閑話 - 小さな勇気の冒険譚
火を吐き、風を纏い、大地に咆哮を轟かせる。
毒を撒き散らし、闇に蠢き、人を屠る。
そんな魔物や悪鬼の類から無辜の人々を守るのは、騎士、憲兵――そして、冒険者の役目だ。
前者が規律を重んじ、組織立った運用が為されることに対して、後者たる冒険者は組合を通してあとは各々の裁量で動く。
命令がないと動くわけにいかなかったり、守護する地域を離れるわけにはいかない騎士や憲兵と違い、冒険者たちは実に身軽なものだ。
身の丈にあった依頼を、各々の仲間のレベル、練度に合わせて選択・受諾し、これをこなす。
上位の冒険者ともなれば、ときに家ほどの大きさの魔物を狩ることだってある。
危険と報酬が釣り合わなければ依頼を受ける必要もない。そのため、たびたび金のために困っている人を見捨てるのか、などと理不尽に糾弾されることもある。
まあ、たいがいの熟練冒険者は体格も貫禄も優れたるものなので、そういった相手に面と文句を言う者はほとんど居ない。
槍玉に上げられるのは、駆け出しや、万年下級の冒険者、または冒険者組合の職員である。
勘違いしないでもらいたいのだが、冒険者は人助けのためにやっている者だけではないのだ。
そりゃあ、中にはそういう、人の役に立つことを至上の喜びとしているやつだっているさ。
しかし、大抵の者は日々の生きる糧として、報酬を求めるのだ。
農夫が種を蒔き、手入れをし、肉体をすり減らしながら作物を育てるように。
革職人が技術を磨き、革を鞣し、商品を仕上げるように。
冒険者は剣を携え、町を出て、命を張って依頼をこなすのだ。
戦えない者が、戦える者に金銭を支払い、これを代行する。実に単純な仕組みじゃないか。
誰に憚ることもあるまい。それなのに。それなのに――!!
だなんて益体のない思いを乱れた息と共に吐き出して、彼――クォルアは必死で手足を動かし、走る。
「ハァッ、ハァッ、ハッ――!!」
熟達した冒険者が華々しい活躍をするなかで、駆け出しや、初級の冒険者に回される仕事は、単純単調簡単極まる。
森で薬草やキノコを採取したり、非敵対的な魔物であるエムハオが増えすぎたからと泥だらけになりながら狩り。
たまに敵対的な手合いと戦うことになっても、せいぜいがブォムか野犬崩れ程度のものだ。
来る日も来る日も、泥だらけ。
その日も――具体的には昨日のことだが――エムハオの頭を潰し、すぐに皮を剥がして肉を切りわけているときにクォルアの脳裏に過った思いは、ただひとつ。『こんなはずじゃなかった』というものだった。
エムハオに限らず、素材として皮が売れるものは生きたままこれを剥ぐか、絞めてすぐに剥ぐ必要がある。こうしないと、皮はすぐに駄目になるし、肉にも臭みが着いてしまう。そんなのを、ずっと続けている。
そうして手を泥と血に染めて、得られるのは僅かな日銭だけ。
彼の仲間は彼を含めて3人いるが、ひとりはうら若き乙女の聖魔術師である。目の前でやってみせるだけでも顔色を悪くしてフラついてしまう彼女自身に生皮を剥がさせるなど、かなりの悪趣味野郎だと思うし、彼は断じて悪趣味野郎ではないつもりだ。
かといって、もうひとりは籠手までがっちりと固めた戦士である。そんな装備を着けたまま、肉と革を別けるのは難しい。そうでなくとも、戦士――イスカのやつはさほど器用ではない。エムハオを狩るたびに武装を解くのは非効率だ。周りの警戒も、一応必要である。もちろん、一度に大量に仕留められたときはこの限りではない。が、そんなことは滅多にない。
そのため、獲物からの剥ぎ取りは専らクォルアの役目となっている。彼が嘆きたくなるのも、自然な成り行きだろう。
「ハッ、ハッ、ハァッ!!」
彼らは彼らで、初級の冒険者として日々慎ましく活動していたのだ。
それなのに、塩漬け依頼――報酬と依頼内容が釣り合わず、長期間放置される依頼は俗にこう呼ばれる――に見向きもしなかっただけで糾弾されたとあっては、いい加減我慢ならなかったのだ。
