僕と揺れとその対策 そのいち
たゆんと揺れて。
ぽよんと弾む。
思わず生唾を飲みかけた自分に気づいて、素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「なぁ〜、なんで目ぇ逸らすん」
ずい、と身を乗り出してくるアーニャ。目を逸らす僕。
そんなやりとりが、今日も客のいない工房の一階で行われていた。
「カーくんが言うてんで、揺れで困ってることないか、って」
アーニャはぷくぅっと頬を膨らせてみせる。
ああ、言ったさ。確かに言ったけど。
揺れで困っていることを聞いたら、揺れて困っている相談を受けることになるとは思っていなかったのだ。
工房にお客さんが来ないのをいいことに、皆僕のまわりでだらっとしていた。
ラシュはらっぴーを引っ張り、シャロンは工房内を歩き回って、アーシャはまじめな顔で首輪をピカピカに磨き上げている。平和だ。平和な光景だ。
それも、ずずいっと迫ってくるアーニャさえ躱せれば、だが。
「なぁってば〜。思いっきり揺れるとおっぱい痛いねんってば」
自らの手で、こう、ゆさゆさとその部位を自己主張をさせながら、アーニャがじと目で見つめてくる。
再び逸らした目線の先では、自らの胸元をぺたぺたと触り、しょんぼりとしたアーシャと目があった。その側では同じく胸元をぺたぺたしているラシュと、そろーっと逃げ出そうとするらっぴー。あ、捕まった。
「だいたい、今朝やってカーくんが激しくするから」
「人聞きが悪すぎる……」
ここ数日、僕とアーニャは朝の組手を、半ばなし崩し的に日課にしている。
そう、組手だ。僕とアーニャは組手をしていただけだ。健全だ。健全に組手をしていただけなのだ。人聞きの悪いことを言わないでほしい。
……確かに、目のやり場に困るほどの激しい揺れを伴ってはいたし、目を逸らしかけたところを強襲されてヒヤリとしたところもあったのだが。それはそれだ。
「おっぱい痛くならへん道具って難しいん?」
「そもそも考えたことがない」
「そっかぁ〜」
にじりよってきていたアーニャが後ろに回り込み、のすっ、とばかりに弾力のある重みが僕の頭に乗せられる。
あまりそちらに意識を割かないように気をつけつつ返答した僕に、気の抜けたようなアーニャの声が返された。
今も間断なく続いている小刻みな揺れに逆らわず、その弾力のある塊は、僕の頭の上でむにむにと形を変える。むず痒いような感覚を無視すべく手元の魔道具に目を落とすが、さっきから意味のない部分を撫でたり擦ったりし続けているだけになっているので、全く作業は進んでいなかった。
「はぁ〜。楽ちんにゃぁ」
「物量で迫ってもオスカーさんは陥落しません。大事なのは、そう、形なのです!」
極力、アーニャのそれを無視したい僕の心情を知ってか知らずか、少し上からシャロンの声が混ぜかえす。上から目線というわけではない。物理的に上の位置からの声なのだ。
中空に立つシャロンが、若干得意げに胸を張っていた。
「ふーんだ。ウチやったらシャロちゃんにでけへんこともやったげるで?」
「むぅぅぅう〜!!」
「にゃっははははは!」
言い返されて頬を膨らせるシャロンに、してやったりと笑い声を上げるアーニャ。笑い声に合わせてその弾力のある物体が、僕の頭上で跳ねる。
ほとんどの場合、シャロンとアーニャは仲が良い。仲違いどころか、アーニャを僕にけしかけようとすらするくらいなのだが、こと胸のサイズの話になると、シャロンはアーニャのことを若干羨んでいる節がある。
とはいえそちらの話を掘り下げるのはあまり得策ではない。僕がどういう顔をして聞いていたらいいのか困るというのも問題だし、アーシャが虚空を見つめて遠い目をしているためだ。なので、僕は話を変えた。シャロンも僕の意図を察してくれたようで、直前までの頬を膨らせた様子を微塵も感じさせずに応えてくれる。
「ところで『宙靴』の調子はどう?」
「はい。すこぶる良いです。加えて言うなら、バランスを崩した時用に、同様の機能のある姿勢制御装置――そうですね、手袋などがあると完璧ではないでしょうか」
「なるほどね。シャロンはバランス感覚がいいけど、僕らがそう扱えるとは限らないもんな。
ありがとう、とても参考になった。考えてみる」
「はい。お役に立てましたか?」
「うん、とっても」
「えへへ。嬉しいですっ!」
シャロンは満足しましたとばかりに破顔すると、るんるんと弾む足取りで、工房の空中散歩を再開する。そんな僕らのやりとりに対して僕の頭上では、アーニャがやれやれとでも言うように、小さくため息を零した。
シャロンのすらりと伸びる白い足を覆っているのは、エムハオ革で編み上げた深靴型の魔道具、名付けて『宙靴』だ。それっぽい神聖語をシャロンに聞いて、語感がよかったもので命名した。それなりに納得のいく名前になった自負がある。同時に、適当に"すごい倉庫"なんて名前をつけたときの行動が悔やまれた。
