誕生日のはなし - アーシャはオトナになりたい
2020年度のアーシャ誕生日特別編です(あとから差込投稿しています)。
時系列が多少変? かも? ですがご容赦ください!
使い込まれた『妖精亭』の石窯はけして薄汚れているわけではない。これまで数々の『美味しい』を創り出してきた窯は、店主の自称する『ただの道楽』という言葉とは裏腹に、年季が入った、という形容が一番しっくりくるだろう。
炭の焼ける匂いに混じって鼻腔を刺激するのは今晩の店の主役となる料理だ。黒ソリトン豆と干したブォムの肉、時間を掛けて魔素抜きをした内臓に、香草を揉み込んで臭みをとったオークの耳。閉ざされた石窯の内で、蓋をした鉄鍋の中、旨味をぎゅっと閉じ込めるようにじっくりことこと煮込まれている。ときおり鍋の口から吹きこぼれて滴り落ちる肉汁が、白くなった炭を大いに喜ばせる。
だというのに。この日のアーシャはどこか様子がおかしかった。
下拵えの段階から口数が少なかったので、マスターからそれとなく何度か帰宅を促されてもふるふると小さく首を振るばかり。
いつもであれば窯の前でそわそわと出来上がりを楽しみに待っているのに、今や自ら磨き上げたカウンター席にのべーんと突っ伏して垂れ下がっている。垂れアーシャだ。
やや高い椅子から投げ出した足をぷらぷらさせて、石窯の踊る炎をぼやーっと見るともなしに眺めて、まさに心ここにあらずといった有様だった。
悪戯っ子の妖精娘もさすがに心配になっているらしい。だらけるアーシャの後ろのほうであっちへちょこちょこ、こっちをうろうろと落ち着かない。
「掃除も仕込みもご苦労さん。具合が悪いんなら帰って寝た方がいいだろう。心配せんでも飯は後で届けてやる。なんなら迎えに坊主か姉ちゃん呼んでくるか?」
まだ表に開店を示す看板を掛ける時分でもないので、のんびりしたいのであれば好きなだけ垂れアーシャをしていても構いはしない。だから念のために意思を確認したマスターに、やはり小さくふるふるとアーシャは首を振った。
「坊主と喧嘩でもしたか。悩みがあるなら口に出したほうがいい。大概は自分で考えてもどうにもなんねぇから悩むんだしな」
血色が悪いわけでもなく、それでいてぼやっとしており、大好きな家族のもとに帰りたがらない。十中八九、悩み事だろう。若いうちはあれやこれやと思い悩んでときに塞ぎ込むものだという。自身の若い時がどうだったかなど今となってはあまり思い出したくもないが。
垂れアーシャの耳がぴくりと動く。
「……喧嘩なんてしてないなの。オスカーさまはすっごく優しいもの。たまに心配になるくらい」
「違いない。あの生き急ぎ坊主はなんつーかこう、お人好しというにもどこか度を越してるからなぁ、っと。それじゃ、何があった。話してみな」
マスターがアーシャからひとつ席をあけた椅子に腰掛けると、待ってましたとばかりにシアンがててててーっと寄ってきた。すかさず膝によじ登りはじめる。
妖精が見えないアーシャは、視線を石窯に固定したまま、
「どうすればオトナになれるのかなぁ……」
と。深く深く溜息を吐いてから、悩みをぽつぽつと零しはじめた。
工房の主、オスカーは実はけっこうモテる。パートナーであるシャロンに至ってはモテるなんてレベルではなく、隣町から噂を聞きつけた見物人が来るほどなので、霞みがちかもしれないけれど。それでもオスカーも十分にモテるのだ。
強力な魔術師は食うに困らない。若く、困っている人を放っておけない性格で、アーシャから見たらかっこいいと思う。とても。本人は地味なのを気にしているけれど、少なくともアーシャはそういうところも落ち着くので好きだった。
『オスカー・シャロンの魔道工房』の商品は魔道具としては破格だけれど、日用品としてならばそれなりに値が張る。それでも作ったそばから飛ぶように売れるのだから、財力、甲斐性もかなりのもの。散歩のついでに魔物を根こそぎ掃討してしまえるほどの腕っぷしも持っている。さらには領主とも懇意にしており、極めつけに国王陛下から権威ある勲章まで賜わっているという。
これだけの条件が揃えば、もし仮に見た目が悪いとか性格に難があったとしても大した問題にもならない。モテないはずがないのだ。
