"月影"の冒険 そのに
この"月影のクロウ"に、魔術師、そして女神。
それに獣人が全部で6匹。クロウが肩を貸している獣人以外は、なんと魔術師が何かの魔術で浮かばせて運んでいる。そんなのアリか。
女神はというと、クロウたちの先頭に立って、邪魔な木や邪魔な魔物を「えぃっ」とか「とぉっ」とか可愛いらしい掛け声とともに伐採し、肉片へと変えていく。
女神が歩いて通りやすくなった道を、クロウやふよふよと浮かべられた獣人たち、魔術師が一列になって辿る。森を進むと言われた時には耳を疑ったが、クロウがすべきことはただ歩くことだけだった。
そうやって何事もなく――何事かは女神が全て処理してくれるので、"月影のクロウ"の出番があるようなことはなにもなく――一行は浜へと直進した。
浜に近付くにつれ、謎の白光が木々の間から射し込んできて、足下を明るく照らす。次いで、酷い悪臭が鼻を衝いた。魔術師も顔を顰めてはいるものの、止まる気配はないので異常事態というわけではないのだろう。
そうしてついに、クロウたちの眼前の視界が森の終端を捉える。
森を直進して抜けてきたというのに、さほど時間も掛かっておらず疲れも大したことはない。クロウとしては文字通りただ歩いていただけなのなので、当たり前といえばその通りなのだが。
浜辺付近では何やら物々しい雰囲気が立ち込めている。
少し離れた位置に獣人たちをおろすと、魔術師に女神はやることがあるのか、『河』のほうへと戻って行く。
『河』付近には大勢の人間が集まり、熱気が立ちこめている。
あれが道すがら魔術師から説明を受けたレッド・スライムなる魔物と、それを滅するための炉、及びそのために挑む人々なのだろう。
人々は皆揃いの紫色に輝く鎧を纏っており、分厚い大盾を持った一団もいる。
屈強な男たちばかり、というわけでは全くない。むしろ、漁師や大工でもしていたのかというような鍛えられた身体の者のほうが少数であり、剣など振ったこともなさそうな優男や、腰が引けた女性の姿まである。
「あんな者たちまで戦っているのか……」
ひとりごちたクロウに応える者はない。
女性だから弱い、だなどということは直前まで女神の進撃を目の当たりにしていたクロウは考えるべくもない。しかし、いまも伸び上がる赤い水の鞭に果敢に盾で封じ込めをはかる者達からは、そういった特別な強さのようなものは微塵も感じられない。
それなのに、彼らは戦う。戦っている。
「今戻った。状況は?」
「ご覧の通り、今のところは欠員は出ていませんよ。
戦闘開始から予想以上の時間が掛かってはおりますが、ようやく『河』の流量が目に見えて減ってきたところです、ええ」
「あと一息だな」
「ええ。しかし、貴方がたの『太陽』が弱まるにつれて先ほどのような触手による攻撃が増えつつあります。鎧の破損がいくつかと、士気の低下が少々といったところでしょうかね」
戦闘を指揮している男と魔術師が問答をする間も、『河』からは何本かの触手が伸ばされて、その都度大盾に阻まれる。
彼らが。本来戦う力が無いはずの彼らがこうして必死に戦っているのに、”月影のクロウ”は――俺は一体何をしていたというのか。ぢつと手を見る。
冒険者は冒険を生業としている。冒険は、危険をおかすものと捉えられがちだが、実はそうではない。無策で危険なところに踏み入るのはただの無謀である。
冒険者業というのは、その実どれだけ安全を確保できるかという戦いと言い換えてもいいだろう。少しでも勝ちの目が薄いと思ったら逃げるのも立派な手だ。それを卑怯だなんだというのはお門違いも甚だしい。
そう。だから、”月影のクロウ”は間違っちゃいない。少なくとも、冒険者としては正しい行いだった。物資を持っている者の下についたことも、未知の魔物と積極的に交戦せずに傍観に徹していることも。
だというのに。
なんなのだ、この胸の疼きは。この鼓動の高鳴りは。
無力なはずの人々が、強力な魔物に対峙する。無謀とも思えるほどの相手を前に、必死に己を奮え立たせている。
その姿に、忘れてしまっていた何かを見出すように。”月影のクロウ”は戦闘に見入っていた。
「見ろ、レッド・スライムの端が見えて来たッ!」
「いける、いけるぞ……!」
見張りからの報告で俄に活気付いた大盾の部隊は、あと少しだと歯を噛み締める。
最期のあがきとばかりに荒れ狂う触手を大盾がはじき返し、赤い飛沫が憎々しげに宙を舞い、河口へと、魔物の終点へと降り注いでいく。
しかし、あと一歩。そういう時がもっとも油断が生まれやすく、危険も多い。冒険者として生きてきた者の経験則である。
そしてたまさかに――天候までもが牙を剥く。
「あっ――!?」
「え、そ、そんな!?」
それに気付いたのは誰が最初だったか。
いや、気付いた順序に然したる意味はないけれど。
それを感じ取った"月影のクロウ"も、空を仰ぎ見た。
ぽつり、ぽつりなんて生易しいものじゃない。
サァアアと音を立てて降り始めた雨粒は、すぐに雷まで交えて狂乱を奏でる。
――ガァアアン!!
「うわぁあああああっ!?」
「きゃぁああああああぁああ」
一瞬の発光ののち、轟音。
ばしゃりと響いた嫌に大きな水音は、ぎりぎりの緊張状態で戦っていた人々の心を折るには十分すぎた。
「あ、ああ、……あぁあ!!」
「駄目だ、もう駄目だおしまいだッ――!?」
「いけない!
