幕間 - 金狐と銀狐 そのに
「んゅ……セラ姉ぇ……?」
ふとした物音に目覚めて涎を拭ったルナールは、まだ暗い室内を見渡した。4つのベッドが並ぶ部屋。自分たちに宛てがわれた、屋敷の一室。いつもと変わらぬその部屋に、いまだセラフィの姿はない。
物音は屋敷に馬車がやって来た音のようで、ぼんやりとした月の位置から、ルナールがいつのまにか眠りに落ちてからは数刻の時間が経過しているようだ。
馬車? こんな時間に? いったい誰が?
「セラ姉ぇ……?」
暗闇へ向けて再度の呼びかけ。しかし、こたえる声はない。室内に他に人影がないことは、夜目の利くルナールにとってはすでに自明である。
廊下に首から先を出し、三角の耳をぴこぴことさせてみる。セラフィの気配はない。仕方がないので、セラフィが居るであろう上階の、主の部屋へ向かう。途中、寝巻き代わりの薄い服のままだったことに気づき、出直すべきかと逡巡していたところで、ルナールは部屋からちょうど顔を出した者に気付いた。
「お前は……誰だ、誰なんだ」
顔色は幽鬼の類を彷彿とさせるほど真っ白で、目は虚空を見つめている。呟く声も、誰に宛てたとも知れぬ怪しい雰囲気だ。その男の様子にルナールは一瞬怯みそうになるが、男の様子が少々おかしいのは今に始まったことではない。セラフィを探すという目的のあるルナールは、おそるおそる声を掛けることを選択した。
「あの、主さまよ。ルナールじゃ」
「……」
「あの……」
「……」
「のじゃぁ……」
「……。
ルナールか。どうかしたのか?」
声を掛けたのに全くの無反応な男に、ルナールが若干めそりとしかけたところで、ようやく男の首がぐりんとルナールの方を向いた。直前まで止まっていたのに勢いよく振り向く様子がちょっとばかり怖かったルナールは「ぴぅ」と声にならない悲鳴を口の中で咬み殺す。
眼鏡を押し上げて直前までの無反応が嘘のようにルナールを見つめるのは、部屋の主にして、この屋敷自体の主でもあり、ルナールやセラフィ――いや、セラフィは解放されたのだから、正確にはルナールだけか――の主でもある。カイラム帝国の特別参謀官という肩書きを持つその男は魔道具技師でもあり、名をジレット = ランディルトンという。
「あ、ああ……夜分遅くにすまぬな、主さまよ。セラね……セラフィを探しておるのじゃ」
「セラフィ?」
「主さまに会いに行って、戻っておらんのじゃ。まだ部屋におるのじゃろうか?」
「そうか」
ふむ。と悩むそぶりを見せるジレット。しかしそれも一瞬で、部屋の戸を開けてルナールを招き入れる。ルナールは招きに従い、おずおずと足を踏み入れた。セラフィはたまにジレットに招かれてその部屋へと足を運んでいたようだったが、ルナールがここを訪れたことは、過去にほとんどない。逆立った尻尾が、ルナールの緊張感をわかりやすく示している。
雑多。雑然。
それらの言葉がその部屋の内情をよく表しているだろう。
羊皮紙が壁だけでなく床にも貼られ、何かの部品、鉱石のようなもの、中で何かが蠢いている瓶、大きな骨、でろりと垂れ下がった大きな尾のような何か、魔物のものであろう目玉が硝子瓶の薬液に浮かび、大きな壺、魔法陣の刻まれた板――そんなよくわからないもので埋められた部屋は、もともとの広さを全く感じられず、むしろ手狭にすら思える。
そしてその部屋の中に、セラフィの姿は影も形も無かった。
部屋をきょろきょろと見渡すルナールの前で、ジレットは口元を三日月のように裂いて笑い掛ける。
「セラフィは伝えなかったのだな」
「伝え……主さまよ、なんの話じゃ?」
言われた意味がわからずに訝しげに首を傾げるルナールに、ジレットはゆっくりと頷く。
「そう。セラフィは楽園へと旅立ったのだよ」
「……!?」
ルナールの瞳によぎったのは驚愕だ。少し前に、セラフィはルナールと語り合い、ここに残る決意を固めていたはずである。
「なぜじゃ!? いやすまぬ、主さまを疑うておるわけではないのじゃ。ただ……そう、こんな夜更けに、かの?」
本当は、自分に一言も告げずに、というところが何よりも引っかかっているルナールに、ジレットは再びゆっくりと頷いた。
「なんでも『決意が鈍る前に』とのことだ」
「それで、馬車の音がしておったのか」
「ああ。私がセラフィを送り届けていたからね。港まで」