――いやまあ。この際べつに、名前のことはいいのだ。
この魔道具により、シャロンは地に立つかのごとく、何もない中空に留まっていた。
付加されているのは"結界"の術式だ。
従来であれば高等魔術に分類される"結界"の魔術は、専門の結界術師でないとあまり意味のある効力は発揮できないとされている。これにはいくつか理由があるが、主な理由はその複雑性にある。
"結界"を生成する。魔力を練り上げて、現象として外界に効力を及ぼす。そのためには、『どこに』『どれだけの強度で』『どれだけの大きさの』『どんな性質の』ものを、『いつ』『どれだけの期間』で発揮するのか。"結界"の術式を有効に保つには、これだけの操作を並行して、常に認識し続ける必要がある。このように、必要とする変数が多いことが、高等魔術たる由縁だった。
魔道具に付加するにあたり、そのあたりを簡略化したのが、この宙靴である。
"結界"の魔術が発動するのは、魔力が通されている間、足の裏にあたる領域のみ。強度は人を2、3人乗せて砕けない程度に固定。性質も対物に固定している。つまり宙靴は、"結界"により何かを阻む作用を目的としたものではなく、空中に即席の床を作る魔道具なのだ。
材料にレッド・スライムの魔石や、希少金属である金、これまた希少な鉱石であるロジュメル鉱石を使っているために、今のところ量産には向かない。しかしこれがあれば、たとえ地面が揺れていようとも、関係なく戦えるようになるはずだった。
朝の鍛錬をアーニャとやるようになって着想し、実用段階までこぎ着けた産物である。
「宙靴が上手くいくようなら、調理場やベッドにも応用できるな」
「なの? 調理場?」
揺れが防げるならばと、次なる構想に思いを馳せる僕の呟きに、耳をピンと立ててアーシャが反応する。
ラシュは中空を散歩するシャロンを見、らっぴーを抱きかかえて目を輝かせながらそのあとを追っているのだが、工房の食事事情を一手に引き受けるアーシャにとって、浮かぶ靴よりも調理場の改修のほうが興味を惹かれる問題らしい。僕はそれに頷いて答える。
「火がついてる間は足場に"結界"を発動して揺れないようにしたり、ベッドだと上に誰かが乗ってる間揺れないようにしたりね。
靴みたいに磨り減る心配をしなくていいし、魔法陣を刻める面も広いから、むしろ宙靴よりも簡単なんじゃないかな」
「ほんとっ!? やっぱりオスカーさまはすごいなの」
目をきらきらさせて、アーシャは声を弾ませる。結わえた髪が、ぴょこんと跳ねた。
「シャーねーちゃんうれしそう、だね」
「ピ」
「とっても嬉しいの。みんなに美味しいもの食べてもらいたいの。
これでまた、煮込み料理もできるし、油を使った料理もできるようになるのっ」
小さく拳を握りしめ、アーシャは期待を滲ませる。このところ満足に料理ができなかったことで、不満が溜まっていたのだろう。
揺れが止まらなくなって以降、火を使うのは必要最低限だった。揺れによって鍋が倒れるだとか蝋燭から燃え広がるだとかによって、火事の件数が急増しているからだ。そういった理由から、飲食店や風呂屋も、軒並み閉まったままだった。
夜になってしまえば明かりは極端に減る。月明かりか、ごく一部にしか普及していない魔力灯しかないのだから、月の出ない夜はほぼ真っ暗闇と言ってもいい。揺れ続ける地面で、不安に苛まれながら朝を待つしかないのだ。
暗闇に閉ざされた町では、家屋に押し入って金品を奪ったり、強姦、さらには住人の失火を装って火を放つなんていう重大犯罪が発生していた。その時の犯人はカイマンから依頼を受けて捜査して、とっ捕まえはしたものの――いつまた同様の事件が起こるとも知れない。
そんな不安定な情勢において、平時のように戦える手段の確立や安眠の確保、火災リスクの低減は小さくない意味を持つことだろう。
魔道具の設計や改修、依頼を受けた商品の増産、ついでにシャロンの意見を聞きつつアーニャの下着の原型を作ったりして数日経った。
そうしている間にも、ガムレルの町では先日の魔物侵入における被害状況の確認や、壁の補修作業がひとまず完了したらしい。
時折大きく揺れる地面では、しっかりした足場を組むこともできず、石工職人が大層苦労したらしい。そんなようなことを、数日ぶりに訪れた美青年は身振り手振りを交えて零した。
「父上がまたオスカーに直接礼を述べたいそうなんだが、領主として対応に追われていて時間が空けられない――というか無理に空けようとして爺やに捕まり、半ば執務室に軟禁状態にある。君を蔑ろにする意図はないのだが、しばらく身動きが取れないだろう。すまないな」
「お、おぅ……。いいよ僕は。そういうの面倒だし。
リーズナル男爵も大変だろうけど、お前も大丈夫なのか?」
