僕らの魔道スライムトラップ そのさん
島と、その周辺海域を覆った黒く分厚い雨雲。
その雨雲を引き裂くように、島の直上にぽっかりと開いた大穴から降り注ぐ月の光と星々の瞬きのなか――ようやく、趨勢は決した。
残り僅かとなったスライムは、硬化したままの部分まで含めてぼとりぼとりと炉へと身投げをし、炎と渾然となって、踊り狂うようにその身をうねり曲げる。
最後の一欠片がぼとりと落ちた後も、防御隊の面々や、冒険者、獣人たちは大盾の隙間から恐る恐る様子を伺った。
荒れ狂う波の音や、海で猛る雷の音を遠くに聞きながら、誰も彼もが動き出せずにいる。
僕もその例外ではない。
魔力の使いすぎで、全身をひどい倦怠感と疲労感が包み、重くずっしりとした頭痛が苛んでいる。
シャロンが支えていてくれなければ、雲を切り裂いた直後にへたりこんでしまっていただろう。
こんな状態で何か魔術を使おうにも、魔力を込めようとしても集中力が途端に霧散してしまい、暴発するのが関の山だろう。
普段通りの単発の魔術に加えて"永劫螺旋"にシャロンとの協調魔術、さらにはその合わせ技を一日の間に行使した身体は、一度倒れ込んだらそのまま寝入ってしまいそうなほどだ。
瞼を維持しておくのさえ億劫で、いっそ何もかも放り出して寝こけてしまいたい欲求に駆られる。
「勝った……のか?」
「わからん……」
「誰か、様子見に行けよ」
「そういうあんたが行けよなっ」
動くモノが絶えた『河』。いや、今となっては元の溝か。
その溝の縁から、周囲を伺うひそひそ声が伝わってくる。
「シャロン。少し、様子を見てきてくれないか。
危なそうなら、すぐ退いてくれ」
「でもっ――」
「僕は、大丈夫だから」
「でもっ! シャロンは心配ですっ」
ひしっ!
口では大丈夫だと言いながら、その実へろへろな僕をシャロンはしっかりと抱きとめる。
しっかりと触れたシャロンは、柔らかくてあたたかくて。
そのまま白い肩口に顔を埋めた僕は、抗いがたい睡魔に従って目を閉じて――
「んン"……ゴホン」
僕があと少しで眠りに落ちる、すんでのところで挟み込まれた、わざとらしい咳払いに阻まれる。
慌てて目を擦る僕の視界には、素知らぬ顔で眼鏡を押し上げるジレットの姿と、少し頬を膨らせるシャロンが映る。
「シャロン、頼むよ」
「はい。うぅ。
すぐ戻ります、すぐ戻ってきますからね!
オスカーさんはそこで座っていてくださいね!
いいですか、すぐですから。あいるびーばっくかみんぐすーんです!」
名残惜しさを隠す気配すらみせず、シャロンは僕をその場に座らせると、旋風を巻き起こす勢いで走る。
それまで僕らのやり取りをぐぬぬぬ……と、どこか羨ましげに見ていた者達がぽかんとした顔をする頃には、シャロンは溝と炉を繋ぐ淵の部分にまで到達している。
シャロンはそのままひょこっと顔を出して、穴の中を覗き込んだ。
その無謀な振る舞いに、誰かが息を飲む音が響く。
それもそのはず、炉の設けられた穴の付近は、近付くだけでかなり暑い。その真上に顔を出したらどれほどの熱気に襲われるのか、わかったことではない。
それになにより、少し前まで触手を振り回して草木を溶かしまわっていた強力な魔物が落ちて行った穴を覗き込むというのも、なかなか進んでやりたいようなものでもない。
しかし当のシャロンは物怖じなんてものとは無縁だと言うかのごとく、穴の底、溝の中をぐるりと見渡す。
そして、こちらに向けて右手を握りしめ、親指をぐっと強調する。
「勝ちました! 第三章完、です!」
言うが早いか「では!」と言い残し、唖然とする皆の視線をその場に置き去りにして踵を返すと、来たときと同じようにすごい勢いで僕の元へと戻ってくる。
「勝ち……」
