僕らの魔道スライムトラップ そのいち
レッド・スライムの迎撃準備を終え、一通りの打ち合わせを終える頃には太陽は西の空へと赴こうとしていた。分厚い雲が空を覆っているために、もとより周囲は薄暗い。
これ以上暗くなると連携にも支障をきたすし、思わぬ事故の可能性も上がる。魔物からも奇襲を受けやすくなるだろう。
かといって、作戦決行を明日にして手遅れになるなんてことがあったら。
後から悔やんでも時はもう戻りはしない。――いくら悔やんでも僕の両親やフリージアが二度と還らないように、"全知"をもってしても時の流れは覆らない。僕達人間には不可能な領分だ。
《第3階位"刻"の神名を用いれば限定条件下で可能》
――思案に耽る僕に、"全知"からの訂正が入った。思えば、この感覚も久しぶりのものだ。
ただ、そんな神名は持ち合わせてはいないし、持っていそうな知り合いもいない。
僕らはいつも、持ち合わせた駒で勝負するしかないんだ。だから――この話はお終いなんだよ、"全知"。
ちらりと脳裏に『勇者』の姿が掠めるけれど、彼もそんな神名は持っていなかったし、今はどこで何をしているやら。
だから。そんな超常を司る力を持たない僕らは、これ以上決行時間を遅らせるわけにはいかないのだ。
顔を上げて見渡すと、僕の動向を見守っていた多くの者達と目が交錯する。
皆を代表し、白いマントに眼鏡の男――ジレットが僕に声を掛けてきた。
森へ入り、レッド・スライムと遭遇し、現場を指揮した男のマントは泥や草木によって今日一日で随分傷み薄汚れてしまっている。
「やるんですね?」
「ああ。やろう。
ジレット、みんなに……」
「ハウレル殿が声を掛け、ハウレル殿のもとに集った者達なのです。号令を出すのはあなたの仕事ですとも、ええ」
僕が頷きで返すと、何故かジレットは首を横に振り、そんなことをのたまいやがった。
その指摘は至極もっともな話ではあるのだけれど、僕はこういう場面が得意ではない。
それに――協力を願っておいて今更な話ではあるのだが、悩みというか、不安の種が、僕の内には燻っていた。
僕は。力を貸してくれる彼らを死地に差し向けや、しないだろうか。
できる限りの準備はしたつもりだ。しかし、それだって『限られた時間の中で』という但し書きが付く。
不安要素はいくらでも出てくる。退けないのは確かなのだけれど、踏み込むのもまた躊躇われるのだ。
逡巡している僕を、傍の蒼い瞳が見上げて優しく背中を押すように言う。
「大丈夫です、オスカーさん。
皆さん死にに行くつもりなんてこれっぽっちもありませんし——それに、世界を救うのでしょう?」
少しも僕のことを疑っていない蒼い瞳に射抜かれて、その優しい声に叱咤されて、僕はかぶりを振った。
「……そうだな。そうだった」
『勇者』やフリージア、骨になった多くの人々が頭を絞り、苦悩し、血反吐をはいて守った世界を守る。
シャロン、アーニャにアーシャ、ラシュ。新しい僕らの家族が生きる世界を。
ヒンメル氏たち、ゴコ村のみんな。新しい友人に——ええい、カイマンの顔を思い浮かべると何故だか顔のまわりがキラキラしたり、無駄にウィンクを決めてきたりするので鬱陶しいことこの上ない! 散れ! カイマン散れ!
ともかく! この世界を守るために。僕は――僕らは戦いを決意したのだ。
決めたからには、やり遂げる。やり遂げてみせる。
僕とシャロンが作戦の要なのだ。皆の不安を和らげるためにも、僕自身が不安な顔をしているわけにはいかない。
ただ、そうは言ったものの良い前口上なんて浮かんでは来ないのだ。
これまで、慣れない相手――とくに多人数を相手に語りかけるときに、シャロンやカイマンなんかに頼って来たツケである。
だから僕は視線を一人一人に巡らせて、ただ一言を伝える。
「勝つぞ」
彼らにとってはなんでもできる、器用な魔術師の不器用な言葉に呼応して。
鬨の声が、浜辺に轟く。
――
「全員配置についたようです、ハウレル殿!」
少し離れた位置にいる僕のもとへ、ジレットが声を張り上げた。
僕は息を大きく吸い込むと、足元に敷設した魔法陣を励起する。
足元で魔法陣が紫のスパークを撒き散らし、地面を"剥離"――もとい爆砕する。
"剥離"魔術を伝播させていく魔法陣は、僕らの作戦領域にまでレッド・スライムを流し込むための筋道だ。
ズッ――ドドドドドドド!