「こんな時間に出る船もあるまいに」
『獣人の楽園』が作られる予定の島へは、どうせ朝にならねば渡れまい。それに、セラフィはジレットに自らの思いを告げにいったはずだった。それがなぜ、急にそんな行動を起こしたのだろう。あまりに予想外すぎて、ルナールには何が何やらわからない。
「私と語らう上で、セラフィは楽園を目指す思いが止められなくなったのだろう。今すぐにでも皆のもとへ向かいたい、そう言っていたよ」
ジレットはルナールから視線を切ると、部屋の端へと向かい、何やら小さく詠唱をしだした。何らかの魔道具を起動したらしく、暖炉に青白い魔術の火が灯る。
「セラ姉ぇ……」
ぽつり、呟いたルナール。視線はジレットの背に向けられているようでいて、その実、特に何も見ているわけではなかった。ただ、別れも告げずに突然居なくなってしまったセラフィを想う。
セラフィはおっとりしているようでいて、これと決めたらあまり後先考えずに一直線に突っ走る性格をしている。そんな気質が今回も発揮された、そういうことだろうか。
青白かった魔術の火は暖炉にくべられた木々に燃えうつり、今度は赤々とした光を放つ。火の上に掛けられた壺から、何やらいい匂いが漂ってくる。
くぅ
小さく鳴ったお腹を誤魔化すように改めて部屋の様子を見直したルナールの目に、ふと違和感が掠める。窓から覗く雲のかかった月は薄ぼんやりで、どこか冷たげで。そんな月の僅かな光に照らされて、違和感のもとを探るルナール。薄暗い、雑多に物の積まれた部屋で、夜目の効くルナールはついに違和感の原因たる、それを見つけた。
「これ」
雑多な床の品々に紛れた、青いリボンを、見つけた。少し前にみたセラフィは、確かにリボンを身につけていたように想う。なぜこれが、この部屋に。知らず、声が震える。
「これ、セラフィの」
「うん?」
「なにゆえ、姉ぇのリボンがここに……?」
「ああ」
ジレットが静かに振り向き、ルナールの拾い上げた青いリボンを見咎めた。
困惑を顕にする金狐を見つめるジレットは、再び笑う。口元を三日月のように裂いて、笑いかける。
「見つけてくれたか。良かった」
「主さまよ。それは、どういう?」
残ると言ったはずのセラフィはすでに居らず、そのセラフィの宝であるはずのリボンが手の中にある事実。ルナールは、明らかに動揺していた。
「それは、セラフィからルナールにと託されたものだ」
「託された……?」
「そう。――だったのだが、見ての通り、散らかっているだろう」
「そんなことは……ない、とは言えんか」
部屋の主がこうまで平然としていなければ、物盗りにでも荒らされたのかとも思えるような部屋の有様に、ルナールは混乱しながらも小さく吐息を零す。
「それはルナールにと託されていたのだが、さきほど机から落とした拍子に見失ってしまってね。朝になったら探さなければと思っていたところだったのだが。いや、よく見つけてくれた」
「そう……なるほどの。しかし、なぜわらわに」
なぜセラフィは青いリボンをルナールに託すのか。その疑問は残る。
これは主であるジレットに、各々が与えられた、彼女らにとっての宝。しかし彼女らにとって大事なものであっても、ただのリボンであり、ただ綺麗な細めの布である。何らかの魔術的効果が付与された魔道具というわけではないはずで、なればこそそれを託す理由がない。だからルナールの困惑は晴れないし、手元のリボンに注ぐ視線は険しい。
「思うに、再会のための約束のつもりではないかな。
ルナール、君が役目を全うし、セラフィたちが築いた楽園へと至ったそのときに、返してやればいい」
「再会の……約束」
「セラフィはルナールに会うと決意が揺らぐと考えたのかもしれない。かわりにそれを託した――まぁ、これは私の想像だけれどね」
ルナールは、ゆっくりリボンを握りしめる。
それを確認して、ジレットはルナールに背を向けて暖炉に向き直ると、火にかけられた壺を木のヘラで底から返すように掻き混ぜた。
くぅ
再びルナールのお腹が小さく音を立てる。
再会の約束。小さな手の中に握りしめた青いリボンは、朧げな月の光の下で、艶やかに煌めく。
寂しさと気恥ずかしさを紛らわすために、ちょうど良い機会とばかりにルナールは話題を変えることにする。
