僕と彼女と家路
タハールマール平原。
広く見晴らしの良い土地には、青々とした草原が見渡す限りに広がっている。
木もほとんど生えていないこの平原には身を隠す場所も限られているので、蛮族の類も出没しにくい。
そういう理由もあって、のんびりと休憩する旅人や、草を食む羊、それを見守る放牧主なんかがちらほらと見受けられる。
そんなのどかな光景のなかを一直線に切り裂いて、僕らは北上していた。
風とともに、景色が後ろへ吹き飛んでいく。
回転音だけを微かに響かせて、黒銀の馬が野を爆走する。
時折すれ違う旅人たち、さらには羊までもが、呆然と僕らを見送った。
一度瞬きでもしようものなら、すでに僕らの姿は遥か彼方にある。
巻き上げられた草がひらひらと落ちてくる様だけが、彼らの見たその光景が夢ではなかったことの証左だ。
「まさかこんな単純な機構で、これだけ速い乗り物が作れるとは」
僕の呟きは、驚き半分、呆れ半分。その声も一瞬後には遥か後方へと置き去りになる。
黒銀の馬は黙して語らない。そりゃそうだ、便宜的に馬と言っているだけで、これは新作の魔道具であり、見た目も馬とは異なる。
跨がって乗るから馬呼ばわりしているだけなのだ。
『ハウレル式』と呼ばれている馬車が、車輪の回転によって魔力を生み出すのとまるっきり反対に、この黒銀の馬は魔力を回転に変換える。
『オスカーさんの螺旋の力は、ようは魔力を回転に変えているのですよね』というシャロンの発言と、彼女の記録の中にあった乗り物の映像を見せてもらって組み上げたのが、この魔道具だ。
原理は単純だが、とはいえそこに籠められた技術は並ならぬものである。
この馬には車輪が前後にひとつずつ設けられている。中央が紫、外の輪が赤の車輪はかなり目立つものだ。
前後二輪など、どう考えたって転んでしまって前には進まないだろう、と思ったものだけれど……。それは完全に杞憂だった。
なんでも回転してそれなりの速度で前へ進むことで、縦方向への安定性が担保されるのだとか。こうして実際に走ってみると、意外にも全く倒れそうになることもなく走行できている。
怖かったのは最初のうちだけで、今となっては流れていく風景を楽しむ余裕さえ生まれている。
この車輪には高純度の僕の魔石とレッド・スライムの魔石が惜しげなくつぎ込まれている。
レッド・スライムの魔石に関しては入手難度どころの騒ぎではないので、この車輪ひとつにしたって値段が付けられないような代物となってしまっている。いわば一点モノの特注品である。
紫色をしている面には回転の術式を細かに刻み込んでおり、魔力を受けると回転へと変換する。
回転の速度は注がれた魔力量に依存し、景色を次々と塗り替えていくような今の速度であれば、それ相応の魔力を消費している。
赤色の部分はレッド・スライムが元々持っていた硬化する性質と固着する性能を引き出すものだ。
この部分が地面に触れると、触れた場所に応じて車輪表面がある程度まで形を変える機構になっている。
平たく言うと、でこぼこした路面なんかも車輪が変形して衝撃を吸収してくれるのだ。
そのため、現在のような草地であっても問題なく走行可能だ。馬車が通れるように舗装された道なんて町同士を繋ぐ限定的なもので、それに縛られることなく移動手段が確保できる意味は大きい。
今までのところ、砂地だろうが草原だろうが沼地だろうが、この車輪の道行を拒んだものはない。
車輪同士を繋ぐ、馬の体にあたる部分は黒銀に輝き、太陽の光を鈍く跳ね返している。
ハウレル式の車輪を作るときのようなアルミニウム合金だけでは強度が足りなかったので、このためにわざわざ新しい合金を精錬しているのだ。
テンタラギウス鋼は強度は申し分ないが、重くて扱いづらい。
これに亜鉛、アルミニウム、ダマスカス鋼なんかを加えて新たな合金を作り、黒銀の体となる部分を形成している。
強度と軽さを兼ね備えた合金を精製するのは"全知"頼りでもなかなか上手く行かなかった。
"全知"によって答えはわかっており、あとはその通りに作業をするだけなのだが、これが存外に苦戦したのだ。作業を興味深そうに覗きに集う者たちに、集中力が乱れに乱されたためである。
作ったもののいまいち要望に満たない合金は、島に残してきた獣人たちの炊事場や武器防具なんかに有効活用されている。
そうそう、獣人たちといえば。
