閑話 - 夜の語らい
「おいーすお邪魔するでぇ、カーくーん、髪乾かしてー。
って、ありゃ。ほんまにお邪魔やった?」
「いや、大丈夫。
でも、ちょっと静かめにしててね」
僕とシャロンの部屋に首だけちょいっと差し入れていたアーニャは、手早く部屋の中の様子を確認すると、音もなくするりと部屋の内部へと侵入を果たした。
湯上がりということもあって、彼女が身に纏うのはいつもの服や接客のためのふりふりした服ではなく、肌着よりは幾分露出が控え目かというくらいの乳白色の布切れだ。アーニャはこれを寝巻きと言い張っているが、健康的な肌の色がこれでもかと全面に押し出されており、少しの動きでも連動する双丘から尻にかけての曲線美をこうまで見せ付ける寝間着があってたまるものかというのが偽らざる僕の感想だ。かといって、これが寝やすいねん、とその格好のままぴょんぴょんと力説されてしまっては、僕には目線を逸らす以外に術はないのだ。
アーニャは、静かに、と注意をしたために口をきゅっと引き結んだままベッドの側にまで歩み寄ってくる。そこまで気にすることはないよ、と僕は苦笑で彼女を迎えた。
「シャロちゃん、また寝てるのん?」
「うん」
静かに問いかけてくる彼女に応じるだけの、短いやり取り。
たったそれだけで、アーニャには僕のある種の不安が伝わってしまったらしい。ぽす、と僕の隣に腰を降ろすと、アーシャが毎日整えてくれているシーツに、深い皺が刻まれた。
ぽんぽんと軽く頭を撫でてくる手のひらの柔らかさを感じながら、僕はしばらく黙ってされるがままになっていた。
「帰ってきてから、よー寝とるよね」
「……うん」
アーニャの声色は、事実を確認するという程度の淡々としたものだ。
言葉少なに応じつつ、僕はアーニャの髪の間に含まれる余計な水分をぱぱっと"剥離"する。最近では毛先の隅々に至るまで保湿にも気を遣い、髪や頭皮に必要な水分の見極め技巧がやや必要のない域にまで達していたりするのだが、施術される側のアーニャはそんなことは知ってか知らずか気持ち良さそうに目を細め、短く喉を鳴らす。
「えねるぎーぶそく? ってやつ?」
「そう思ってたんだけどね。どうも違うらしい」
僕が見つめる先では、こちらに背を向けるかたちでシャロンが静かに横になっている。
白いワンピースタイプの寝巻きに包まれた肢体を小さく畳み、自らの白い腕を抱き込むように丸まる姿は、白いベッドの上ということもあって荘厳にして繊細な相反する雰囲気を併せ持っている。稀代の芸術家が魂を燃やし尽くした一作だと言われたならば疑う者は皆無だろう。
初めてシャロンに出会ったときにもそうだったように、僕はじっと彼女を見つめ続けていた。
この美しい光景のすぐ隣にあっても、僕の胸中を占めているのは感動ではない。そう、それを形容するならば不安というのが一番相応しい。
シャロンは問題ないと微笑み、ともすれば不調を隠そうとさえする。
それでも、"全知"を使わずとも不調はもはや明らかだ。
それはアーニャも同様に感じるところではあるようで、これまでも、なんでもないとごまかすシャロンに複雑そうな視線を送っているのを目撃している。
「カーくん、あんま寝てへんのやろ?