とはいえオスカーの傍らには常にシャロンがいる。知力と美貌を兼ね備えた正妻と蜜月を過ごしているのも有名な話で、大抵の娘はそこで諦める。どう考えても勝ち目がないからだ。正妻でなくても構わないから、と諦めない者も中にはいるけれど少数派だ。
けれど勝ち目がないからと諦めた、そのやっかみの矛先がどこに向かうかといえば――それはとりもなおさずアーニャであり、アーシャなのだった。彼女らは獣人であるがゆえに、そのような負の感情を向けられやすいのだ。
アーシャたちが彼の『家族』だというのも公言されているので、面と向かって悪意を向けられるまで発展することはそう多くない。けれども聞こえよがしにやっかみをぶつけられるのも、長く続けば堪えるものがあった。
とくに町の娘たち、並びに人間や獣人の奴隷から目の敵にされやすいのが、アーシャの身に纏う服だ。ひとりでお使いに出るようになって初めて知ったことではあるのだけれど、町の人間が新品の服を誂えることなど、滅多にないことらしいのだ。
なにかの節目に仕立てられた一枚の服は、擦り切れてぼろぼろになるまで着られ、当て布して穴を継ぎ、補修を繰り返して、想像するよりもずーっと長く使われる。
たとえば成人の祝いで仕立てた一張羅を長兄が擦り切れるまで着古して、そのぼろ布をさらに妹が着て、下の弟に引き継いでいく。袖は擦り切れ裾は縮み、汗や泥や埃を吸い、やぶけ、ほつれ、どうにもならないほどの汚れや破けができた服も、他の服を補修するための材料となる。
色も抜け、生地は薄くなり、継ぎ当てや汚れを隠すために草木を煮た汁で薄汚い茶色に染まった服でさえ、布食い虫が湧いていなければまだ上等だ。
そうして使い古されたぼろ切れは古着屋に二足三文で売り払われ、それよりさらに貧困な家庭が一山いくらで購入する。虫除けに煙で燻し、使える部分を切り貼りしてまた袖を通す。
染み付いた汚れや匂いによっていよいよ着られる余地がなくなると、路地で寝起きする者たちが拾い集めてぺらっぺらの布団として使われる。
一般的な庶民の服飾事情というのは、そういうものらしかった。
そんな中で色や形が可愛い新品の服を着て、のほほんと町を歩くアーシャがそうした嫉妬の恰好の餌食となるのは、いわば必然的でもあったのだ。
曰く、『獣人趣味の裕福な小僧の寵愛を受けているだけの情婦』。
大部分の町人は善良だ。挨拶を返してくれるし、獣人だからと舐めて掛かって会計を誤魔化そうとする者もそう多くない。
万人に好かれるなんて土台無理な話だ。わかってはいるつもりでも、たまに向けられる悪意がとてつもなく怖くて、悲しい。
『言いたい奴は言わせとき、わざわざ気にしてしんどい思いして、相手を喜ばしたることないわ』とカラカラ笑い飛ばすアーニャのような強さはすぐには持てないし、『こそこそ言う奴のありとあらゆる瘡蓋とささくれをこっそり"剥がし"飛ばしてやろうか』と憤慨するオスカーにも悩みは打ち明けづらい。
アーシャが望むのはやっかみへの仕返しではなく、そう言われないくらいに素敵に成長して、家族の――彼の支えになることなのだから。
そのためにアーシャは文字も覚えたし、簡単な計算までできるようになった。
基礎的な教養が全くのゼロの状態から数ヶ月程度で簡単な読み書き及び計算ができるようになるなど、並大抵の努力ではない。それも自分の勉強にばかり時間を割いていたわけでもないのだ。
家事をこなし、何かと散らかりがちな工房を隅々まで整頓し、それだけに飽き足らずこうして料理修行のために他の店まで手伝い始める始末。
『みんな』の喜ぶ顔がみたいから。
助けてくれた大切なひとたちの役に立ちたいから。
頑張って、頑張って、頑張って。
自分たちの大好きな、素敵な『だんなさま』が獣人趣味だなんて嗤われないように。
アーシャには戦う力も才覚もないから、それでもできることを探して。笑顔を振りまいて。
彼の目が間違っていないことを証明するために、頑張って、頑張って、頑張り続けて。
そんなアーシャに叩き付けられたのが、今朝の町娘たちのひそひそ話だった。