あまりに周りを取り囲んで平伏するので鬱陶し――もとい、役目が欲しいのだろうと、獣人たちはあの島で生活するように申し付けておいた。
彼らに島を監視してもらい、またぞろレッド・スライムなんかの危険な兆候を発見したら連絡してもらうこと、そして魚がたくさん獲れたら"召喚"魔術――ということになっている"倉庫"経由――で買い取るという契約を結ぶことで決着した。
『どこまでもお供します!』と言葉と瞳で訴えていた獣人たちは、『この島を監視する役目』という言葉にコロッと絆されて、使命感に溢れた表情で僕らの乗った船を見送ってくれた。
文明的とは言い難い島での生活だが、連絡や取引のための板は置いてきたから、必要なものはこちらから届けてやることもできるし――人間と接することのない生活のほうが、彼らの気も休まろう。
島を後にする頃には、彼らの家屋の真ん中に板を飾る祭壇のようなものが形成されていたのは、そっと見なかったことにしたから大丈夫だ。うん。大丈夫だ。
そういうなんとも言えない出来事なんかは、こうやって流れる景色とともに溶けて消えていくくらいに、黒銀の馬は爽快感を齎してくれる。
シャロンに担がれて運ばれるときのような、臓腑虐めのような上下運動がないのも、また快適さの由縁だろう。
「サラマンダーより、ずっとはやいですね!!」
「サラマンダーの速さが僕にはぴんとこないけど」
サラマンダーは中型の、竜種の魔物だったはずだ。
少なくとも、あまり動きが速いイメージはない。
僕の真後ろにピタりと座り、腰あたりに腕をまわしたシャロンは、楽しそうに声をあげる。
なんならシャロンが全力で走ったほうがもっと速いのだけれど、黒銀の馬に横座りして金の髪を靡かせる彼女は革張りの後部座席にご満悦の様子だ。
本来ならばびゅうびゅうと正面から吹き付けてくるであろう風は、"結界"の魔術で移動や会話に支障が出ないようにしている。
そのため、シャロンのような抜群のバランス感覚がなくとも、ちょこんと座っているだけならばそうそう振り落とされる心配はない。しかしそのぶん僕の魔力は垂れ流し状態になっている。
これに関しては早晩、対策を考えなければなるまい。そうそう何度も魔力欠乏症になるわけにはいかないからだ。
倒れた後に"念話"で家族に無事を伝えたときの反応は、僕をへこませるには十分だったのだ。
アーニャには呆れられ。
アーシャには叱られ。
ラシュには泣かれ。
シャロンにまで、『オスカーさんったら、すぐに無茶をするんですもの』と謗られたのは、まだまだ記憶に新しい。
車輪を回転させるのには、動力庫に満載してある魔石を使っている。
身体に負担はないとはいえ、この調子で一日も走ればそれなりに魔石を消費することになるだろう。
「風対策や燃費の改善ができれば、アーニャたちにも似たようなものを用意してやりたいな、この乗り物。そう何台も作れるもんじゃないけど」
「ハウレル珍走団が結成できますね」
「なんかあまり良い響きじゃないな……。
この乗り物の名前も考えないといけないし――なにかいい名前はないかな? シャロン」
「はい。ええと、私が付けるのですか?」
「うん。なんかかっこいいやつを頼む」
いつまでも馬呼ばわりっていうのもなんだかパッとしない。
どうせなら、シャロンにかっこいい名前をつけてもらうとしよう。
「そうですねぇー、ううーん。
では、『ダビッドソン』などいかがでしょうか。ハウレル = ダビッドソン」
「すごい人名っぽい。なんか王都とかで働いてそう。
けど――うん、かっこいいかも。それでいこう。
今日からこいつはダビッドソンだ」
ふたりを乗せた黒銀の馬改めダビッドソンは、一際元気に草原を駆け抜ける。
シャロンと取り留めのない会話を楽しみながら、ガムレルへの帰路を辿る。そうして進むことしばらく。
草原の終わりが近づき、ごつごつとした岩肌が増えてきたあたりで、僕らは休憩を取ることにした。
"倉庫"から敷物と、アーシャ特性のスープと軽い肉料理、焼きたてのパンを取り出して綺麗な皿に並べ、冷たい水をカップに注ぐ。
端から見れば、移動中の休憩というよりはピクニックにでも見えるような光景だ。
近くには魔物の姿もなく、小さな鳥が飛び交う音の他には草を撫ぜる風の音だけが、静かに通り抜けていく。
「はー」
「んんーっ!」
僕は大きく息を吐き出して、シャロンは大きく伸びをして。