日々の単調な苦労に、いつしか飽き飽きしてしまっていたのだろう。そしてきっと、タイミングもよくなかった。あとは、売り言葉に買い言葉。多少の報酬上乗せを条件に、摑まされたのはオークの肉収集依頼だ。
オークならば、過去に2度、狩るのに成功したことがある。
大きな背丈から振り下ろされる拳や木の棒は、当たればただでは済まないような攻撃力を秘めている。しかし、基本的に動きは鈍重。
1体だけをおびき出すことができれば、3人で狩れる。狩ることよりも肉の運搬が大変だとも聞くが、そこはそれ。
1体を倒した段階で、持てる限りをそのまま持ち帰れば文句はあるまい。なにより、舐められっぱなしは我慢ならない。そう思った。愚かにも、そう思ってしまった。
あのとき、クォルアとイスカを諌める彼女の声に耳を傾けていれば。こうまで森の奥地に踏み込むこともなかっただろうに。むしろあのとき、いや、それよりももっとあのときに――。
思い返したところでどうにもならないことばかり、頭に浮かんでは消える。それを、人は後悔と呼ぶ。
「アンジェ――」
口から零れ落ちるのは、仲間のひとり。聖魔術師の名だ。
彼女は、無事に逃げ果せただろうか。
日の傾きかけた森を右に左に駆け抜け続け、もはや地形さえ把握していない場所を走って久しい。
マントも剣も小振りな盾も、既に落とした。いや、より正確に言うならば走るために邪魔になるので、途中で投げ捨てた。
稼ぎに乏しい彼らにとって装備の喪失は大きな痛手だ。しかし、後生大事に抱え込んだ荷物によって命を落としたのでは本末転倒というものだろう。
「ハッ、ハッ、ハァッ――!! ずァッ、ハッ、ハッ――」
せり上がってくる嘔吐感を無理やり飲み下しながら、据わった眼で足元だけを睨みつけるようにして、駆ける、駆ける。
パーティメンバーとの揃いで購入した軽装と、邪魔な蔓を断ち切るためのナイフだけを携えて、クォルアは駆ける。時折現れるブォムやオーク、アグニベアなんかの魔物を完全に無視して、森を駆け抜ける。
彼の後ろには、彼を追う魔物の列が形成されている。もうずっと息なんて上がりっぱなしで、足を止めたが彼の最期。
わかっている。
そんなことは、誰よりも彼自身がわかっている。
だからこそ、少しでも気を抜くと益体のない考えが頭を占めるのだ。
彼がパーティからひとり離脱して森を爆走しているのは、何も仲間を見捨てたわけではない。
むしろその逆だ。彼は仲間のために、今も命を張っている。
天を仰ぎ見る。クォルアはもう、自分がどれほど走ったのかもわからない。
もうずっと走り続けている気もするし、実はそんなに時間は経過していないのかもしれない。いずれにせよ、もっと走らないと。もっと時間を稼がないと。
「ハッ、ハッ、うぉっ……!! ハァッ、ハッ――」
「ブムムムォオオオオオオオ!!」
木の根を飛び越え、藪を突っ切り、水辺を回り込み、彼は走る。途中、完全に無視されたオークの怒りに染まる雄叫びに身を竦ませそうになる。が、怯みそうになる足に鞭打ち、クォルアは走る。止まるわけにはいかない。
もっと、もっと、もっと。
もっと遠くに。十分に魔物を引き付けて、もっと遠くに。
森の木々の枝に引っ掛け、追い付いてきた魔物の爪を喰らい、躓いた岩に掠め。もう彼の全身は擦り傷切り傷のオンパレードだ。
痛々しい傷口からは鮮血が滴り落ち、薄暗い森に点々と道標を刻んだ。
彼の役割は探索者。戦士や重騎士のような防御力はもともと望むべくもない。
小柄な体躯を活かして戦場を駆け回り、撹乱や罠の配置や解除が真骨頂だ。最低限の護身のため――そして微かな憧れのため――剣や盾を持ってはいたものの、それももう捨ててしまった。
彼の活躍は、いつも目立たない。遭遇前に魔物を察知したり、罠を解除したり、食べられる野草を見分けたり。あとは魔物の皮を剥ぎ取ったり、か。
彼が何度も仲間に貢献したとしても、敵前で身体を張る者のように目立った功績は無い。