第一……に回って……さいッ!!」
指揮の声も雨音に、雷雨に掻き消されて満足に届かない。
大盾を構えている人々は見た。
自らの眼前で、じゅうじゅうと音を立てながら雨水を赤く染め、伸び上がる魔物の姿を。
「あぁぁぁあああ!! そんなぁ、そんなことって……!!?」
「うわぁあぁああ!! 神様、あんまりです!!?」
「ちくしょぅぉぉあぁぁああああ」
蹲り、異様を見上げ、泣き叫ぶ者たちの姿を見て――クロウは駆け出していた。
何故かはわからない。わからないが、身体が疼くのだ。
もう無理だ、やめておけ、どうせ無駄だと冷静な冒険者としての心が喚く。
しかし同時に、彼らをこのまま死なせてなるものかと、心のどこかが叫ぶのだ。
「俺はッ! "月影のクロウ"だぁッ!!」
放り出された大盾を掴み、今まさに無防備な人々に襲い来る触手を迎撃する。
冒険者としての自分の心が、やれやれと己の愚行に呆れ果てる。しかし構うものか。
今、間違いなくこの俺は格好いい! はずだ!
「ぉぉおおおおおおおおおおォォ――!!」
雨に濡れ、鈍く光る大盾は驚くほど軽かった。雨で滑りそうになる盾を両手で支える。
気合いを口から迸らせながら、クロウはニヤリと笑った。
もし口があったなら、レッド・スライムも嗤っているかもしれない。人間の無謀な行動に。冒険者の迂闊な選択に。
それでも。身体が動いてしまったものは、もう仕方がないのだ。
「――ぁああああああぁあああああああ!!」
格好良さの欠片もない雄叫びを上げ、ガツンガツンと叩き付けられる触手を二度三度と迎撃する。
まだ何人かで防御陣形は機能しているが、瓦解した壁では全ては防げない。
「ひっ、ぅぁ――!? うわぁああああああッ!!」
防御を抜けた触手が触れた紫の鎧をかなぐり捨て、大盾の部隊がまた一人欠けた。
雨脚は強まり、レッド・スライムは”月影のクロウ”たちを睥睨するように、より高く伸び上がる。
ああ。これは、敗けの気配だ。
彼が何度も味わった、苦い味。その前触れだ。
だが今回は生きて逃げられるかどうかも怪しい。
冒険者らしくあろうとした男は、熱気にアテられてらしくもなく最後の最後で判断を誤った。
ぶすぶすと溶けて消えて行く鎧の残骸がクロウの横目に映る。
ああしてフェッチャーも、ルーダーのやつも消えたのか。
怖ぇ。
滅茶苦茶に怖えぇよ。
目を開けているのも困難な大粒の雨の中、クロウはレッド・スライムを睨み付ける。
防御隊は隙間だらけで、正面や頭上からの攻撃は大盾で迎え撃つとしても、大盾同士の隙間や横からの攻撃は、もはやどうしようもない。
ああ。馬鹿やっちまったなぁ。
そんなふうに苦笑いをするしかない彼の前の大盾、そのまた前で、レッド・スライムは大きな触手を振り回す。
次は横からの薙ぎ払い。
ああ。これはどうやら、躱せなさそうだ――。
赤い鞭が空を切り裂き、瓦解した防御隊へ、クロウへと迫る。
馬鹿やっちまったけれども。怖くて仕方がないけれども。
最期の瞬間が迫りつつあるなか、それでも彼は不思議と心が穏やかだった。
ギガガガガンッ
「――ッ!!?」
諦めを顔面に貼付け、最期の瞬間を待っていたクロウ。
その彼の持つ大盾の、左右にぴたりと隙間無く差し込まれた大盾によって、触手の攻撃はまたも防がれる。
肩で息をしながらも必死に盾を支える獣人の姿が、そこにはあった。
「ハッ――!」
知らず、笑みが溢れる。
なにをやっているんだか。やはり獣人はバカだ。
笑う。クロウは笑う。獣人たちも笑う。大馬鹿者たちが笑う。
雷の轟音に掻き消されながらも、彼らは笑った。
オオ、オォォオオオオオゥオオオオオオオォォオオンン……!
目も口もないレッド・スライムが、不快気にその身を捩り、雄叫びをあげる。
風鳴りの音が偶々そう聞こえただけかもしれないが、クロウにはその音がある種の断末魔のように聞こえた。それは、魔術に素養のないクロウにもわかるほどに膨れ上がる魔力を、背中に感じたからかもしれない。
――ある者は、見た。
雨が、風が、音が、魔力が。ただ一点、中央に立つ者たちに向けて渦を巻くように収束していく様を。
――またある者は、聞いた。
屈することを拒む、叛逆の祝詞を。
――そしてある冒険者は、眼前の脅威から一時目を逸らすという愚行を犯し、目撃した。
渦の中央には、あの魔術師と、女神の姿。二人の重ねられた手と手を、夥しい白い光粒が包み込んでいる。
ああ。実に――
「美しい……ッ!」
羨望にも似た、感嘆の呟きが漏れる。
二人の結ばれた手と手には光が。
また反対の手はそれぞれ天高くに突き上げられていて。
束ねられた魔力が、何らかの魔術としての形を成したのだろう。
皆の見守る前で、雨と雷を撒き散らした雲が引き裂かれ、空にぽっかりと大穴が開いた。