「なんと、私の心配をしてくれるのかい? やはり持つべきものは友人だね」
「うっぜぇ!」
カウンター越しに腰掛けるカイマンは、無駄に芝居掛かった身振りでいつものように歯を光らせる。
しかし表情には隠しきれない疲れが滲んでおり、顔や手には治りきっていない細かな傷もあった。
「どうぞなの」
「ああ、ありがとう」
にこやかに応じたカイマンは、少し眦を下げ、わずかにため息を漏らした。
ぺこりと一礼して下がったアーシャが置いたお盆。その表面には魔法陣が浮かび上がっており、上に置かれた透明なガラスのカップに注がれた透明な水には波紋一つ生じていない。今も細かな揺れを続けるガムレルの町にあって、その現象は異質なものだ。疲れた表情を浮かべていたカイマンだったが、すぐにその異様に気づいたらしい。
「もはや君の作るものには驚くまい、という心構えすら無意味なのだろうね。これは一体どういう仕組みなんだい、オスカー」
「よくぞ聞いてくれた。このお盆は実はほんの少しだけ浮いている。だから、揺れの影響を受けないんだ」
どうだすごいだろう、と自慢げに答えた僕だったが、期待したほどの反応がない。というより、正確には理解が及んでいない、だろうか。
「浮いて……? それは、鳥のように地に足を着けず、ということなのか?」
「ピェ」
困惑を浮かべるカイマンに、らっぴーが合いの手を入れる。が、お前はほとんど飛ばないだろう。
「そんなところだ。まあこれは副産物というか、べつにお盆が作りたかったわけじゃないんだけどな。
そうだな――ラシュ、見せてやってくれ」
「ん」
僕が呼びかけると、ラシュはどこか得意気にすっくと立ち上がる。彼は頭にらっぴーを乗せたまま、何も無い中空を踏みしめた。一段、二段と階段を登るようにして、カウンターより少し高いところで立ち止まる。その足の下に、足場は無い。
グラスに手を伸ばしかけていたカイマンも、これには目を剥き固まった。ふふん、とばかりに胸を張るラシュの所作は、僕のすぐ横で何故か胸を張っているシャロンと全く同じポーズだった。仕込んでるのか。
ベッドや竃を改修するにあたり、習作として作ったのがこのお盆であり、宙靴はすでにハウレル家全員に、それぞれサイズのあったものを配備済みだった。
ちなみに。
「カイマンの分もあるぞ」
「ぶっ――――――――!?
ごっっふ、ぐ、ごっほ、ごほっ! ごほっ!! おすか、きみ、ごっほ、げほ、ごっはっっ!」
「落ち着けよ……」
ほい、とばかりに取り出した宙靴――冒険者仕様のため、軽鎧のように表面は金属製の趣だ――と共に告げた言葉に、ついにカイマンが噎せた。落ち着くために水を飲もうとしたタイミングだったのが、さらに被害を拡大させている。
「おおう。大丈夫かいな」
咳き込む背中をアーニャにぽんぽんと優しく叩かれ、涙目になりつつもカイマンは息を整える。ようやく落ち着きを取り戻してきたようだった。
「……はぁ。す、すまない。いや、これは私が悪いのか……? 少し釈然としないものがあるんだが」
「細かいこと気にすんなよ、中級冒険者様なんだろ」
「関係ないと思うが。それをいうと君は”翠玉格”持ちだろう。
というか、なんだあれは。もはや国宝級ですら軽く凌駕している気がしてならないぞ。そんなに無造作に渡されて良いものでもないだろう。――まあ、黒剣の段階からそんな感じだったが」
カイマンは驚き半分、呆れ半分といった様子で首を捻る。
「じゃあ、もう少しゆっくり渡し直そうか?」
「オスカーさん、オスカーさん。ラッピングをご所望なのかもしれません」
「なるほどなの。じゃあ、アーシャ、メッセージカード書くの」
「渡すシチュエーションも重要やと思うで」
「枕元に、そっと置く?」
やいのやいのと楽しく『どう渡すか』を相談する僕らに対し、カイマンは片手を額に当て首を振る。
「気遣ってくれてありがとう。だが違うんだ、そういうことではないんだ。
というかラシュくん、朝起きたときに枕元に至高の魔道具が置かれていたらどう思う」
「んと、……うれしい?」
「そうか……私のほうがアウェイか。うん、そうだね、きっと君たちはオスカーのトンデモ魔道具が身近すぎて、もはや価値観が違うのだろう。
――今出してもらった甘酸っぱい風味の水も、そういうことなのだろう。なんだか気づけば傷が治っているようだし」
「高位回復水だな。回復薬茶より長持ちで高回復だぞ」
「そういうところだぞ、オスカー……」
持続回復する術式を仕込んだ水溶性の鉱物を溶かし、限られた素材でアーシャが味を整えた、新作ポーションの効果。それを身をもって体験した美青年は、トドメを食らったとばかりに、ついにがっくりと項垂れた。
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