それぞれ役割が違うから当然のことではあるのだが――それでも。恵まれた体格で、剣の腕もあったなら。クォルアは、そう望まずにはいられない。
もし、そうであったなら。
こうして惨めに命を縮めて走り回り、人知れず無様に散る道でなく。
倒れた彼女を背負って離脱する役割を、自分こそが行えたのに。
もし、そうであったのならば。
アンジェに好意を寄せられるのも、イスカのやつではなく、自分だったのかもしれないのに。
クォルアが、ここまでの道中で致命傷を負わずに走り続けていられたのは、なにも幸運なだけではない。
彼にとっては業腹なことに――比較的小柄な体格を活かし、後ろの魔物軍団に回り込まれないように薮や木の根が張り出している部分をとくに選って走り続けている。引っ搔き傷に切り傷、蜘蛛の巣、枝にぶつけた青痣。もともと容姿に自信のあるほうではないが、今や見られたものではない顔になっていることだろうな、と自嘲する。
もっとも、ここまで他のパーティには遭遇していないし、彼の仲間も遥か後方で町へ向け離脱中のはずだ。見た目の心配をしたところで、詮無いことだ。アンジェはイスカに抱きかかえられ、遠からず街道へ出られるだろう。ずきりとクォルアの胸の奥が痛んだ。決して走り続けているせいだけではないだろう。
彼は走りながら、いつも前衛で仲間を守る戦士の、その爽やかな笑顔を思い出す。
べつにイスカのことが嫌いなわけではない。お調子者だが情に厚く、なにより良い奴である。疑問の余地なく、あいつは頼れるリーダーだ。
だからこそ、悔しい。あいつのようには、なれないから。
昼さえ薄暗い森の中には、多くの魔物が潜んでいる。ましてや今は夕暮れ時。
そんな場所で他のことを思い浮かべるというのは、油断以外のなにものでもない。それは彼も重々承知している。していた。していた、はずだった。
しかし、命を燃やして走り続けた彼の精神は、もはや限界だったのだ。集中力を保ち続けるほどの余裕が、彼にはもう存在しなかった。
だから、これは必定だったのだろう。
体力もすでに底を衝いているのに、気力だけで走り続けたクォルアは、突然フッと暗くなった視界に対応出来なかった。
「ハッ、ハッ、ハッ!? なっ、うごぇッ――!!?」
ぐしゃり、鈍い音が森に響く。
木の上から飛び立った鳥達が、無様な彼を嘲笑っているかのよう。
正面から木にぶつかり、もんどり打って倒れたクォルア。
腰から地に落ち、岩にしたたかに打ち付けた脇腹が、火がついたかのように熱い。
パタ、パタリと地に飛び散るのは、汗と血が混ざったモノ。それと同じものが、彼の口内にも充満する。
「ごハッ、ぅばッ――おェッ、グ……く、くそ、ガッ――ハッ、ハァッ、ハァッ――!!」
倒れた時に下敷きになった右手は嫌な音がしたし、いまは激痛を発する器官に成り下がった。
焼けるように痛む腹からはじわりと赤い色が服を濡らし、重くする。
しかし――よかった、頭はぶつけていない。まだ、立てる。立てる、はず。
だから、まだ。まだ彼は、諦めない。
「▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪!!!」
彼に追い付いてきた何かを、地に伏せたままの体を横へ転がすことでなんとか避ける。
ビキリと身体が軋みを上げ、動く馬鹿者たるクォルア自身を厳しく叱責する。
「ぎっ!? ハッ、ハぁッ、ハぁっ――!!」
しかし、彼は動くのをやめない。
ここで足を止めたら、彼女が。アンジェが死ぬ。
その想像が頭にこびりついて離れない。だから、彼は再び立ち上がる。たとえ手足を引き摺ろうとも。
チラつく視界は、未だ暗い。
血を流して頭が冷えたクォルアは、"暗視のポーション"の効果が切れたことをようやく理解する。
なんとか動く左手で最後の"暗視のポーション"を取り出すべく、懐を弄る。べちゃり、血の生暖かい感触が痺れつつある指先を通して伝わって来た。顔を顰めるが、視線は茂みから逸らさない。何かが潜むそこから視線を逸らしたら、そのときがクォルアの最期となるだろう。