『あんなちんちくりんに着られる服が可哀想』
思い出すだけで、目の端にじわりと涙が滲んだ。
なんてことない、ただの悪口だ。たまにある、むしろ軽いくらいの。いつもならにっこり受け流せるはずの悪口が、どうしても心にこびりついて、離れない。
きっと町娘たちは、工房の前を掃除していたアーシャに聞こえているなどと思ってもいなかっただろう。
路地の入り口あたりで井戸端会議に興じていた彼女らからは十分に距離が離れていたし、朝の喧騒の中での出来事だ。
けれども猫人族としてのアーシャの鋭敏な聴覚と、悪意に対して研ぎ澄まされたある種の嗅覚が、その声を届けてしまった。
「それでオトナに、ねぇ。ったく。そんなからかい方をするほうも十分にガキんちょなんだがな」
聞き終えたマスターは、白いものが多く混じる頭をがしがしと掻いて、溜めていた息をゆっくりと吐き出す。
「いいか嬢ちゃん。オトナなんてものはな、そう良いもんじゃない」
シアンといい嬢ちゃんといい、背伸びしたい年頃ってのはわかるがね。とごちる店主の前掛けが、小さな子供に思いっきり引っ張られたように不自然に歪む。
「なに、ほっときゃ嫌でもそのうちなってるんだ、大人なんてもんはな。どれだけ願ったところで子供にゃ戻れん。今を存分に楽しむのが子供のつとめで、それを守るのが大人のつとめってなもんだ」
「アーシャ、こどもじゃないもん」
ぷぅと頬を膨らせるアーシャに店主は苦笑いを深める。なるほど、これは重症だ。
アーシャにとっては磨き上げた首輪や手入れを欠かさない服も大切な宝物なのだ。似合うって褒めてもらった、素敵な記憶に紐付いた大事な大事な宝物。それを貶められたような気がして、胸の内をぎゅっと掴まれたような苦しさと、そんなことを言われてしまう不甲斐なさが、アーシャを垂れアーシャたらしめていた。
そうやって垂れていられるくらいには、この子にとって『妖精亭』も寛げる場所になったのかねぇ。なんてふうに目を細める店主のヒゲを、シアンが両手でさわさわと撫でる。
「ゆっくりなほうがいいんだ。いいか、アーシャ。料理と一緒だ。そこのオンボロ窯に、なんでこれ以上炭を焚べないかはわかるか?」
店主はじっくりことこと、『美味しい』を熟成している石窯を指す。
アーシャは話の繋がらなさにやや迷いながら、小さくこくり。とひとつ頷いた。
「炭を足してもっと火を強く。なんなら薪を入れてやりゃもっと火はでかくなるな。でもそうしないのはな、じっくり、ゆっくり時間を掛けたほうが仕上がりがよくなるからだ。なにも炭をケチってるわけじゃない」
アーシャは炭の小さく爆ぜる音に耳をぴくりと動かして、意味を咀嚼しているように見える。店主はよっこらせとシアンを床に置き、立ち上がりながら優しい口調で続けた。
「歳とりゃ誰でもオトナにはなるってのは言った通りだ。でもな、ただオトナになったって、そりゃあ『成長』じゃねぇ。歳を取ったっつう『変化』でしかねえんだ。焦って背伸びしてオトナんなったところで、どっかボロが出るもんだ。火をがんがん燃やして、見た目だけ焼けても中身が生だったら食えたもんじゃねぇだろ。ゆっくりじっくり成長して、中にしっかり旨味を染み込ませるのが、今のお前さんの役目だ」
ゆっくりじっくりオトナになったところで、やっかみが消えるわけではない。ただ、それを受け流すだけの余裕と胆力を持った大人にならねば、アーシャたちが辛いだけだ。
図体ばかりが大人になっても、この場合あまり意味がない。アーシャが真に必要としているであろうものは大人としての思慮分別。それを店主はわかっているからこそ、焦るなと言うのだ。
「ふふ……なんだかアーシャ、食べられちゃいそうなの」
「はは。そうやってちょっとずつ成長してけば、今に誰もが振り返るいい女になってるだろうよ。――っと、らっしゃい」
まだ完全に理解も納得もした感じではないものの、少しは迷いが晴れたような表情になって、アーシャもぴょいっと椅子から飛び降りる。
「いらっしゃいませなの」
「や、こんにちは」
『開店中』の看板を掛けないうちからやってくる初老のお得意さんだ。なんでも町のお偉いさんのひとりらしいのだが、アーシャにとっては気のいいおじちゃんといった印象が強い。