連続して爆散し、地面は深く抉られていく。そしてその溝に沿うようにして――それが、姿を現す。
「来ました! レッド・スライムです!」
溝の縁から森のほうを観察していたシャロンが、僕の近くまで戻りながら報告を飛ばす。
土を浸食し、掘り進んでいたレッド・スライムは、突如開けた溝に沿って抵抗なく流れ込んできた。
「よし、第一段階は成功だな」
「はい。あとで分枝したレッド・スライムが居ないかどうかを探索する必要はありますが、現時点では問題は認められません」
僕らの眼下、深く抉られた溝に沿って赤が驀進していく。
崩落した地面と、その地中・地表に潜んでいた虫や草なんかをジュウジュウと灼く異臭が、少し離れたここにまで漂ってくる。
「グルゥゥァアアアアアア!! アァア……!? グギャゥルァァ……! アァァ……」
地面の抉れる轟音を聞きつけたと思われる、不幸にも攻撃範囲に入った犠牲者なんかにも触手を伸ばしながら、レッド・スライムは疾駆する。
朝頃の僕やシャロンの大暴れに引き続き、森の木を切り出すときに寄って来た魔物たちも軒並みシャロンに平定されたという。
この騒動で滅される魔物も1匹2匹なんてもんじゃないだろう。
今日一日で、この島はかなり平和になったのではなかろうか。もっとも魔物たちにとっては、たまったものではないだろうが。
レッド・スライムが作戦通りに流れ込んできていることを確認した僕とシャロンは、浜辺へと取って返す。
あまり、ぐずぐずとしている時間はない。
僕らが戻る先の浜、その手前では熱気が立ち込めていた。
会敵を、今か今かと待ち構える者たちの熱気はさることながら、一番の熱の原因はもっと直接的なものである。
レッド・スライムが流れ込む終点に、待ち構える形で据えられているのは巨大な穴であり、そしてその穴の表面を覆う鉄板だ。
薄く伸ばされた鉄板は、海賊船の衝角のなれの果てであり、足りなかった部分は"倉庫"から取り出した鉄のインゴットをこれでもかと使っている。
その鉄板の下では、赤々と炎が燃え盛っている。燃え続けている。
それは焚き火なんて生易しいものではない。業火と呼んで差し支えがないものだ。
ゴウゴウと燃え猛る炎の渦は光と熱をこれでもかと撒き散らし、穴からほど近い場所にいる僕らの肌にもじっとりとした汗が浮かぶ。
「あんまり近づくと危ないぞ」
吸気口を覗き込んでいた男に注意を飛ばす。男はビクりと肩を跳ねさせると、そそくさと持ち場に戻って行った。
地下では、設けた魔道具によって次々に木材が焼べられ、新鮮な空気が送り込まれている。物の燃焼には新鮮な空気が不可欠とのことで、送風用の魔道具を作ってやると目に見えて炎の威力が上がったのだ。
その反面、地下は人間の居られる環境ではなくなってしまったが。
鉄板の中に落ちた木の葉が瞬く間に灰になる。
そんな様子をじっくりと観察している暇はない。
いますぐにでも戦端は開かれんとしている。その証左に、待ち構える者たちの視線は一点に固定されている。
「あ、き、来た。本当に、来た――!」
「そうか、あれが。あれが俺たちの敵かッ!」
「ぬめぬめしてるぅーっ!!」
即座に戦場と化した一帯に、様々な声が飛び交う。
土煙を上げて迫り来る異様に、混乱が起こるのはある程度仕方がないことだ。
備えていたとは言えども、彼らは日頃から戦いを生業とする者たちではないのだから。
近付く。近付いてくる。秒を刻むごとに近付いてくる!!
生き物を死滅させる異形が。
世界を破滅させる異物が。
寄るもの全てを焼き爛れさせながら、迫り来る――!