「や、やった、のか」
「うぉぉぉおおおおおおおおやったぞぉおおおおおおおおおお!!」
「おじさんうるさい。でも……うん、勝った、勝ったんだね」
それまで緊張で張詰めていた空気が、ゆるやかに弛緩したものへと変わっていく。
歓声が疎らにあがるなか、大部分の人たちは、ようやく終わったと安堵の表情を浮かべたり、今になってへなへなと地面へとへたりこんだり、肩を抱き合いながらお互いが生き残ったことを喜んだ。
ガチガチに緊張していた農夫も。皆を励ましつつも時折不安そうな顔を覗かせていた大道芸人も。ぶちぶち文句を言いながらも守備隊を引き受けてくれた漁師も。皆それぞれが、やり遂げたような柔らかな笑顔だ。
残念ながら、決して無傷の勝利というわけではない。覚悟の上でのことではあるけれど、それでも怪我をしたものもいるし、ルーダーの陣営はルーダー自身の死をはじめとして多数の犠牲も出た。
しかし、レッド・スライムが海へと進出し、もっとずっと多くの――未曾有の被害が出ることは防げた、はずだ。
安心したら、さらに強い眠気が怒濤の勢いで押し寄せてくる。
座ったまま、ふらふらと突っ伏してしまいそうになる僕を、ふわりと受け止める優しい手。
「やりましたね、オスカーさん」
「――。今度は、守れたよ」
「オスカーさん?」
「今度は、家族をまもれたよ」
身体の気怠さも疼く頭も、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。
優しい手に抱かれながら、なんだかふわふわして、歓声も喧騒もだんだん遠くなって。
「はい。
ほんとうにお疲れさまでした、オスカーさん」
すでに半身以上が眠りの世界に落ちている僕に、天使の囁きだけがじんわりと届いた。
――
これは夢だ。
夢を見ながらにしてそう気付くことが、たまにある。
夢というのはわりかし支離滅裂なもので、普段はそれでも違和感を抱いたりすることは、あまりない。
有り得ない出来事、過去の再現、意味をなさない空間、そして――もう会えない人。夢は、そういったものたちと出会いながらも淡々と進行する。
『なんで私たちは助けてくれなかったの?』
身体は爛れ、串刺しにされ――母が怨嗟の声を投げ掛ける。
『力で捩じ伏せんのは楽しいだろォ、なァキョーダイ!!』
名も忘れた蛮族が、嫌らしく嗤いたてる。
『気に入らない者は切り捨てる、そそ、それが君なんだろう?』
名も知らぬ、違法薬物の運び屋が抗議の声をあげる。
『君の自己満足にさ〜、付き合わされる身にもなってよ〜』
銀髪赤眼の恩人が、揶揄を飛ばす。
『あなたは、つよい人。私との記憶でさえ、自ら捨ててしまえるんですね』
悲しげで、寂しげな声が、僕を叱責する。
『”災厄の宝玉”に魅入られし者、常に死が付き纏う』
聞き覚えのない声が、聞き覚えのないことを言う。
焼け爛れた人、生き埋めにされた人、打ち捨てられた骸骨、胸に大穴を開けられ機能を停止した魔導機兵。浮かんでは消え、消えては浮かび。
目の前に残ったのは、血のこびり付いた石槍に、掘り返された床石。
焼けた鉄串で頭をほじくり返されるような異物感のある激痛が、間断なく脳髄を焼く。
これは夢だ。
夢であるはずだ。――夢であって欲しい。
僕はここを抜け出たはずだ。
この狭い空間を抜け出て、再会を果たしたはずだ。
僕を孤独から救ってくれた大切な存在と――それなのに、なんで名前が思い出せない。
この見飽きるほど見慣れた空間を打ち破って外に出た、というのがまやかしで。願望で。そっちのほうが夢で。
僕はずっと、ここに居たのか?
じくり。欠けた脳が痛んだ。
第三章はあとちょっとだけ続くんじゃ……。
あとちょっとだけ、のはずなんですけれど。ですけれど。