覆う"結界"に阻まれた溶解液は、周りの地面をじゅうじゅうと灼いて、不快な匂いを立ちのぼらせる。
"結界"が溶け出すことはなかったが、石さえ黒ずませる溶解液の威力はなかなかのものだ。瓶で採取できるだろうか。無理ならあの牙を加工して、などと、素材の今後の使い道について思いを馳せる。
有り体にいって、油断していた僕を嘲笑うかのように僅かな風切り音が夕暮れの空を切り裂いた。
「えいっ」
しかし。
僕が迂闊だったのは否めないが、僕を守護する彼女は、そうではない。
シャロンが素手で何かをはたき落とす動作をしたかと思うと、地面に真っ二つに折れた矢が転がっていた。
全体が黒く塗られた矢は、暗殺用途なのだろう。そしてそれは、氷柱に貫かれて死にかけの大蛇が放ったものでは、ない。
どの方位から飛んできたのかも察知することができなかったので、仕方なく"結界"の範囲を全方位へと拡げることにする。
長距離移動や荒野によって魔力が損なわれているのは事実なので、できれば避けたいのだが、この際仕方があるまい。
「ありがとう。助かったよ、シャロン。
――シャロン? あの、シャロンさん?」
「ふふふ、ふふ。オスカーさんを狙いましたね?」
察知できていなかった不意打ちを見事に防いで見せたシャロンさんは、しかし。お怒りだった。
馬車から少し離れた雑木林の中、その一点を見据えて、静かにお怒りだった。
「オスカーさん、ちょーっと行ってきますね。襲撃者に、生まれてきたことを後悔する機会を差し上げます」
「落ち着いて。面倒事に巻き込まれたのは確定だけど、あの馬車を守ろうとしてのことかもしれない。まだ敵とは……あ」
かつ、かつ、がつん。
"結界"に阻まれて地に落ちた漆黒の矢、三本。シャロンの見据える雑木林、すぐ脇の岩場、反対方向の岩陰の、三方位から。ほぼ同時に放たれたそれらは、襲撃者が複数居ることの証左に他なるまい。
事もあろうに、今度の矢は全て、シャロンに向けられている。
「なるほどなー。なるほど、なるほど。いやー、斬新な自殺願望の表明だなぁ。何枚爪が飛ぶかな」
「オスカーさん、落ち着いてください。私なら大丈夫ですから。怒っては相手の思う壺やもしれません」
どうどう、と僕の腕を掴んでその場に押し留めようとするシャロン。ふん、命拾いをしたな、と襲撃者がいるらしい方向を睨めつけてみる。
「でも私のために怒ってくださるオスカーさんも、素敵です」
シャロンは僕の左腕をぎゅっと抱いたまま、満面の笑みを浮かべる。その満面の笑顔に、何者かから襲撃を受けているというのに気が緩みそうになる。
続く矢はない。必殺の矢を二度も防がれたばかりか、対象がいちゃいちゃしだすなど襲撃者も想定外なのだろう。
「姿の見えない襲撃者も気になるけど、こうなってくると馬車の状況が俄然気がかりだな」
「はい。手分けしましょうか。馬車の中には生存者が5人に、おそらく遺体がひとつ、です」
シャロンの提案に、ふむ、と少し考えてみる。
地に落ちている黒塗りの矢を見るに、襲撃者はただの人間だ。おそらくシャロンにとって脅威になるどころか敵にすらなるまい。
残る懸念はダビッドソンを含む荷物の類だ。腕輪を媒介に"倉庫"へのアクセスを試してみても、こちらは不発。当初の悪い想定通りグレス大荒野に阻まれて、研究所地下の転移装置へ経路が繋がらないらしい。
わずか半日で乗り切れたことから、とんだ『雑魚う野』だなとか思っていたのは撤回すべきかもしれない。
"倉庫"が使えないならば、ダビッドソンは荷物とともにここに置いて事に当たらねばならないだろう。"結界球"を置いておくが、攻撃を受け続ければ壊れ得るものだ。
ここで、僕とシャロンの二人ともが馬車の方へと行ってしまうと、最悪の場合は移動手段や食料を失う羽目になる。世の冒険者諸兄は常日頃からこのような荷物の制約などとも戦っているのだろう。
人間は飲み食いしなければいずれは餓えて死ぬので、こればかりは、個の力だけではどうしようもない問題だった。
あまりシャロンをひとりにはしたくないが、仕方あるまい。
「それじゃ、シャロンは襲撃者の排除、もしくは無力化と、荷物と馬車自体の守護を頼む。
馬車の中にいる間に馬に矢でも当てられて、谷底行きにでもなったら対処できない」
「はい。お任せください」
「気をつけてね。危ないと思ったら、すぐ離脱して」
「はい。――オスカーさんも、お気をつけて」
少しの間見つめあったあと、僕らは勢いよく身体を離した。
僕は馬車のほうへ。シャロンは襲撃者の潜む木立のほうへと向けて、駆ける。
動き出した僕のほうへは矢が1本だけ飛んできたが、先ほどと同じく"結界"に阻まれて地に落ちた。
横目でちらりと窺ったシャロンのほうでは、てんで見当違いの地面に矢が突き立っている。シャロンの動きが速すぎて、狙いがつけられていないのだ。
未だにしぶとく生きてはいるものの、動くこともできない残る1匹の大蛇にさっくりトドメを刺しておく。
怯えているのか、落ち着きのない馬たちの脇を通り抜け、開け放たれた幌の間から荷台へと踏み込んだ途端、噎せ返るような血の匂いが広がった。