僕と彼女と島でのやりのこし そのいち
頬を伝う不快感で、目が覚めた。
いつの間にやら寝ていた僕は、これまたいつのまにやら涙を流していたようで、瞬かせた目がじんわりと滲む。
嫌な夢を見ていたような記憶はあるのだけれど、少し重い頭には鈍痛が微かにあるだけで、思い出そうとする側からするりと消えていく。
次に感じたのは喉の乾きと空腹感だ。
はて、と首を傾げている間に、夢の記憶はどこか手の届かないところへと霧散していく。
僕の寝ていた小さな天幕は見覚えのあるもので、"倉庫"に仕舞ってあったものだ。
凛と澄み渡った冷たい空気と、まばらな鳥の声、まだ暗いなかに少しだけ明るさを含んだ気配が潮騒とともに天幕の出入り口から染み入って来ており、どうやら明け方近くらしい。
寝かされているのは、これも"倉庫"に置いてあった、板を組んで作る簡易なベッドの上のようだ。
少し身体を起こしてみると、さらりと滑らかな感触が肘に触れる。見ると、ベッドの側に座り込み、ベッドへと突っ伏すようにするシャロンの姿があった。白い腕の間から、安らかに目を瞑っているのが垣間見える。
いつも僕が寝るまで蒼い瞳で眺め、僕が起きるよりも先に目覚めて待っているシャロン。なので、彼女がこうして眠っている姿を僕が目にするのは、実はかなり珍しい。
工房では、僕は昼前まで寝ていてアーシャに起こされることもあるほどなので、明け方に何かの折に目覚めることがあれば、このようにシャロンの寝顔を拝むことが出来るのかもしれない。
寝息を立てているわけではないけれど、長い睫毛を伏せて、シャロンは眠っている。
眠るシャロンは、可愛かった。
そりゃもう、普段からとびきり可愛い自慢の嫁ではあるのだけれど。あどけない寝顔も、それはそれで大変魅力的なものだ。
以前、僕の寝顔を見ていて楽しいのかとシャロンに問うたことがあった。
そのとき彼女は、突然当たり前のことを聞かれて戸惑ったといったふうだった。普段と違った感じがして、なんだか可愛いのだとか。
その話を聞いた時には、何を言っているやらと首を傾げたものだった。しかし、今なら強く納得できる。
静かに無防備に眠る、無垢な寝顔のシャロンを見るにつけ、たしかにこれは目覚めるまで見入ってしまう気もよくわかる。
小さな天幕の中には、シャロンの姿の他には誰も見当たらない。アーニャたちの姿もなく――いや、アーニャたちは工房に残して、僕とシャロンだけでの旅程だったか。
変な時間に目が覚めたものだからか、もしくは夢見が悪かったせいだろうか。まだ少しぼーっとしているかもしれない。
そもそも僕はなんでこんなところで寝ているのだっけ。
確か、レッド・スライム対策を企てて、それからルーダーが目の前で壮絶な最期を遂げて――物凄い雨が降ってきて、シャロンと協力して雨雲を引き裂いたんだったか。
うん。だいぶ思い出してきた。今も鈍く残る頭痛は、魔力欠乏症によるものかな。
その後の記憶はあまりはっきりしたものではない。
いろんな人が喜んでいた気もするし、いろんな人に口々に責られた気もする。はて、どこからが夢でどこまでが現実やら。
夢か現かわからない景色がごちゃ混ぜになって、直前の記憶が判然としない。
眠るシャロンをちらりと見やる。
うっすら明るくなりつつある朝の空気が、柔らかな金の髪に溶け込んで、幻想的な雰囲気を醸し出している。
いつもベッドに入るときやお風呂に入る時にはほどいている髪を結わえたままだし、服だって外行きのまま。眠るつもりがなかったのについうとうとして寝てしまった、というふうに見受けられる。
どくん。
そんなシャロンの姿を見ているだけで、僕の胸が高鳴――いや、これは違う。
なんだろうか。胸騒ぎ、とでも言うのだろうか。
ただ眠っているシャロンの姿に、どこか不安を覚えるのは何故なのだろう。
きっと悪夢のせいだ――とは思うものの、一度よぎった不安はすぐに拭い去ることができない。
本当に、ただ眠っているだけ、だよな――?
どこか具合が悪かったりだとか、僕から見えない位置に穴があいていたりだとか、しないよな?
僕が目覚めたことに気付かずシャロンが眠り続けるような珍しい事態が、さらに嫌な予感に拍車をかける。
いつも通りのシャロンであれば、有無を言わせず僕と添い寝を敢行していたりするだろうに、今回はそれもないのだ。
そうだ、レッド・スライムの相手をするために協力魔術を、二度も行使した。シャロンに負担を掛けるのはわかっていたはずなのに。
どうしよう、どうしよう!?
落ち着け、落ち着くんだ僕。シャロンがただ眠っていると確認したいだけなのだ。それだけで僕の不安は解消される。
しかし、どうやって?
呼吸によって胸が上下しているかどうかが、この角度ではよくわからない。手を翳して呼気を確かめてみるか? いや、あまり近付くとシャロンを起こしてしまいそうだ。ただ眠っているだけの場合、それは避けたい。そもそもシャロンって呼吸をしていたんだっけ? そうだ、眼鏡、眼鏡はどこへ? お前が在れば解決だ! そうだ眼鏡さえあればわからないことはだいたい無い。ただ、いまはその眼鏡の位置がわからない。"探知"の魔術を"全知"なしで無詠唱で行うことなど、僕にはできない。声を出せばシャロンを起こしてしまう。とりあえず"倉庫"の中を探してみよ――めちゃくちゃごちゃっとしている! 誰だ、こんなに散らかしたのは! 主に僕だ! 生肉、作り掛けの部品、何かに使えるかもと拾い集めた鉱石、予備の毛布、洗い上がった下着類――眼鏡どこだ。眼鏡の位置を探す魔道具を作るべきかもしれない。あ、でもその魔道具がどこかへ行った時のために、魔道具を探す魔道具を作るべきなのか……? 魔道具を探す魔道具を探したいときは……あっ、やばい脚が攣ったッ……!!