熱気によるものか、はたまた恐怖によるものか。
ある者は汗をびっしょりと滴らせ、ある者は口内がカラカラになっていることにも気づかない。
広く抉られた地面を埋めるほどに。
多量かつ勢いよく、流れくるレッド・スライム――もはやその場所は溝ではなく、レッド・スライムの河と成り果てている。そんな光景に、誰もが瞠目し、表情を引き攣らせる。
しかし、彼らもただ指を咥えて見ているだけでは、ない。
「い、いまです! 魔術師さっ……ハウレルさん!」
ようやく上がった合図に、僕は傍のシャロンを見やる。
掲げた僕の左手に、彼女が右の手を重ねた。白く、柔らかな手だ。
指と指が絡み合い、それに併せて彼女は優しく微笑む。
僕らの腕で輝く腕輪が、カツンと硬質な声を上げる。
シャロンから視線を引き剥がし、僕は迫り来る異形を睨め付ける。
赤い。生物を溶かす、異形の赤。
奴には奴の――レッド・スライムなりの考え、レッド・スライムなりの正義があるのかもしれない。考える頭があるのかどうかは定かではないが。
しかし、僕らにとって。生きとし生ける者にとって、お前は有害だ。
だから僕は、僕らは僕ら自身のために、お前を滅する。
――狙うは異形の直上だ。
僕の魔力が、触れた指先を通じてシャロンへと流れ込み、彼女の魔力と混じり合い僕へと還ってくる。
ふたりを魔力が循環し、回転し、溶け合い、混じり合い、一つとなって、流転する。
魔力の高まりは感じるし、業火の燃え猛る音、レッド・スライムの迫り来る音も、依然として変わりないはずだ。
だというのに、僕の心の内は静かなものだった。
風が凪いだ晴れの日のように、ただ指先から伝わる彼女の熱だけを感じている。
言葉はいらない。必要ない。
示し合わせたわけでもないけれど、ふたりは同時に口を開く。
――それはまるで、祝詞のように。それはまるで、歌うように。
僕とシャロンは、唱和する。
「「"日輪の恩恵よ 不浄を清める天の光よ 闇を払いたまえ"」」
重なり合った声は、狙い違わず、迫り来るレッド・スライムの直上に太陽のごとき輝きを顕現した。
かつて、地下研究所の一階層を染め上げた白。そのとき以上に強力に、凶悪に、鮮烈に。曇天に閉ざされた、薄暗い世界を切り裂く白光。
ある程度離れた場所にあっても、その光は目に焼きつく。
「うぁぁあああああああすっげぇえええええ、目が痛ぇええええ!! うわははははは!」
「ちょっ、うわっ、白い! 真っ白い!」
「なんだこれ! なんだこれうわぁ!」
ぎゃいぎゃいと喚く声が木霊する。
そして、レッド・スライムが"硬化"するビキリバキリという音も、阿鼻叫喚にも負けずに響いて来た。
「だから直接見るなって言ったのに……」
シャロンが皆に説明したときに『部屋を明るくして離れて見てください』なんてことを言うので、危険性が薄まってしまったのかもしれない。何人もが『部屋?』と首を傾げていたもんな。
「いいえ。直接見ていなくても、ああなると、思います。
とと、――すみません」
少しふらつくシャロンを抱き止めると、彼女は目を伏せ頬を染める。
そんなシャロンの様子に僕は俯き、表情を曇らせてしまう。
「……ごめん。負担をかけた」
「いいえ。謝らないでください、オスカーさん。
あなたがやると決めたから、ではありません。
この先もあなたと共に在るために、私がやると選択したのです」
僕の腕の中で、シャロンははっきりと自己主張を返す。
僕を見上げる蒼い瞳、そこに宿った確たる意志に、僕は言葉を詰まらせる。
シャロンは、人間らしく成長を遂げている。
出会った頃の彼女と比べると、美貌はそのままに、その内面は大きく変貌していると言えるだろう。
それは彼女が語った通り、ひとえに僕と共に在るために。そう思うのは、きっと僕の思い上がりではあるまい。
彼女は少し背伸びをすると、僕の頬に柔らかな唇を触れさせ――そして、名残惜しげに体を放す。
「さぁ、オスカーさん。
さっさとすべて片付けてイチャこらするためにも、もうひと頑張りいきますよ!」
「最後の発言でわりと台無しに……。
いや、そうじゃないな、うん。
がんばろう、シャロン」
「はい!」
照れ隠しも多分にある苦笑いを浮かべる僕に、その蒼い瞳を弾ませて微笑みかけるシャロン。
白光が後光のように照らすなか、彼女は今日も天使のように輝いていた。