幕間 - 金狐と銀狐 そのいち
アーシャのお祝い絵をいただいたので、前話末尾に追記しています。
「あらあら? そこに居るのはルナールかしら?」
人間であればそろそろ就寝の準備をはじめようという時刻。カイラム帝国唯一の領土たるシーク島、その北端に位置する邸宅の広い庭先に、穏やかな女性の声が響く。
明かりのない宵闇にぼんやりと浮かびあがる、透き通るような長い銀の髪は、鮮やかな青いリボンでひとつに纏められており、その頭のてっぺんでは、三角形の耳が存在を主張している。すらりと伸びた背筋に女性らしい柔らかそうな体つき。給仕のようなふわりとした服からは、髪と同じ色のふかふかした尻尾が顔を覗かせている。その妙齢の女性は、名をセラフィという。
見つめる先は明かり一つない庭先が広がるばかりだが、狐人族のセラフィにとっては視界良好で、むしろ昼日中よりも目が疲れなくて良いくらいだ。
「ん――セラ姉ぇ。どうしたんじゃ、こんな時間に」
「あらあら。それはわたしの台詞だと思うのだけれど」
小刻みに揺れ続ける大地に立ち、闇の中でひとり空を見上げて佇んでいた影は、セラフィの方をゆるゆると振り向いて呼びかけに応えた。穏やかな大人然としたセラフィに比べると一回り幼い声に、どこか背伸びをしたような古風な言葉遣い。セラフィとは対照的な黄金色の毛並み。
月明かりは曇り空に遮られ、木々がまばらに点在する庭先にいるルナールの表情は伺い知れない。しかしその声音は、何かを考え込んでいたような、どこかぼぅっとしたものだった。
セラフィはそんなルナールの様子から、この場所に来たのが自分と同じ理由であることを察した。考え事をするときは、土や木の匂い、風の音を感じていたほうが気持ちが落ち着くたちなのだ。
「謹慎あけおめでとう、ルナール」
「セラ姉ぇも。――解放、おめでとうなのじゃ」
「ええ。ありがとう」
短いやりとりのあと、しばしの沈黙が流れる。
揺れる地面に伴って、木の葉がさわさわと小さな音を立てた。セラフィは静かにルナールのすぐ横にまで歩み寄ると、先ほどルナールがそうしていたように空を見上げてみた。雲に隠れた月が、ぼんやりした光を従えて浮かんでいる。
セラフィを姉と慕うルナールとの間に、実際に血縁関係があるわけではない。毛並みの色合いも違えば、言葉遣いも、性格も大いに違う。とくに言葉は、育った環境に依るところが大きい。親や兄弟、もしくは育てた者の言葉遣いを学び、真似るからだ。そのことから、セラフィとルナールはこれまで生きてきた場所さえ違うことが見て取れる。それでも、ルナールはどこかおっとりしたセラフィのことを姉のように慕っていた。
自分たちの雇い主――彼はセラフィたちのことを同志と呼ぶが、実質的にはセラフィもルナールも彼の配下として動いている。
ルナールはその配下としての任務で、一度大きな失敗をした。与えられた貴重な魔道具を壊したばかりか、存在が露見しかけるなど計画に影響を与えかねない失敗だ。その責を負う形で、半ば自主的にルナールは謹慎を続けていた。
しかし、今日になってその謹慎は彼から『もういい』と告げられ、また同時にセラフィには『解放』が言い渡されていた。
セラフィはその『解放』について、自らの思考をまとめようとしてこの場を訪れた。
妹分であるルナールもまた、そうであるらしい。
「ねえ、ルナール」
「なんじゃ?」
「わたしが居なくなったら、さみしいかしら?」
「それ、は――。それは、そうさな。寂しゅうないと言えば嘘になろう。じゃが、わらわにはわらわの、セラ姉ぇにはセラ姉ぇの、やらねばならぬことがあるじゃろう」
「そうね」
問いかけられたルナールは、視線を虚空に彷徨わせたあとじっと足元を見つめて、感情を押し殺した答えを返す。しかし黄金色の尻尾が地面すれすれまでへにゃんと垂れてしまっているので、傍らのセラフィからはルナールの苦渋はまるで手に取るようにわかるのだが。