軽装の下部に設けられた小さなポケットは、緊急ポーション入れだ。
小瓶は割れていたが、硝子が指や唇を切り裂くことに一瞬の躊躇いもなく、少しだけ零れずに残っていた薄緑の溶液を一息に口に含む。そしてそのまま、ヒリリと灼けつく痛みを喉に齎す液体を嚥下した。
イスカが無理やりに押し付けてきた回復薬のほうは割れていなかったが、飲み合わせの関係で"暗視のポーション"との併用が出来ない。こればかりは、仕方ない。
飲み合わせの相性を無視して服用し、即座に襲った腹痛にのたうち回った経験のある冒険者は、決して用法を軽視しない。
「はっ、はっ、ずぅッ! ――くっそ痛ぇえ!!」
チラつきながらも色を取り戻した視界には、茂みの奥にヤツの姿をはっきりと捉えていた。
彼の仲間を壊滅まで追い込んだ、初級冒険者殺し――ペイルベア。
茂みからこちらの様子を眈々と狙うギラついた目に、しかし彼は内心でほくそ笑んだ。
絶体絶命の窮地でありながら、決してクォルアの心は絶望で染まっているわけではない。無論、最低ではないというだけで、極めて最低には近いのだが。
しかし、それでも。ヤツがこちらを追ってきているということは、すなわち仲間が――アンジェが助かる見込みが増えるということだ。
クォルアが走ってきた方角からは無数の魔物の咆哮が今なお聞こえ、眼前の茂みには回り込んだペイルベア。
魔物たちが追いつくか、彼が少しでも動けば、ヤツはその機を狙ってくるだろう。
ペイルベアが恐れられる所以のひとつは、魔物だてらに魔力を使った攻撃をしてくるところにある。
射程距離はさほど長くないはずだが、生半な防具では防げないほどの魔力爆発。
それだけであればまだ警戒のしようもあるが、大きな体躯を活かした爪のなぎ払いやのし掛かりだけでも致命的な一撃となる。
立っているだけで身体の軋む音が聞こえる今のクォルアであれば、軽く腕を振るだけでも小枝のように粉砕されよう。
ペイルベア全般か、ヤツ独自の特性かはわからないが、少なくともヤツは頭が回る。
ヤツが襲ってきたのは、パーティが崖を背にして休憩をとり、ちょうど食事の用意ができたタイミングだ。
それも、背にした崖を爆発で壊すという手段での襲来。
どうしても気が緩む食事休憩のタイミングで、攻撃が来るだなんて思ってもみなかった場所からの襲来に、クォルア含め仲間は瞠目して硬直してしまった。
崩れて来る岩とともに滑り降りてきたペイルベアは、更なる爆発の一撃でイスカの体勢を崩すと、豪腕を振り向きざまにアンジェに振るった。
匂い袋で一時的にでも撤退させられなければ、今頃はすでに3人ともがヤツの腹の中に収まっていたことだろう。
「べッ――」
口内に溜まった血を吐き捨てて、彼は激痛に苛まれる頭で思案する。
考えろ。ヤツは頭が回る。今だってそうだ。
クォルアがギリギリで初撃を躱わした後は、闇雲に追撃することをせず、藪の中で機を伺っている。
強引に攻めてこないのは、一度、匂い袋でしっぺ返しを食らっているからだろう。あれが最後のひとつだったので、同じ手はもう使えないが。
ペイルベアは、この森の覇者だ。
ヤツにとっては、相手が隙を見せた段階で縊り殺すのでも、追いついてきた魔物に冒険者がやられた後で悠々と獲物を奪い取るのでも、どちらでも構わないのだろう。
迫る咆哮、動かないペイルベア、焦るクォルア。
追ってきた魔物が咆哮を上げ、地響きを従えて現れる。その先頭が彼に飛びかかると同時――イチかバチかで彼は動いた。
今まさに、飛びかかってきた魔物の方へと身を躍らせたのだ。
彼の向かう先にはペイルベアが控えており、後ろからは魔物の群れ。ペイルベアのいる茂みに飛び込むのは自殺行為。
であれば左右どちらかに逃げるしかないのだが、そんなことはヤツが――ペイルベアの想定している範囲内だろう。
だから、彼は後ろを選ぶ。
ヤツの思惑を外さなければ、生きる道はないから。
「ぐッ――ァ!」
交錯に失敗した魔物の、鋭く尖った鉤爪が深く右腿を切り裂く。