「あ」
まとまらない思考の末、もだもだと身じろぎしただけなのだが、シャロンにはその振動で十分だったらしい。
ぱちりと開いた蒼い瞳が僕を見据え、固まった。
「あの……えーと。
おはよう? シャロン」
シャロンは突っ伏した状態のまま僕を見上げ、何度か目を瞬かせる。
僕としては、彼女がただ眠っていただけなのが無事判明してほっとしたのだけれど、本人にとってはそうでもなかったらしい。
「ふぇっ――」
「ふえ?」
「お、おはようございますオスカーさん!
ちょっと、ちょっとだけっ! お待ちくださいっ!」
シャロンにしては珍しい、なんとも言えない声。
すぐに口元を拭つつ跳ね起きた彼女は、その勢いで俊敏に背を向ける。
そうして、ベッドの上で少し上体を起こした僕には口を差し挟む隙すらないまま、彼女は"倉庫"から手鏡を取り出しながら天幕の外へと消えた。
その間、時間にしてわずか数秒の出来事である。
魔導機兵って涎を垂らす心配があるんだな、なんてぼんやり考えていると、天幕の出入り口からこっそりとこちらを伺いつつ、ささっとシャロンが戻ってきた。
「おはようございます、オスカーさん」
「おはよう、シャロン」
落ち着いた態度で恭しく礼をして、にこりと微笑みかけてくる。
"全知"がなくとも、直前の慌てっぷりを無かったことにしたい意思がその笑顔からはありありと感じられた。
――
その後落ち着きを取り戻したシャロンから、これまでのあらましを教えてもらった。
どうにも空腹感が耐え難かったので、少し早い朝食として柔らかなパンを齧りながら、シャロンの話に耳を傾ける。
どうやら雨雲を消し去ったあと、無事にレッド・スライムの討伐は成ったらしい。
その頃はまだ僕は一応起きていたらしい。言われてみればそんな気もするような、しないような。
再び雨が降り出してもレッド・スライムが復活したりしないよう、現在に至るまで炉の上の穴には蓋が落とされ、溝からの流入口も塞がれているとのこと。
そのあたりはジレットの指揮のもと、まだ動けるものたちが総動員でことにあたったらしい。
そんな中、シャロンは寝こけた僕を運び、天幕を新たに張ったり、なんてことをやってくれていた。
僕が魔力の使いすぎで倒れたとあって、シャロンもたいそう気を遣われたとのことだ。
そんなこんなをやっている間に、なんと島に船がやって来たらしい。急展開だ。
「嵐で参っていたところに、オスカーさんと私の"天照"に惹かれてやってきたようです」
「なにその格好いいの!?」
そんな格好いいものは作った覚えがないぞ!? と一瞬慌てたが、対レッド・スライム戦で最初に二人で作った魔力光のことを言っているらしかった。
僕やジレットはあれのことを便宜的に"太陽"だとか呼んでいたのだが、シャロンにかかれば洗練された名前に早変わりだった。
もういっそ、僕の魔術固有名はシャロンに命名してもらおうかな……なんて微妙なところで自信を喪失しつつ、話を続けてもらう。
やってきた船はさほど大きくはない漁船で、ほど近い場所で操業していた。
ただ、この島近隣は元々魔物が多くて、周辺に近寄る船はあまり無いらしい。
雨と雷に巻かれ、方向がわからなくなってしまったところで、たいよ――"天照"を灯台と勘違いし、なんとかたどり着いてみると見知らぬ島で呆然、なぜか島上空だけ雲がなくて愕然、浜辺で人々があくせく動き回っていて唖然、といった一幕があったとのこと。
翌朝、医者にかかる必要のありそうな怪我人を優先的に数人乗せて、船は町へと取って返した。
漁船は生存者全員が乗れるほど大きくはなかったので、町に着き次第救助の船を手配してくれることになっているという。
「翌朝って。今よりもっと朝早くってこと?」
「いいえ。海が荒れていたのもあり、もう少し日が登ってからでした。
――あの、オスカーさん。オスカーさんは2日ほど、ずっと眠り続けていたのですよ」
「うわぁ。そりゃ、お腹がすいてるわけだよ……」
パンを丸々ひとつ平らげてもなお空腹感を主張するお腹を見下ろしながら、呟く。
ぐっと握りしめた拳に違和感はない。その甲斐あってか身体のだるさはある程度抜けているし、魔術の行使もできるだろう。
「4日あれば迎えの船が来るだろうという話でしたので、もう2日後にはこの島を後にできることでしょう」
「帰る算段は何も考えてなかったけど、そりゃ良かった」
"全知"とシャロンに頼れば船だって作って作れないことはないと思うのだけれど、大海原に投げ出される経験も二度目は御免だ。
しっかり専門家の手で作られたものであるに越したことはない。
「オスカーさんがおやすみの間、食糧は漁船から買い取った魚を主としておりました」
「ああ、そうか。僕が食べ物は"召喚"したってことにしてたもんな。
特に問題はなかった?」
「はい。アーシャさんが少し残念がっていた以外は、食糧については問題ありませんでした。
ただ――」
シャロンが少し言い澱む。
どう報告すべきか迷っているらしい。
「実際に見ていただいたほうが早いやもしれません。
ちょうど良い時間ですし、外へ出てみませんか」
やがて小さくかぶりを振ると、彼女は僕に向かって手を差し伸べた。