誕生日のはなし - あなたの生まれたこの世界が、優しいものでありますように
4/27、オスカーくんの誕生日特別編です。
「あなた、なんて顔してるの」
「すまない、すまないキルシュ。だって、こんな……ああ、俺は駄目な夫だ」
「少し寝てきたら? すっきりするかもしれないし」
小さな村の、小さな家の一室。青白く、まあるい月が窓から顔を覗かせる。夜鳥のとぼけた声までもが自分を嗤っているような気がしてきて、オズワルド = ハウレルは頭を掻いた。
「キルシュが大変なときに……いや、違うか、そうじゃない。たぶん不安で寝られやしない」
「あなたがいても、今はとくにできることがないわ?」
「ぐっ……!!」
キルシュ = ハウレル、自身の妻からの容赦のない口撃に苦悶の息を漏らすオズワルド。役に立てないことは彼自身よくわかっているのだが、それでもいてもたってもいられない。だから、彼は産婆のおばちゃんの邪魔にならないよう、部屋の隅っこに半ば挟まるようにして、キルシュの手を握り、祈り続けていた。
今でこそ、落ち着いて言葉が交わせるキルシュとオズワルドだが、少し前までの妻の、額に玉のような汗を浮かべた苦悶の表情が瞼に貼り付いて離れず、オズワルドを憔悴させる。大変な思いをして頑張っているのはキルシュと、自分たちの子。オズワルドは何も出来やしない。
こんなに不安に苛まれるのなら、治癒術師でも雇ったら良かった。莫大な金が掛かるが、オズワルドは夫であり、これからは父になるのだ。金なら稼ぐ。だから――だから無事に。無事に、産まれてくれ。どうか、無事に。無事に産まれますように――!!
こうして祈りを繰り返すことしかできない自身が、オズワルドはひどく力不足に思えて仕方がなかった。
「ああ……力がほしい……」
「筋トレでもしてきたらいいのよ?」
ぼそりと漏らした声は、やれやれといったキルシュの声に斬って捨てられる。
狼狽し、祈り、手を握り、悲痛な顔をするオズワルドに、キルシュは『仕方ないなぁ』と密かに破顔した。
人の痛み、怖さ、思い。そういったものにすぐに共感してしまうオズワルド。そんな優しい彼との子供を産むためにこそ、こうしてキルシュは頑張っているのだ。
次第に短くなって来る痛みの波と、共に来る不安に歯を食いしばりながら、朦朧とした意識でキルシュは右手をきつく握る。そっと握り返してくれるオズワルドの手に縋り付くように。
キルシュは、自らが母になる日が来るなどとは、思ってもみなかった。こうしていよいよその時を迎えようという今になっても、まだ不思議なくらいだ。自分に子育てが務まるとも思えない。
いい母親になれるのだろうか。今の稼ぎでやっていけるのだろうか。キンカ村は平和なところだが、辺鄙な村とも言える。満足のいく教育をしてあげられるだろうか。男の子かな、女の子かな。お隣のジェシカちゃんと仲良くできるかな。あ。また、波が。
「ぅッ……あぁ、あぁぁあ、ぁぁぁあッ……!!」
「キルシュ!」
身体の芯から湧き出る痛み――いや、痛みなのか疼きなのか、渾然となった衝撃が、キルシュの視界を滲ませ、思考を白く染め上げる。
「ぁぐッ、ぅぁああ、ぁああああッ! かはっ、ふー、ふー、ぁあ……、あああッ!」
――幾度それが襲ってきただろう。キルシュの握り締めた彼の手は、きっと爪が刺さり、ひどいことになっている。でも、そちらに視線を向ける余力も最早無い。
いつしか、月明かりとは違う、白んだ光が室内に差して新しい日の訪れを告げた頃、今までにない大きな痛みの波が来た。
キルシュは歯を食いしばり、視界がチカチカと明滅する。誰かが大声をあげた。キルシュがあげた声かもしれないし、別の誰かかもしれない。なにがどうなったのやら、キルシュには判然としない。
――ただ、ようやく。何かが終わったような、何か大きなものがなくなったような、喪失感に似た感覚が、疲れ切った身体を包んでいた。それを境に、白一色だったキルシュの視界は、端から段々と黒く染まっていく。
ああ。私ったら、お母さんになる前に、命の力を使い果たしちゃったのかしら。
ここぞというときにドジっちゃう癖、結局治らなかったなぁ。せめて私たちの子が元気に産まれたのかどうかだけ、ひと目だけでも見たかったけれど。もう嘆息する気力すら残っていない。
この、身体からごっそりと命が漏れ出す感覚は、キルシュにとって覚えがあるものだった。
魔力欠乏症。魔術を使いすぎて体がついてこなくなったときに、両手に掬った水が溢れ落ちるように――命がぼろぼろと欠けてゆく、怖気の走る感覚。
お産は体力を極限まで擦り減らす。それで命を落とす者もさして珍しくないことを、キルシュは知識として知っていた。
