僕らの魔道スライムトラップ そのに
「第一防御隊、前へ!」
ジレットの指揮に従い、大楯を構えた男たちが一糸乱れず前進する。
大楯同士は重なり合うことはあれど、隙間を開けることは許されない。
一糸乱れぬ動きが彼らの命を守るということを、他ならぬ彼ら自身がよくわかっている。
彼らの身を包む紫色のエムハオ革の鎧だって、あくまで保険でしかないのだから。
「状況はどう?」
「ああ、もう奥方様とイチャつくのはよろしいので?」
様子を尋ねた僕に、ジレットから強烈めな嫌味が飛んで来る。
魔力光を作り出したあとのやりとりを、しっかり目撃されていたのだろう。
「――嫌味を言う余裕があるくらいには順調ってことで受け取っとく」
それは後の楽しみにとっておくことにしたよ、くらい言い返せたらいいのになぁなんていう風に、僕はできもしない反論を思い浮かべる。
そんな僕を、ジレットは口の端を釣り上げて笑った。
「作戦第二段階は滞りなく。
というか効きすぎですな、ええ。
レッド・スライムの表面はあらかた、あの『太陽』で硬化し続けています。
おかげで思ったほどの反撃がありませんよ」
「そりゃ良かった。
危険はできるだけ少ないに限る」
「ええ、まったく」
頷くジレットの眼光は、それでも片時もレッド・スライムの『河』から逸らされない。
油断は禁物、そういうことだろう。
表面を"硬化"させたスライムは、河岸にいる者たちに触手を伸ばせない。
"硬化"していない下部はでろりでろりと流れて行き、今も業火で炙られ続ける超大釜の中へと没していく。
『シャロン、そっちはどう?』
『はい。あなたのシャロンです。
こちらは、順調そのものです。
想定以上にレッド・スライムの蒸発速度が早いので、穴を埋め立てられる心配もないでしょう』
『それはなによりだ』
『ただ、この場はあまりに暑すぎるせいで、他の人たちがヘバってしまいました』
続くシャロンの報告に、僕の頭が無理解を示す。
あのあたりに誰か配置していたっけか。
『他の人?』
『まだ手が空いていた防御隊の男性など、です。
護衛、だとか仰っておられましたが』
『ああまたそのパターン……』
僕とシャロンの戦闘風景や、木材調達の風景を見ていた者たちは、もはや口が裂けても『シャロンの護衛を』とは言い出すまいが、それ以外の者もまだ少数ながら存在する。
シャロンがとびきり可愛いのは事実だし、こういった非常時こそ男らしいところを見せたくなってしまう気持ちもまあ、わからなくもない。
ただまあ、どんなに良いところを見せたところでシャロンが僕以外に靡くことなどあり得ないけどな!
とはいえ、そんなところで人員が削れてしまうのは問題だった。
防御隊は第三まで組織しているが、再編の必要があるだろうか。
今の状態だと防御隊は必要なさそうにも見えるけれど、河べりからレッド・スライムが溢れ出すようなことがあればそうも言っていられなくなる。
そして直接の交戦とならずとも、防御のために気を張り詰め続けているというだけで、かなり精神的に消耗することだろう。
皆、昼からあれだけ準備で駆けずり回った上での慣れない戦闘なのだ。
そのうえ、側では業火が燃え盛って熱を振りまき、直上からは目も眩まんばかりに白光が降り注ぎ続けているのだ。彼らの疲労の蓄積度合いは推して知るべし、である。
「言っている側から来ましたよ。
防御隊構え! 左岸、上方からの横薙!」
ジレットが短く指示を飛ばす。
それに続いて、振り上げられたレッド・スライムの触手が"太陽"で硬化しながらも防御隊へと襲いかかる。
ギィン! ガガン!!