「のう、主さまよ。それはスープかの?」
「ああ。新鮮な腑が手に入ったのでね、モツ煮込みを作っているところだ。
いやなに、夜遅くに馬車を走らせて神経を使ったものだから、小腹がすいてしまってね」
「わらわもじゃ。変な時間に起きたでの、小腹がすいてしもうた」
「じゃあ、少しだけ味わうとしようか。なに、もう少しで出来る」
「わーいなのじゃ!」
くんくん
雑多な部屋に染み渡る肉と香草の芳醇な香りに、ルナールの耳が嬉しげに自己主張をする。
そうして鼻を鳴らすルナールに、ジレットは苦笑を浮かべた。
「それにしても主さまは、モツ煮込み好きじゃのう」
「うん?」
「いやはや、まさか手ずから作っておったとは、思わぬでの」
「おや、知らなかったのかな。モツ煮は私の得意料理だよ」
ルナールに返事を返しながらも、ジレットは壺をかき混ぜる手を止めない。
かき混ぜられている壺も、ただの壺ではないようで、表面に刻まれた溝が薄く白い輝きを放っているようだ。以前に持たされていた魔道具の輝きと同質なので、ルナールはそれがジレット手製の魔道具の一種なのだろうと察した。
「よく夕飯にも出ておったの、それこそセラね……セラフィあたりが作っておると思っておった」
「自分でできることは自分でやらないとね。またいつ遭難するともわからない。
それにモツ煮込み用の魔道具までわざわざ作ったのだから、使わないと勿体無いだろう」
「まさかのモツ煮込み専用なのじゃ!?」
「そうだとも。
短時間で臭みを消して、柔らかさを引き出すのだ」
「主さまのモツ煮込みに掛ける情熱は一体なんなのじゃ」
得意げに魔道具の説明をして、少し胸を張るようにして壺をかき混ぜるジレットに、寂しさを紛らわすようにルナールがカラカラと笑い声を響かせる。
薄ぼんやりと傾きかけた月だけが、二人を窓からただ見下ろしていた。
「さて、できたぞ」
「のう、主さまよ。今、すごいところから皿を取り出さなんだか? なんで本の間に皿が挟んであるんじゃ? のう?」
「栞の代わりになるものがなかったのだろう。さあ、冷めないうちに。食べたら寝に戻るといい」
「すごく人ごとのように言うておるが、挟んだのも主さまじゃろうに」
ルナールの声には呆れが浮かんでいるが、突然セラフィがいなくなったことによる混乱はだいぶ軽減されたようだ。寂しさがなくなったわけではないが、それでもジレットを相手に笑みを取り繕うくらいのことはできた。
ジレットに見守られながら、ちょこんと床に座ってルナールは皿を傾ける。大振りで新鮮な肉がごろりと入っており、柔らかな歯ざわりと肉汁の芳醇な香りが口いっぱいにじゅわっと広がっていく。
「どうだ?」
「うむ! とっても美味いのじゃ。それに」
「それに?」
「それにの、なんじゃろ――なんとのぅ、今日のは懐かしいような、不思議な味がするのじゃ」
「そうか」
片手でリボンを握りしめながら、こくこくと喉を鳴らして最後の一滴までルナールはモツ煮込みのスープを飲み干した。こんなに柔らかい肉は滅多に食べられない貴重品だ。
塩漬けのボソボソとした硬い肉や、ぼろぼろのグズグズになった魔物の肉とは比べるべくもない。もっとも、ジレットに救い出されるまでは食べ物がもらえるだけでもありがたかったのだから、贅沢を言う気はこれっぽっちもない。
それでも、願わくは。
「セラ姉ぇと一緒に、食べたかったのぅ……」
仕方がない。セラフィ自身が決めたことなのだから。その意思は尊重したい。
それでも、やはり別れも言えずに唐突に去ってしまった、姉と慕っていた存在を想うと、ルナールの眉は八の字に曲がってしまう。
そんなルナールを静かに見下ろしていたジレットに礼を述べ、ルナールはとぼとぼと寝床へと戻った。
今日から一人となってしまった、主のない3つのベッドが置かれたままの広い部屋で、ルナールは横たわって手のひらを握りしめる。
その手には、青く艶やかなリボンが握られたままだ。
寂しくても、頑張ろう。すべて終わって、楽園で再会したときに、いっぱい褒めてもらおう。
決意とともにリボンを胸に抱きかかえ、ルナールは再び眠りにつく。
「――ああ、それにしても。
とっても美味い肉じゃったなぁ」
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