アーシャはいつものように使い込まれたコートを受け取り、いつものように皺にならないように丁寧に畳む。
「いつもの頼むよ」
「あいよ」
初老の男が指でピンと銀貨を弾く。それを見もせず空中で掴み、マスターは『いつもの』を用意する。
石窯に設置してあった桶から湯を取り、ごりごり砕いた実の粉を溶く。錫のカップに淹れられた湯は黒く変じ、馥郁たる香りを辺りに振りまく。
それをアーシャは水面に漣を刻まないように、そーっとお出しするのだ。
男はまず香りを愉しむように目を細め、一口飲んで、深い息をつく。ここまで全部、いつものやりとりだ。
と、そこで見つめる瞳に気付いたのだろう。男はおや、という表情を口元に浮かべた。
「どうかしたかなお嬢さん」
「えっと、そのぅ。オトナっぽくてかっこいいなって思ったの」
お客さんをじろじろ見るのはあまり褒められたことではない。それにアーシャは『獣人』だ。不快に思われやすいのも重々理解しているつもりだったけれど、先程のやりとりがまだ頭に張り付いていて、思わずぽろりと本音が溢れる。
男はアーシャの視線が注がれていた先の黒い液体を見、ふむ、と小さく笑んだ。目尻に皺が刻まれる。
「マスター。わしからの奢りだ」
「いいけどな、あんまりおすすめはしないぞ」
男が追加で弾いた銀貨にアーシャが目を真ん丸くしている間に、店主は流れるような工程で追加の一杯を用意する。
「召し上がれ」
「はぅ。あの、いただきますなの」
湯気の立つ錫のカップに恐る恐る手を伸ばし、口に含んで、
「うぇ」
思わず漏らした呻きに、オトナたちは声を立てて笑った。嫌な笑いではなかったけれど、アーシャはぷぅと頬を膨らませる。それになにより、口の中が。
「しっぶいの……」
なんだか、口の中全部がもにょもにょする渋さだ。眉根を寄せ、口をしょぼしょぼさせるアーシャが面白いのか、シアンが真横で顔真似をしている。妖精が見えるのは店主だけなので、吹き出さないように咳払いで誤魔化して。
初老の男は柔和な笑みを浮かべてもう一口を含み、ほぅと幸せな息をつく。
「お嬢ちゃん。オトナというのはね。仕事やらなんやらで使っちまった渋みをこうやって補給しとるんだよ」
「まぁた適当なことを」
この黒々とした液体は異国では流行りの飲み物らしい。元々は甘酸っぱくておいしいバカムという実があるのだが、その種を乾かして焙り、粉にしてお湯で煮出す。異国の果実自体が安いものではないので、一杯で銀貨1枚もする高級品だ。
一口飲んだ感想としては、こんなものが流行るのはどうかしているとしか思えないけれど、それでもオトナにとっては必要なものらしい。
「うぇ……」
二口目に挑戦してみても、それはやっぱり渋くて苦かった。
その日の夜。
夕食を終え、各々余暇を過ごしている時間、『オスカー・シャロンの魔道工房』2階の厨房にアーシャの姿があった。
『背伸びもほどほどにな』という忠告とともに少しばかり譲ってもらったバカムの粉を煮出してみているのだ。
いざ! と意気込んで、試しに鼻を摘んで飲んでみるものの、
「うぇ……」
やはり、渋いものは渋かった。
「あら。コーヒーというやつですか」
「シャロンさまに、オスカーさまも。えっと、これは『いつもの』なの。渋いの」
「『とりあえず生』的な覚え方をしてらっしゃいますね。私も実物を見るのははじめてですが」
「異国の飲み物? ふーん、これがか。ありがとう」
しきりにふんふんと頷きながら興味深そうにするシャロンとオスカーの分もカップを用意し、受け取った優しい横顔をアーシャは盗み見た。
オスカーやシャロンのオトナな眼差しに少しでも追いつけるように。そんな風に思っているのを知られたら、彼らは笑うだろうか。
「へえ、いい香りだな」
堂に入った佇まいで香りを楽しんだオスカーが、一口。『いつもの』を口に含んで。
「うぇ……」
すこぶる渋そうな呻き声をあげた。きっと、さっきのアーシャと全く同じ表情だ。
それがなんだか面白くって、ふふ、とアーシャの口からも笑みがこぼれる。
ほんのちょびっとだけ、オトナになった気がした夜だった。