しかし、足を止めるわけにはいかない。悲鳴を、嗚咽を飲み込んで、彼はさらに一歩を踏み出した。
体当たりを受け、切り裂かれ、突進をなんとか躱し――
彼に追いついた魔物の、致命の一撃だけを紙一重で避け、避け、避け続けた冒険者の姿は、いっそ見事なほどにズタズタで、ぼろぼろだった。
右腕はただの荷物になっているし、足も棒きれのよう。目の上が切れたのか、血の入った左目は開かない。
それでも彼がまだ生きているのは、あまりに多くの魔物を引き連れた結果、突然身を翻した彼に対応できず魔物たち同士での衝突があちこちで発生したためだ。
もっとも――すでにボロ切れのようになっている彼は、そんなことを考える余力など、とっくに無い。
ただ、少しでも。一歩でも、遠くへ。
足を引き摺りながらなおも動き続けた彼は、やがてバランスを崩して転倒した。
舐める程度しか残っていなかった"暗視のポーション"の効力はすでに切れ、限られた片目の視界では踏みしめるべき地面が無いことに気付けなかったのだ。
クォルアは横倒しになりながら、斜面を転がり、滑り落ちる。
土に、泥に、草に、そして血に塗れた彼は、斜面の終点で自らを包む柔らかな感覚に、疲れ果て朦朧とした頭の端で違和感を覚える。
一刻ごとに血は流れ出て、身体の末端から感覚が遠のいていく。全身くまなく痛まない場所などないクォルアが呻き声を上げても、暗く、冷えた森の空気に応える声はない。
クォルアは途切れかけた意識を総動員して、もう一度目を開く。
そこは、花畑だった。
ぽっかりと開けた空間には花が咲き乱れ、薄暗い森の中でその場所だけが色に包まれている。
いつのまにか、気づかないうちに死んでしまったのかもしれない。そう彼が思うのも、無理からぬことだろう。まるでこの世のものではないような、幻想的な光景が突然眼前にひろがったのだから。
急な斜面を転がるように滑り落ちてきたクォルアを受け止めたのも、地面を一面埋め尽くす花のクッションである。
花畑の中央に何かがあることを見咎めると、彼は半ば這うように、それに近づいた。
風がさぁっと通り抜け、花びらを空へと巻き上げていく。
数多くの魔物の猛る声も、なぜか遠くに感じられた。耳もイカれてしまったのかもしれないが、クォルアにはもうそんなことに支払う注意力の持ち合わせは残っていない。
彼が最初、花畑だと思ったその場所は、実は花畑ではなかった。
花の中央に鎮座するモノを掠れた目に収めたとき、彼はようやく認識を改める。
その場所は、墓所であった。
剣が地面に打ち立てられ、側には小さな碑がある。
ただそれだけの、ささやかな墓標。
「は……ごぷっ!」
掠れた笑いが出るはずだった彼の喉は、血の塊を吐き出して、足元の花を赤黒く汚した。
冒険者の墓だろうか。
ささやかな墓標に、一面の花畑。それだけの空間。
とはいえ、こうやって弔ってもらえる者が、彼にはひどく羨ましく思えた。
花の上に座り込み、どろっとした回復薬を一息に飲み下す。
口内を蹂躙するマズさに普段ならのたうつところなのだが、全く味を感じない。
かわりに、どこか遠ざかっていたような気配のあった激痛がじわりじわりと戻ってきて、彼を蝕んだ。
「オレは……」
オレは、死ぬのか。
誰に看取られることなく。
仲間を逃がせたのかどうかすらわからず。
大した稼ぎもない、しょっぱい冒険者として。
「なぁ……あんたも、孤独に死んだのか?」
傍の墓標に語りかけるも、応えはかえってこない。
墓標となっている剣が、月の光を鈍く照り返すだけだ。
彼が滑り落ちた斜面の上、ほど近い場所で爆発音が轟く。
魔物の行列を蹴散らすために、業を煮やしたペイルベアが放ったものだろう。
じわりと浮かんだ涙を振り払い、彼はもう一度その足で大地を踏みしめる。
見ず知らずの墓の主も、眠りを妨げられるのは嫌だろう。少なくともクォルアは、自分が葬われたあとになって、墓標が爆破されるのは嫌だなと思う。
花の咲き乱れた墓所を抜けて少し進むと、馬車が使える程度の道に出た。