此度突然言い渡された『解放』は、いずれ約束されていた事柄である。セラフィが彼と出会い、彼に所有され、同志となったときから約束されていたこと。それはルナールのほうも同様だ。
彼の目的、彼の計画の手足となり、働く。そうすることが、セラフィたちの目的――夢へと続く道なのだ。すなわち、疎まれ、蔑まれ、辱められる獣人たちを『解放』し、もう二度と苦しむことのない理想郷、『楽園』を作るという、その夢へと。
他の獣人たちと違い、ルナールとセラフィは彼の計画に必要だという『神の御使い』の最終候補として、これまで彼の手許に留まっていた。
しかしルナールが『神の御使い』に決定した今、すでに『解放』された他の候補だった者たちと同じく、セラフィは2、3日の間にはこの島から出ることになろう。
そのあとはすでに解放された者たちと合流して、楽園の構築に励むこととなるだろう。
「ねえ、ルナール。わたし、迷ってるの」
「……何をじゃ?」
「ん。――この島から出ることを、かしら」
「なぜじゃ!? 解放は、楽園は、わらわたち皆の悲願であろう……?」
主によってこともなく取り外された、自らを戒めていた”隷属の首輪”を指で弄びながら、セラフィは言う。
首輪を付けていない獣人がそこいらを歩き回っていては、すぐに厄介事に巻き込まれる。認識を阻害する魔道具も絶対の効力を持つわけではないというのは、はからずもルナールが証明してしまっているし、そもそも充填された魔力を使い切ったあとは魔道具は効力を無くしてしまう。発動状態をこまめに止めるためにも、ルナールたちは普段から目立つような格好は控えるよう言いつけられているのだ。
しかし、もう『解放』されたセラフィには任務もなく、それゆえもはや首輪も必要なくなったのだ。どこか感慨深げに首輪を見やるセラフィに、ルナールは驚きの表情を晒した。
「あの人を、放っておけなくて」
あの人。自らの雇い主。酷い世界で生きてきた自分を、自分たちを救い出してくれた存在。わずかに染まった頬で、セラフィは思いを語る。
彼の語る『楽園』を、彼が作ろうという『楽園』を、最初はなんのことかわかりはしなかった。ただ、それまでの地獄から抜け出したくて、半信半疑で彼の手を取った。最初の頃など、いつ殴られるのか、いつ怒鳴られるのか、いつ組み伏せられるのかとびくびくしながら生活していた。
しかし彼は違った。暖かい寝床と温かい食べ物、清潔な服を誂えてくれたうえ、同じように虐げられ続ける仲間を助ける手立てまで用意してくれた。
セラフィやルナールは、彼の手引きに従い、彼の作った魔道具を携えて、いろんなことをしてきた。獣人奴隷たちを解放して導いたり、魔物と戦ったり、ときに領土を奪い返さんとする王国軍の内側にもぐりこんで退けたり。そしてときに、買い出しを手伝ったりして。
彼の手を取った当初の困惑は安心に変わり、やがて安心は信頼となり、そしていつしか信頼は情愛と呼べるものに育っていた。
ルナールが彼の計画の要だという『神の御使い』となることが決まったことに、セラフィは不満があるわけではない。
そして獣人たちが虐げられることのない楽園を作るという、悲願を忘れたわけでもない。
「セラ姉ぇは、どうしたいんじゃ?」
「あの人の――あのひとの役に、立ちたい」
ぽつり、ぽつりと零すセラフィの言葉に、ふるふると首を振るルナール。赤いリボンが宵闇に揺れる。
このリボンは『神の御使い』候補がルナール、セラフィの他にまだ二人いた頃。雑貨屋の店先に張り付いたルナールともう一人――マァルを引き剥がすため、主が買い与えたもの。
赤、青、黄、緑。それまで己を飾るものなど"隷属の首輪"か傷痕しかなかったルナールたちがそれを与えられたときなど、目を丸くし、目に涙を浮かべたものだ。