ふたり、顔を見合わせて笑いあった。
「のどかだなぁ」
「のどかですねぇ」
千切ったパンに分厚く切った肉を挟み、スープと交互に楽しむ。
見上げた空には白い雲がいくつか浮かんでいて、ゆっくりと風に流されていく。
「島にいた他の人たちも、平和に過ごしてるといいなぁ」
「そうですねぇ」
こてん、と僕の肩に頭を預けるシャロンの髪を撫でると、さぁっと通り抜けた風に攫われてさらさらと指先からこぼれ落ちていく。
シャロンはくすぐったくも愛おしそうに、僕の手に頬を擦り付けた。
島に残してきた獣人6人以外は、迎えに来てくれた船に乗り全員が脱出を果たしている。
近くの町に着くまでの間にも巨大イカに襲われたりだとか波乱はあったけれど、概ね無事に――いや船は中破していたけれど。船長がすごく慟哭していたけれど。巨大イカをやっつけたシャロンへの乗組員からの憧れの目線と僕へのやっかみが凄かったけれど――ひとまずは乗り切ることができている。
島を出る前に命を落とした者は、ルーダーをはじめとして幾人かおり、そのあたりの証言を集めるために何日か拘留されるところだったのだが、ジレットが取りまとめてくれたおかげで他の者は皆解放されている。
いかなる手腕や縁故を使ったのかはわからないが、彼が詮索されることを厭った家柄の話など、いろいろあるのだろう。
僕はこれ幸いとばかりに、完成したダビッドソンに跨り家路についたというわけだ。
「ここ数日は特にいろいろあったから、こんなにのんびりしていると、なんだか不思議な気分だなぁ」
「はい。大忙しでしたものね」
『勇者』に出会い、フリージアと再開し、島に流れ着き……実に落ち着きがない。帰ったら存分にゆっくりするとしよう。
あ、でも島で手に入れた素材を使って新しい魔道具を作ったりもしたいな……ラシュに付き合って剣の鍛錬に、アーニャが乗れるようにダビッドソンの調整もしないと。カイマンのやつに土産を投げつけにいくのもいいかもしれない。
島の探索は船が着くまでにあらかた済ませており、その途上でレッド・スライムの分枝を退治したりだとか、地獄姫蜂の巣を丸ごとアーシャへの土産にしたりだとか、再び妖精たちに絡まれたりだとか、遺体は無いが墓標くらいは作っておいたりだとか。
シャロンとふたりで、たくさん練り歩いた。
それでも――僕が目覚めて以降、たまに寝ているところを見かけるようになったシャロンのことを、僕はまだ問いただせずにいる。
彼女の不調を探ろうとすると、なんでもなさそうな調子で――いつものような、残念なセリフを口走りながら――はぐらかされるからだ。
さぁっと風が通り抜けて、それにあわせて黄色い小鳥が数羽飛び立っていく。
ピチピチ、チチチチ――
歌うように鳴き声を響かせながら、すぐに青空に吸い込まれて見えなくなる。
「なぁ、シャロン」
「はい。なんですか、オスカーさん」
鈴の音のように澄んだ、慈愛に満ちた声で彼女が僕の名前を呼ぶ。
「何か困ってることとか……。不安だとか、不満に思っていることはないか?」
これだけ一緒にいるというのに、僕の目をまっすぐに見上げる彼女の蒼い瞳には見惚れてしまう。
一瞬だけ間を置いて、彼女の声がふたたび空気を震わせる。
「えっちなこと以外ですか?」
「それ以外で」
即答で返すと、シャロンは少し頬を膨らせてむむむむと唸る。
そんな様子も可愛いけれど、僕は彼女が何か問題を抱えているならば、語って聞かせてほしかった。
"童話迷宮"での出来事を黙っている僕が願うには、なんとも身勝手な話だけれど。
「むむむ。そうですね、ひとつありました」
シャロンは右の人差し指をぴんと立てて見せる。
てっきり、またはぐらかされるかと思っていた。
続きを促すと、彼女はその不満を口にする。
「水着です」
「は……え? 水着?」
「そうです、水着です。
海へ行くのは二度目だというのに、突然すぎたのでなんの用意もしていませんでした」
ええ、そんなことを? と僕は肩透かしを食らった気分だったが、どうやらシャロンは大真面目らしい。
いいですか、とシャロンは人差し指をふりふりと目の前で動かす。
「せっかくの海だったのですよ。そしてあなたの最愛の嫁たるシャロンちゃんという美女ですよ。
後年、オスカーさんの伝記が発刊されたときに水着で戯れる私たちの挿絵が無いなんて悲しすぎます!