その上さらに、魔術師の出産は困難なものだ。胎内の子が魔力欠乏症に陥らないよう、母体は魔力の供給を続ける。魔力も体力も使い果たし、ただでさえ命の危険があるお産の難度が、より高いものになるのだ。強力な魔術師の家系のお産があるときは、魔力を充填する特殊なポーションを用立てたりするという。一般家庭では決して手が出せるような額の代物でないことだけは確かだ。
王都での学徒時代、卒業したら嫁に来い、と魔術師の名門からお声が掛かったこともある。
この国で魔術師を志す者なら、誰もが聞いたことのあるような家名、その第三夫人として迎え入れる用意がある、と。キルシュは鼻で笑って辞退したが、あの家であればお産で命の危機を感じることはなかったかもしれない。
かといって、キルシュに後悔はなかった。命が溢れゆく感覚を味わいながらも、不思議と充足感すらある。
オズワルドの子だから、私は産みたいと思ったのだ。だから、その結果がこれなら――うん。悪くない。その思いに、嘘はない。
大丈夫。私がいなくたってオズワルドなら、子のために乳母を見つけてくることができる。きっと。
ほとんど真っ暗闇に沈みつつある視界に、塗りつぶされつつある思考。それなのに、浮かんでくるのは遺される夫と子のことばかり。
おしめをちゃんと替えられるかな。落とさずに体を洗ってあげられるかな。抱っこの仕方はわかるかな。夜に泣いたときにはちゃんと寝かしつけてあげられるかな。
あれ、これ、私、死んでる場合じゃないわ?
「――ッ!!」
声にならない声をあげ、キルシュは歯を食いしばった。どこか噛んだのか、口内を血の味が蹂躙する。血の味。それはとりもなおさず命の味、だ。
黒く染まりかけた視界、身体の端から熱が消えていく感覚、それらの全てを知ったことかと気合いでねじ伏せ、キルシュは強引に目を見開いた。黒かった世界に色彩が溢れる。数多の色彩の中で、旦那が泣いているのがわかった。
「――キルシュ!
ああ、ああっ、キルシュッ――良かったっ!
息してなくて、もうだめかと、うぐっ、ぐすっ……」
「おちついて、あなた。
――だいじょうぶ。もう、だいじょうぶ、だから」
「ぐすっ……。えぐっ……。キルシュ、本当に、よく頑張った、よく頑張ってくれた。ありがとう、キルシュ。ありがとう、神様っ……!
子供も無事だぞ、元気な男の子だ」
そうだ、こども。わたしたちの子。
どこかぼーっとした頭に現実感が追いついて来て、徐々に手足に熱が戻ってくる。産婆のおばちゃんが、そっと子供をキルシュの顔のすぐ横に置いてくれた。柔らかな羊毛に包まれて、目をきゅっとつむり。小さな存在がそこには確かに生きていた。涙が一筋溢れ、血の味に噎せた。
「――見て、この子。目許があなたそっくり」
隣の小さな存在を愛おしげに見つめるキルシュ。夫の優しい顔立ちの特徴を、小さな顔に見出して、目許を緩ませる。お人好しで優しい夫のように、女の子をやきもきさせないか、今からちょっとだけ心配だ。
「こんなに小さいのに、ちゃんと指がある。キルシュ、みてくれ。もう俺の指を掴めるんだ。ほら! しっかり握ってる! この子、天才なんじゃないか」
「おちついて、あなた」
キルシュが目覚めたこと、自分たちの子供が確かに生きていることを認識し、ついにオズワルドは喜びが決壊したように声をあげた。
大声にびっくりしたのか、産まれたばかりの赤子は目を閉じたまま、「ぴぇっ」と随分下手な泣き声を出す。その声もまた、キルシュの視界を滲ませた。
「人より強くなくたって。優れていなくたって。私は、私たちはあなたを愛して、守り続けるわ」
小さな存在に、そっと語りかける。
小さな手のひらに指を触れさせると、小さな命はきゅっと握り返してきた。オズワルドの興奮する理由が、キルシュにもよくわかる。
その小さな手を、オズワルドの大きな手が包み込む。親子三人はそれぞれの温もりを感じて微笑み、眩しいものを見るように相好を崩した産婆のおばちゃんはその場をそっとあとにした。
「元気に、健やかに育つように」
「ええ。私たちが、きみを守ってあげるからね。たとえ、命に代えたって。ぜったいに守ってあげるから」
この、小さなてのひらの温もりを守る。
かつて冒険者レベル2だったキルシュは母レベル1として、現役冒険者レベル1のオズワルドは父レベル1として。この日、ともに手を取り合って、育児という苦しくも楽しい波乱の日々の幕開けを感じていた。
「願わくば――そうね。優しい子に育ってね」
花の月、下の12日、早朝。オスカーと名付けられた存在が、世界に小さな産声をあげた。
十数年前の、願いの話。
今や彼は、守る側になりました。