心配なんもわかるけど、体が保たへんで」
「ん……ごめん」
「ウチに謝ってどないするんよ」
にゃはは、とアーニャは小さく笑う。
アーニャからの気遣いは、無理をしがちな自分に対する牽制でもあり、戒めでもある。
僕がシャロンを心配しているように、アーニャたちも僕やシャロンのことを案じてくれている。
それはわかっているつもりだ。それでも、僕は。
「不安なんだ」
脳裏に浮かぶのは"童話迷宮"での日々の物言わぬシャロンの姿。
これまでシャロンの強さ、頑丈さにどれだけ甘えてきたのかを痛感する。
《シャロン = ハウレル: 自己修復集中モード》
僕と同じ家名が視えるようになった"全知"越しの視界は、今のシャロンの状態がただの眠りでないことを僕に突きつけてくる。
単なるエネルギーの不足であれば、まだ良かった。実際のところ、当初よりシャロンの内包しているエネルギーは少なくなっているようで、それに伴って出力の低下もあるらしい。
しかしそれならば、魔石をこれでもかと圧縮し、宝玉に代わる新しい動力源を用意することも出来る。
圧縮した魔石は未だ不安定なものしか作れていないが、暴発を防ぐために循環式を組み込んだ枠を設けてやれば良さそうだ、というところまでは漕ぎ着けている。
だが――それもこれも、シャロンの眠りがエネルギー不足を起因としたものでないのならば、問題の解決にはならない。
そんな不安を抱えながら、ときには"全知"の"神名開帳"すら使ってまで解決策を探るも、視える範囲において、原因の特定に至っていない。そして不安だけが募っていく。
「……不安、なんだ」
再度呟く僕を、アーニャは黙ってぐいっと引っ張った。
突然の行動にバランスを崩し、こんな時に一体なにをっ!? と焦る僕はそのまま胸に抱きかかえられる。
ふわりと鼻腔をくすぐる花のような香りは、アーニャが好んで使っている石鹸の匂い。
シャロンとはまた違う、ふかふかした柔らかさ温かさを背中越しに押し付けてくるアーニャは、しかしそれ以上動こうとはしなかった。
「カーくんはシャロちゃん大好きやもんなぁ」
困惑を深める僕の耳朶に、アーニャの声が優しく染み渡る。
いつもの明るいアーニャの印象とは大きく違う、慈愛に満ちた声。
まるで、母さんみたいだ。
声色だって言葉遣いだって、何一つ近いところなんてない。
それなのに、僕はアーニャの暖かく優しい声から、今は亡き母の面影を感じていた。
それは、ことあるごとに悪夢で僕を苛む母の怨嗟の声ではなく。
慎ましやかで、厳しくも優しい――僕が自ら一度は捨て去った、記憶の中の母の面影で……。
気付くと、僕の口からは嗚咽混じりの不安が吐露されていた。そしてそれは、一度決壊してしまうと止まらない。
常に傍にいてくれると思っていた両親の突然すぎる死と、今のシャロンの状態が重なって。
力を手に入れても、守りたい者は守れないもどかしさと。
諦めるなんて到底出来ないけれど、足掻き続けて何も改善しない現状がつらいこと。
自分のことを心配してくれるのは嬉しいし申し訳なくも思っているけど、それでも何かしていないと不安でたまらないこと。
アーニャは、うん、うん、とたまに相槌を打つ以外には、ただ静かに僕の頭を優しく撫で続け。
そのまま、いつのまにやら僕の意識はまどろみへと沈んでいった。
――
オスカーが規則正しい寝息を立てはじめても、アーニャはしばらくずっと自らの主人を抱き続けていた。
「あんま心配掛けるもんちゃうで。もとから心配しいなんは確かやけど」
静かに投げかけられた言葉に返事はないが、アーニャはさして気にした素振りもない。
「なんか変やなってのはウチでも気付いてるくらい。
シャロちゃん、前よりもなんか……必死やもん」
アーニャには、旅から帰ってからのシャロンの様子がどことなく、焦りがあるように感じられていた。それは多分、アーシャやラシュでさえ感じていることだろう。らっぴーはよーわからんけども。
オスカーから不安を告げられるまでは、なんか変かもしれへんな? くらいの違和感でしかなかったそれも、もはや確信へと変わっている。
「必死っていうか、変なとこでグイグイ行くのは会ったときからやけどなー」
腕の中で静かに寝息を立てるオスカーに気を付けつつ、小さくにゃははと笑う。
そしてようやく、というべきか。
それに応えたのは、鈴の音のように澄み渡った、しかしぽつりぽつりとした声だ。
「魔導機兵の愛というのは、重たいものですから」
本来ならば、永きに渡ってひとりに愛情を注ぎ続ける存在。そしてそれはきっと、ヒトにとっては重過ぎるものとなる。
「茶化していかないと、重すぎてオスカーさんを押し潰してしまいかねません」
背を向け横になったまま、眠っていたはずのシャロンは、言い訳のようにぽつぽつと反論する。
自らの主人は、そうやってぐいぐいとアプローチを掛けていかないと全く手を出してこないのだ。