そうは思いませんか! いえ、思うはずです!」
シャロンは拳を握りしめて強調する。
対して、どこからつっこんでいいやらと思案する僕は、とりあえず一欠片だけ残っていたパンを口へと放り込んだ。
シャロンが美女なのは論を待たないのでいいとして、伝記ってなんだ。挿絵ってなんだ。
そもそも島に滞在していた間に、水辺で遊んでいるような時間などついぞ無かった。
しかし、悔しさを言葉の端々に滲ませるシャロンは止まらない。
思い出したら無念さが湧き上がってきたのか、僕の腕を掴んでわぁわぁと力説する。
僕の不安なんかはまったく的外れだったけれど――そんなシャロンの一面が見られたので、それはそれで良しとしておこう。
「聞いていますか? オスカーさん」
「聞いてる聞いてる。
そんなに水着が欲しかったなら、アーニャにガムレルで買って、"倉庫"に入れておいてもらえばよかったんじゃないか?」
「いいえ。――いいえ。オスカーさん。
否です。断じて否です。
アレは。あんなものは断じて水着ではありません。
可愛さの欠片もありません」
先ほどよりもぷぅっと頬を膨らせて、シャロンは強く否定を示す。
「そんなこと言ったって、どこで買ったって水着なんてあんなもんだぞ」
「いいえ。あんな、皮に空気を詰めたみたいなもこもことした上着のような茶色い物体、私の目の黒いうちは断じて水着とは認めません」
「みたいな、というかそのものだな」
ちなみにシャロンの眼は透き通る蒼だ。今は認められる状態なのだろうか。
拳を握る彼女に茶々を入れる気にはなれないが。
「アレは水着ではなく――そう、救命胴衣といったほうがしっくりときます。
確かに水辺で遊ぶには安全でいいかもしれませんが、違うのです。
水着とは、言うなれば乙女の戦闘衣装なのですよ!」
「水辺で戦うならなおのこと、しっかり浮かぶほうがいいんじゃないか」
「ちーがーうーのーでーすぅー!
いいですか、これが、こうして、こう! です!
これが水着です! 乙女の戦闘衣装、です!」
ついには指先をぺかーっと光らせて、敷物の上に『シャロンの思う水着』を投影しはじめた。
青空の下なので、光がかなり薄くて見えづらい。
「これは、アーニャさんに似合いそうですね。
こっちは、アーシャさん。
あ、これなんてどうですか、私に似合いそうじゃありませんか? オスカーさん、ねぇねぇ!」
「アーシャに似合いそうって言ってたやつは別として、布が少なすぎないか。大丈夫か、戦えるのか……?」
「なに年頃の娘を持つお父さんみたいなこと言ってんですか。
もっとよく見てください、ほらこれとか! そしてあわよくば作ってください!」
ぐいぐいと僕の腕を引き、シャロンは楽しげに映像を切り替える。
そこには不安の影はなく、輝く蒼い瞳で僕を時折仰ぎ見る。
「魔道具ならやってみるけど縫製はなぁ……ヒンメルさんに頼んでみたほうがいいかもな。
あ、今のなんていいんじゃないか。布が多くて」
「いいえ。今のは救命胴衣です! 水着じゃないです!」
むぅーっ、と口を尖らせて、それでも目は笑っていて。
シャロンは実に楽しそうだ。
それにつられて僕も笑う。
草原にふたりの笑い声が響き、風がさぁっと流れて行った。
「オスカーさんにはいろんな私の姿を見て、触れて、惚れ直してもらいたいですから。
いっぱい、いーっぱい、可愛がってほしいですから」
わたしが、まだ動いている間に。
シャロンの演算回路の中でだけ呟かれたその声なき声は、誰にも届けられることはなく。
ただ、彼女の胸の内に仕舞われた。