複数の硬質な音を撒き散らし、防御隊に弾かれたスライムの破片はあたりに散らばり、じゅうじゅうと草木を溶かす。
白い煙とともに異臭が放たれていることだろうが、とっくに嗅覚は麻痺している。きっと他の皆も同じだろう。
散発的に上がる攻撃をいなすこと数度。周囲の地面が焼け焦げて異臭を放ちはするものの、ここまでのところ大きな乱れは見られない。
第二防御隊に切り替わってからも、しばらくは安定した状態で戦場は推移する。
レッド・スライムを煮尽くしている穴からは赤みがかった煙が上がり続けている。
まだまだレッド・スライムの『河』には終わりが見えないが、火を燃やし続けるための木材もシャロンが張り切った結果かなり余分に用意されている。
このままで行けば問題ない。
そんな僕らをあざ笑うように――『河』の上流のほうから悲鳴が上がる。
間違いない。魔物ではなく、人のものだ。
「オスカーさんっ」
「ああ。行こう、シャロン。
――ジレット、ここは任せる」
やれやれ、とばかりに瞑目するジレットに後を託すと、手早く"肉体強化"を自身に掛ける。
紫の燐光が薄く僕を包み込むのを確認すると、僕とシャロンは互いに頷きあって走り出した。
――
ルーダー = ストラウトは小物である。
それは彼自身がよくわかっていたことだった。
身体は大きく顔もいかついものの、その性質は小心者。
そんな彼が商会でもナンバーツーの座につけたのは、ひとえにフレステッド商人、商会のナンバーワンの人物に引き立ててもらっていたからだ。
フレステッドは辣腕であり、柔和な表情からは想像もつかないほど狡猾に、かつ精力的に商売敵を出し抜き、利益をあげてきた。
そのくせ自らの商会を構成する配下に対しては情に厚く、ふたつの顔をうまく使い分ける人物であった。
フレステッドなくしては商会は今の規模に成長することなどなかっただろうし、名実ともに彼がナンバーワンであることは疑いようもない。いや、疑いようもなかった。
「な……んで」
フレステッド商人の最期の言葉は、疑問だった。
何故剣が突き立てられているのかわからない。
何故その人物から切られねばならないのかわからない。
しかし、それは剣を持つ人物も同じだった。
「お、お、俺は……なんで」
何故、恩あるフレステッドを切ったのか。
わからない、わからない、わからない――!!
何か、熱に浮かされたような気分を覚えている。
全身を包む全能感を覚えている。
彼が――フレステッドがいるから自分はナンバーワンになれない、そんな思いを抱いていたことを覚えている。
「あ……あぁあぁっ……!?」
剣を握る指先から、熱がサァッと引いていく。冷めていく。凍えていく。
何故、何故、なぜ――!!?
揺れる。
足元が揺れる、世界が揺れる。
「ち、違う、おれ、お、俺じゃ――」
俺じゃない。
こんなことがしたかったわけじゃない。
「あ、あぁ、あぁああ……!」
絶叫が迸った喉に、海水が流れ込み、咽せ返り、混濁する――。
俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない。
曖昧な意識のなか、小物たる自己が絶叫を続ける。
『誰が悪いのでしょう』
声。
声が響く。どこかで聞き覚えのある声が。
俺じゃない、俺じゃない、悪いのは俺じゃない――!
肉を断つ気持ちの悪い感触が――俺じゃない。
くぐもった悲鳴が――俺じゃない。
生暖かい朱の鉄の匂いが――悪いのは、俺じゃない。
『もしかして操られているのかもしれません』
そうだ。
その通りだ。
彼は判然としない意識で、声に賛同する。
『悪いのはそいつだ』
そう、そいつが悪い。
俺じゃない。
『そう――たとえば強力な魔術師、とか』
囁き声はするりと胸の穴に入り込む。
ぽっかりと空いた、昏い穴に。
――
シャロンとともに『河』から少し離れた森の中を走る。
あまり近づきすぎるとレッド・スライムの触手が飛んで来るためだ。
「グル……ァ?」
威嚇の声もあげられないまま、たまたま眼前に躍り出てきた魔物の胴と首が永遠の別れを告げる。
断続的に河上からは悲鳴が上がり、猶予は無いと思われる。
掛け声すら無しに、前をゆくシャロンにねじ切られた魔物が何だったを確認する間も惜しんで、僕らは森の中を駆ける。