運良く通り掛かった馬車でもいれば、彼は命を拾うことが出来るかもしれない――しかし喜色を浮かべかけた彼の命運は、ここで尽きた。
道の先からのっそりと姿を表したのは、馬車ではなく、件のペイルベアだったからだ。
ああ、わかっていた。わかっていたさ。
日の暮れた森に、馬車が通るはずがないのだ。
仰ぎ見る巨体は複数の魔物にぶつかられ、気が立っているのか。
丈夫な毛皮は返り血に塗れ、暗闇の中にあってなお絶望を撒き散らす。
魔物同士でやりあったなら、そっちの肉でも食っててくれたらいいのに。
そう願わずには居られないが、現にヤツは目の前に現れた後だ。嘆いたところで、どうにもならない。
もはや走ることもできない彼は、ついに背にした木の根元にへたり込んだ。
ペイルベアは恨みや執着が深いという話を聞いたことがあったっけ、と半ば他人事のように思い出す。
匂い袋をヤツに命中させたときから、クォルアがこうして追い込まれることは決まっていたのかもしれない。
「は、……はは……」
それなら、それで。
アンジェたちが無事に逃げ切る可能性が、少しは上がろうというものだ。
「はは……は……ッ……」
あれだけ血で潤ったはずの喉はカラカラに乾き、歯の根は噛み合わず。
ゆっくりと歩み寄る巨体から目を逸らすこともできず。
まだ辛うじて動く左手にナイフを忍ばせて。
レベル1の初級冒険者たるクォルアは、自身の終わりが近づいてくるのを眺めていた。
ペイルベアだけではない。残った魔物たちも遠巻きに、この場に集まってきている気配を朧げに感じる。おこぼれに預かりたいのか、敵意を稼ぎに稼いだ結果か。
どんなにみっともなく騒いだところで、彼はもはや死ぬだろう。
しかし、それでも。ただでやられはすまい。
飛びかかってきたヤツの片目でも奪って、それを土産に笑って死んでやる。
そうすれば――イスカのやつなら、いつかオレの仇を討ってくれるかもしれない。
自らの首に下げられた認識表が、ペイルベアの腹の中から見つかったら。あいつはどんな顔をするだろう。それより肥溜めの中から見つかる公算のほうが高いか。
益体のない考えで恐怖を紛らわして、その時を待つ。
「▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪――ッ!!」
ヤツはゆうに2mを超える体をもたげ、醜悪な咆哮を轟かせる。それはまるで、勝利の雄叫びのように。
そんなに大声を出さなくても聞こえてるよ、化け物。
朦朧とした頭で、考えるのは一矢報いること、ただ一点。
だから――ヤツが相応に頭がキレる個体であることを、忘れていた。
爆裂。
クォルアの眼前、すぐのところでそれは発現する。
「ばッ――ぐ、ぁぁああアア……!」
枯れたと思っていた喉から悲鳴が迸る。
爆破された地面から、土が、石が、雨のようにクォルアへと叩きつけられる。
握り込んでいたナイフは遠くへ転がり、目の霞む彼ではもはや拾い上げることすら不可能だ。
終わる。
何もできずに。
一矢報いることすらできず。
こんなところで。
生きたまま食い千切られて。
終わる。
クォルアは、自らがエムハオの生皮を剥ぐときの光景を脳裏に一瞬思い浮かべた。
汗が吹き出し、嘔吐感が迫り上がる。
目の焦点もあわず、ついに恐慌を来した彼に満足したように、ヤツは大顎を開き、クォルアの無防備な脇腹へとその牙を突き立てんとする。
死ぬ。
終わる。
その瞬間に――天啓を受けたかのように、クォルアの左腕は動いていた。
仲間と共に揃えた防具。駆け出しの彼らにとって、安い買い物ではなかったそれ。しかし、確かな絆を感じるそれ。
そこから無我夢中で取り出したのは、瓶の破片。
クォルアの血を滴らせた破片は、宵闇に鈍く光る。左手の指は骨に達するほどにまで硝子によって刻まれているが、彼の動きは止まらない。
「▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪――ッ!!?」
有り得ぬ反撃。