「わらわも詳しいことはなーんもわからぬ。じゃが『計画』とやらはもはや動き出したのであろう?」
「そうね。この揺れも、そういうことだと聞いているわ」
「わらわも、残すところは『神の御使い』としてのお役目くらいと聞いておるのじゃ。まだ何をするのかは、教えてもらえんのじゃが」
ここに留まったからといえ、彼の役に立てることがあるかどうか。ルナールのその目は雄弁に物語る。それよりもやることがあるはずだ、とも。
楽園の予定地には、ルナールやセラフィが各国へ潜入して解放してまわった、たくさんの獣人たちがいるはずだ。しかし劣悪な環境で重労働を課されていた者や、娼婦として身も心もズタズタに蹂躙された者たちが多数おり、まともに動ける人手はいくらいても足りないだろう。
楽園予定地の状況を彼に聞いてみても『順調に行っているようだ』と言われるのみで、詳しい状況は判然としない。が、傷病者への対応や、食糧の確保だけでも大きな労力が必要となるはずだ。日向に影に各国を行脚し、獣人奴隷たちの解放を行って来たセラフィは、食糧確保の重要性と困難さを身を以て知っている。そしてそれは、ルナールも同じだろう。
だから、たとえ一時離れることが寂しくとも、ルナールはセラフィに旅立ちを示唆するもの、と思われた。が、続くルナールの言葉は少し違った。
「じゃから。あとはセラ姉がどうしたいか、じゃろ」
「わたしが、どうしたいか?」
あの人の役に立ちたい。
セラフィが先ほど告げたその思いに嘘はない。でも、この場に居続けても、役に立てるかどうかはわからない。楽園へ向かったほうが、役に立てることはたくさんあろうことも、想像に難くない。
でも。それでも。
「――わたし。彼の、あの人の側にいたいわ」
「さようか。なら、そうするがよかろ。
――そのほうが、その。わらわも嬉しい、のじゃ」
「あらあら」
頬を赤く染めてふいっとあらぬ方を向くルナールと、同じくらい頬を熱くして、ようやく自覚した自らの思いを言葉にしたセラフィ。ふたり、同時に耳がピクリと動き、くすりと笑いあった。穏やかな海風が、さぁっとふたりの赤く染まった頬を撫ぜてゆく。
「決意が鈍る前に、あの人に伝えてくるわ」と凜とした足取りでその場を後にしたセラフィを見送ったルナールは、一人、先に部屋へと戻ってきた。もはや、夜風に当たり寂しさを紛らわす必要もなくなったので。
ルナールに割り当てられているのは、最初は4人部屋だった。それがひとり減り、ふたり減り。セラフィが居なくなっては、この広い部屋にひとりぼっちになってしまうところだった。
古風かつ偉ぶった物言いをしてはいても、ルナールはまだまだ少女といって差し支えない年齢だ。やはり、それなりに寂しさはあった。しかし、どうやらセラフィはこの屋敷に残ることに決めたらしい。決めてくれたらしい。
「楽園のほうは、マァルたちにもう少しばかり頑張ってもらうことになるのう」
ひとりごちて、黄色いリボンを付けた同志の困り顔を思い浮かべるルナールの口には、にゅふふと笑みが浮かんでいる。セラフィが残ってくれることが素直に嬉しいようで、尻尾はさっきからぱたぱたフリフリしっぱなしだ。
ベッドにぽすっと身を預けて、窓の外の月を見上げる。先ほどまでと同じ、ぼんやりとした曇り空。それでも、ルナールにはどこか優しい光に見えた。
「セラ姉ぇ」
優しい月のぼんやりした光から連想するのは、綺麗な銀の髪。ルナールはセラフィの透き通るような白銀色が好きだ。大好きだ。そして銀の髪を靡かせるセラフィの、頬を染めてどこかうっとりした表情を思い出す。
人間を呪い、生を呪い、世界を呪った一生。そのままで終わると思っていたのに、存外悪くはないものだな、なんてぼぅっと思いを馳せていたルナールは、いつのまにかまどろみに意識を掬われていった。
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