下流に僕らふたりでこしらえた『太陽』の光はもうほとんど届かず、明かりの乏しい森の中は走ることに全く適していない。
木々が、垂れ下がる蔓が、木の根が、深い草が、泥が、砂利が、岩が。全てが進行を妨げる。
しかし僕の先導をするシャロンには危ない箇所の全てが見えているようで、後から続く僕の通りやすい道を、全く速度を落とすことなく選択する。
枝を、蔓を間断なく払い、時折魔物もなぎ払いながら進むシャロンに、僕は単に走って追い縋るだけだ。
しばらく走ったところで、遠目から『河』の向かい岸に数人の人影を認める。
「ここにきてルーダーの陣営か……!」
他の人間といえば彼らしかこの島にはいないので、走り始めた時から予想していたことではあるけれど。
しかし、どうも様子がおかしい。
いきなり未知の魔物と遭遇した、というだけではない。どうにも鬼気迫る様子を感じる。
片腕のあった場所から白煙を上げ、悲鳴を迸らせる海賊。
踊り猛るレッド・スライムの触手によって灼け爛れ、潰れた肩からは鮮血がとめどなく滴り落ち続ける。
「ぃ……ぎゃぁああぁあああああああああああああああああああぁあ!!?」
耳を塞ぎたいほどの悲鳴が、痙攣する口から発せられている。
今もレッド・スライムの断片に傷を灼かれ続ける男の命運は、もう長くないだろう。
そのような状況にあっても、どこか目の焦点が合わないルーダーは、どこかうっすらと笑ってさえいるように見える。
獣人たちが逃げ惑い、森の中で震えている。
白煙を、絶叫を上げながら今にも力尽きんとする海賊の男がいる。
だというのに、ルーダーは口の端に泡を吹きながら、その光景をただ眺める。
「森の中に戻れ!
こいつは危険だ!」
声を張り上げる。
海賊の悲鳴に遮られながらも、僕の声は正しく向こう岸には届いていよう。
しかし。
「逃げェてんじゃねェ……俺が、俺が、俺俺れれれ、許さねェから!?」
狂気じみた目線で唾を撒き散らし、ルーダーが左手を掲げる。
同時に、森の側で震える獣人達が首元を掻き毟る。
ゼヒュ、ゼヒュッと浅い息を漏らし、一人、また一人と倒れていく。
「あいつ、"隷属の首輪"を――ッ!」
獣人たちの首に据えられた、無骨な首輪。
魔道具"隷属の首輪"は持ち主の命に従い、獣人たちの首を締め上げる。
意味がわからない。
そうすることに、なんの意味がある。
「魔術師ィ、おあ、あ、テメェのせェでフェ、ステッド、死んだ! 殺した! お前が!!」
何を言っているのか。
フレステッド商人を殺したのは、当のルーダー自身のはずだ。
『河』から盛り上がった触手が地面を薙いでも、ルーダーは薄ら笑いをやめない。
まともじゃ、ない。
《薬物『皇帝』中毒症状》
"全知"から齎された情報が決定打だ。
以前、アーニャとふたりでガムレルに流通する薬物、その流通経路を潰したことがあった。
その時の薬が、皇帝の名を冠するものであったことを、僕は思い出す。
そして同時に、もう彼とは対話はできないと理解する。理解した。
昨日から、彼とはどこか会話が噛み合わなかった。
居丈高であり、何かに怯え、尊大であり、小心者。
それらの噛み合わない言動は、すべて薬物のもとに集約される。
「ッ! 鬱陶しい!」
こちらにまで伸ばされるレッド・スライムの触手を"剥離"で硬化させている間に、ルーダーは矢を構えていた。
手は震え、定まらない目線で、こちらに向けて矢を構える。
「アレを、アレは!? どこだァ?
お前ェ、お前がいるから全てすべてすべてェェえ……!」
口角泡を飛ばし、何を見ているか判然としない目線で、彼は意味不明なことを口走る。
ルーダーと僕との射線上にザッと割り込んだシャロンの肩越しに、その狂気の目を見る。
淀み、どろどろに濁り切った目をせわしなく動かすルーダーは、意味のない奇声を喚き続け、矢を引き絞る。
しかしその矢が放たれることは、なかった。
いよいよ放たれるというときに、片腕を失い、空気を求めて口をぱくぱくさせていた海賊の男が、ルーダーに組みついたからだ。
「な、ェあ?」
矢が刺さろうとも、海賊はビクともしない。
ルーダーと一塊になったまま、海賊は『河』の縁へとその身を投げ出す。
「飯の恩は、返したぜ……!」
最期に壮絶な笑みを僕らに残し、耳にこびりつく悲鳴を置き土産に、絡み合ったまま男達は赤い『河』に溶けて、消えた。