窮地に陥った鼠は、猫にさえ噛み付くことがあるという。
片目を奪われた森の主は、怒りの咆哮と爆裂を撒き散らす。
地が弾け、腿の肉が千切れ飛んだ。
しかし、クォルアの口許はうっすら釣りあがっている。
「ざまぁ、みやがれ」
どう、と地面に叩きつけられ、二度、三度と地を跳ねたあと、彼は横倒しのままついに指の一本ですら動かせなくなった。
とてつもない眠気が、意識の端から黒く染め上げんとする。
以前に気を失ったときには意識は白く染まっていたものだが、死ぬときは黒いのだな、なんて場違いなほど冷静に、クォルアは思いを馳せる。
すぐ近くにいるはずのペイルベアは、彼にとっての死そのもの。
激昂していることだろうが、もう彼にはそれを怖れるほどの余力も残っていない。
ただ、最期のときに思うのは、仲間のこと。
アンジェのこと、イスカのこと。
身の丈に合わない馬鹿をやっちまったけど、その代償はクォルアが全て支払っておいた。
あいつらは強くなって――幸せになってほしい。
「▪▪▪▪▪▪、▪▪、▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪――ッ!!」
思わぬ反撃で片目を喪った森の主が、地響きと共に迫り来る。
クォルアの片目も血で汚れ、地に擦られて、片目同士の睨み合い。睨み合いと言ったところで、その実もはや彼には黒く染まりつつある中央に、それよりなお黒い影が蠢いているようにしか視えていないが。
「がんばった、よな……オレ」
やがて、目を開けていることすら疲れた彼は、静かに乾ききった目を閉じて、終わりを待つ。
待つ。
待つ。
ねえ。
ちょっと焦らしすぎではなかろうか?
待っているだけというのもつらいものがある。
それが死出の旅路だというのだから、その身を苛む不安は筆舌に尽くし難いものがある。
いっそ、彼はもう死んでおり、それに気付いていないだけなのでは? という気持ちが細い意識に疑問として浮かぶ。
が、しかし。目を閉じた彼には預かり知らぬことではあるのだが。
彼の死は。彼に死を齎す存在は。
そのとき、突如として出現した氷の壁に阻まれていたのだ。
そして、クォルアの耳朶を叩いたのは、力強くも優しい言葉。
応えがあると思っていなかった、死にゆく者の末期の言葉への返答。
「ああ。もちろんだとも」
その声に導かれるように、黒く染まったクォルアの瞼の裏側を、眩い光が切り裂いた。
「君の武勇、存分に誇るといい。私が証人となろう」
重い瞼をなんとか持ち上げたクォルアが見たのは、男の背中と、地に突き立つ眩く輝く黒い剣。
夜闇を塗り固めたような剣の柄に手を置く男が、彼に背中を向けて悠然と佇む。
対峙するは、クォルアにとっての死そのものたるペイルベアに、それを取り巻く無数の魔物。
諦めず、耐えて、粘って、粘り抜いたが故に、差し伸べられた手。
ゴコ村からの帰り道に、ふと思い立って友人の親族の墓参りを終えて帰路についていた男が居たという幸運。
されどここに至るまでに諦めていれば、喧騒が男の耳に届くことはなかった。
そして最後の抵抗をしていなければ、男が間に合うこともなかったろう。
だからこれは、クォルアにとっては粘り勝ちだ。
状況は、依然として劇的な変化を遂げたわけではない。
ペイルベアを筆頭に、無数の魔物が消え去ったわけではない。
ああ、それでも。クォルアは、残ったか細い意識が安心感に包まれるのを感じていた。
堂々たる男の背中は、英雄の資質を体現したものであり。
そして今なおヒカリを発してやまない黒き剣は、憧れと羨望をいくら叩き付けても足ることはない。
「"黒剣"――」
駆け出しの冒険者は、驚きと共に自らの救い手たる者の二つ名を呟く。そして、ついに意識を手放した。
(襲い来る魔物の山を氷結と剣技でばったばったと薙ぎ払い、形勢不利を悟って魔力爆発を煙幕に撤退しようとするペイルベアを、魔石を組み替えて"黒剣・大切断"にて一刀のもとに切り捨てるカイマン無双の描写は)ないです。