だからそれは仕方がない振る舞いなのです、と自己の正当性をはかったりもしている。
途中からシャロンが目覚めていることを見抜いていたアーニャは、突然の返事にもなんら驚くことはない。むしろそのために話しかけていたようなものだ。
「カーくん、そこまでひ弱ちゃうと思うよ。すーぐ悩むけど。
シャロちゃんひとりくらい、しっかり抱えて歩けるくらいには強い子や」
眠る主人のやや伸びてきた前髪を緩く梳る指先に、くすぐったそうに額を押し付けてくる姿にわずかに頬を緩める。
やや間があってから、シャロンの声がふたたび空気を震わせた。
「――オスカーさんは、主にして旦那様。私の全てとも言えましょう。
寂しいも。怖いも。嬉しいも。愛おしいも。そして、この名さえも。全て。
ひとり孤独に在ったであろう私に、何もかもを与えてくださったのがオスカーさんです」
だから、これ以上に心配を掛けたくなんてなかった。
それがどうしようもないもの――オスカーが”全知”を以ってしても直せなさそうなものであれば、なおさらに。彼はきっと、またぞろ自身を責めてしまうから。
シャロンが語る懺悔にも似た独白を、アーニャはまた静かに聞いていた。
シャロンには元々、主人亡きあとにまで在り続けるつもりは全くなかった。
フリージアと相対して問答したのは彼女の嘘偽りない答えであり、オスカーを看取ったあと共に永き眠りに就くのがシャロンの密かな願いでもある。
しかし。それも難しそうだなということも、シャロンは否応なく理解していた。
本来であれば永き時の中を稼働し続けられるはずだったシャロンの機構は、わずか一年足らずの間に常時稼働性が損なわれるほどに損耗していたのだ。
定期的に自己修復集中モードに移行しても、完全修復に至らない。
それどころか、一度修復したはずの機構が、たしかに問題なかったはずの回路が、いつのまにか損耗している。そして、徐々にではあるものの――着実にエラー範囲が広がってきている。
まるで癌細胞のようです――と、機械の身体には無縁なはずの病理を思い浮かべるシャロン。
今はまだ、定期的に修復を行うことで、日中の稼働に支障は出ていない。
しかし、それもいつまで保つか。いずれ修復に要する時間が伸び、稼働時間が狭まっていき……そして、やがては完全に動けなくなる。
その想定を的外れというのは、楽観が過ぎるというものだ。
そして、もしそうなったら、そのときは。
「もしもの話ですが」
「んー?」
「もしも私が、目覚めなくなったら。
そのときは、オスカーさんのこと、お願いします」
「何を言うんかと思ったら」
アーニャの声色から少し呆れの混じった笑いを感じ取ったシャロンは、さらに言い募る。
これは真面目な話なのだから。
「冗談のつもりではないです。
オスカーさんは強い方ですが、おひとりにしておくには不安があるのも事実です。
でも、アーニャさんたちになら」
私の亡きあとも、オスカーさんを任せられるから。
あくまで淡々と、シャロンは告げる。
シャロンがこうなったきっかけが過負荷によるものだというのは、きっと間違いはない。でもそのことで、ご自身を責め苛ませてしまうのは、嫌だった。彼は、そう。とっても心配性だから。
しかし、静かに願いを口にしたシャロンを、アーニャは否定する。
「あんな、シャロちゃん。
まずシャロちゃんはふたつ思い違いしてるで」
「――」
「まず、ひとつめ。そんなん頼まれることちゃうし、頼まれるまでもないことやわ。
そんでふたつめ」
押し黙ったシャロンに、アーニャはどこか自信満々に告げる。
その内容は、想像でしかないけれど――主人の性格からして、ほとんど確信と言ってもいい。
「カーくんなら残り一生掛けてでも、きっとシャロちゃん直そうとするやろな」
だから、静かに寝続けるなんてこと、たぶんできへんで、と。
シャロンは背を向けたまま、小さく苦笑する。ああ。それはたしかに、オスカーさんらしいです、と。
そうしてゆっくりと仰向けに転がると、すぐ隣で静かに眠るオスカーの手に、自らの指を這わせる。愛おしく、しかし壊れ物に触れるように、そっと。
「似た者夫婦、ってやつなんやろにゃぁ……」
呆れたように呟くアーニャの声は、そのまま再び眠りについたシャロンには届いたのかどうかは定かではない。
ベッドの傍で部屋を照らしていた魔力灯をどうにかこうにか"倉庫"に仕舞い込み、暗闇に包まれた部屋のなかで。
夜目の利くアーニャは、指を絡めて眠るふたりをじぃーっと飽きもせずに眺める。
このまま朝を迎えたら、ウチの身体は明日めっちゃくっちゃ痛いんやろにゃ〜、なんて思いながら。
試験的に三人称視点を盛り込んでみました。
とはいえ、一人称部分とややこしくならないように今後必要にかられて三人称視点で描写する場合も区切りは入れていきます。