僕と彼女と仲間たち
浜まで戻るまでの道すがら。
適宜地面に小さな穴を開けてレッド・スライムの進路を確認しつつ、僕らは重い足取りを地面から引き剥がしながら無理矢理に前に進めた。
「認めざるを得ませんね。
たまたまなのか意図してのことかは不明ながら、レッド・スライムは確実に海に向けて進んでいるようですな」
ジレットがため息とともに、確認された絶望的な状況を吐露する。
レッド・スライムが海に到達する。それはきっと、悪夢のような光景となるだろう。
「はい。それが一時間後か、一日後か、一年後かはわかりません。進行速度まではわかりませんでしたから。
しかし、今すぐという可能性はあったとしても。
十年以上掛かるという可能性は、おそらくないでしょう」
レッド・スライムの"対水増殖"スキル。これは、水分に類するものを得たら自身の身体として取り込み、増殖するスキルである。
"全知"から詳しく情報を引き出したところ、水に触れた瞬間に増殖するのではなく、隣接した水の素性が徐々にレッド・スライム化していくという性質のようだった。そして、増殖できる限界のようなものは無いらしい。
水があるだけ無限に増える、生物を自発的に溶かす敵、ということだ。
海は、ほぼ無限とも言えるほどの巨大な水溜まりである。
レッド・スライムが海に到達した時点で、僕らの負けだ。
時間差こそあれど、海、そして海に繋がる川は、やがて全てがレッド・スライムで埋め尽くされることになるだろう。
もし、そんなことになったら。
ヒトだけじゃない。生き物全てが、滅びに瀕することになる。
レッド・スライムは、触れた生物を溶かす。その上、かなり攻撃的だ。
海が全てレッド・スライムになったとするならば、海に棲む生物は全滅するだろう。
そうなれば海や川からの資源は途絶える。ラシュの好物である魚だって手に入らなくなるだろうし、塩の入手も困難になろう。
農耕や放牧にだって支障をきたす。なにより、人間をはじめ生物は水なしでは生きていけない。
内地に残った生き残り同士で、スライム化していない貴重な水を争奪する骨肉の争いとなることは、想像に難くない。
「――ここまでは、まだ来ていないみたいだ」
ほぅ、と息を吐つく僕。どうやら準備の時間くらいはあるらしい。
森と浜を繋ぐ、砂と土が入り混じった場所からはレッド・スライム侵攻の形跡が見られなかった。
とはいえ、全く予断が許される状況ではない。それだけは確かだ。
「未曾有の大災害を、文字通り水際で抑え込むには。
ここで叩くほかない、ということですね、ええ」
ジレットが天を仰ぐ。
どこまでも高い蒼穹に見下ろされる彼の様子が少し不穏だったからだろう。
幾人か、浜から様子を見に来た者たちが心配そうに僕らのほうを見やる。
そのうちの一人が意を決して、両手を抱きかかえながらおずおずといった調子で声を発した。
「あの……魔術師様、冒険者の人は見つかりましたか?」
「いや、えっと……」
僕が言葉を探していると、彼らは一様に不安そうな表情を浮かべた。
いや、事実として不安なのだ。彼らは無力で、何もできないことを身に染みているからこそ、不安で仕方がないのだ。
自分には何もできない。ただ待つだけしかできず、しかし待っていても良い方向に向かうとは限らない。
その気持ちは、よくわかる。他ならぬ僕には、痛いくらいに理解ができる。
だからこそ、僕は真実を伝える。
「彼は、すでに亡くなっていると、思う……」
シャロンが持っていた鉄の板を僕の手のひらにそっと置く。
『ムム = フェッチャー』と刻まれた、小さな板。
目にした者たちから、小さく悲痛な呻きが漏れ聞こえる。
「そ、それで、その。
冒険者の人は、魔物にやられたんですか?」
「魔術師様、ここは安全なんでしょうか!?」
「俺は――俺たちはどうしたら!?
戦い慣れた冒険者が、死、死ぬって……」
「魔術師様、どうか魔術師様、私はっ……! 私はどうなっても構わないです、だからせめて私の子どもだけは助けてっ……」
悲しみに、恐怖に、悲嘆に。
取り乱す者たちの姿に、なんだなんだと様子を伺いに来た者たちにも、瞬く間に嘆きは伝播する。
この上、まだ未曾有の事態に備えなければならないなどということを伝えなくてはならない。
「民衆というものは、強くないんですよ、ハウレル殿。
ぎりぎり保たれている均衡にとっては、事実は重すぎる」
取り乱す者たちを苦い思いで見守る僕の横で、ジレットは薄く笑う。
連鎖する悲嘆の中にあって、皮肉げに口の端を歪めて天を仰ぎ。笑う。
「苦しみこそが、人間を人間たらしめる。
苦しみから逃れるために躍起になり、互いを利用し、ときに裏切る。
実に、馬鹿げた性質です、ええ。しかし、それが人間というものなのです」
それは、僕への当てつけでもあるのだろう。
できる限り、全てのものを救いたい。それは僕の悪癖だ。わかってる。
フリージアに痛い目に合わされてなお改まらない、歪んだ僕の性質だ。わかっていて治らないのだから、救えない。
この島に来てからだってそうだ。
獣人に、海賊に、治療を施し、食物を分け与えた。
表立っての不満をぶつける者はいなかったが、内心穏やかでない者だっていただろう。
請われればルーダーだって僕は助けるだろう。船主を殺したのがルーダーだと識っていても。
彼は――ジレットは僕に伝えた。群衆には助けるほどの価値がない、と。
しかし。価値がなくとも。僕は彼らを助けたかった。
だって。かつて価値のない自分を助けてくれて、そして今なお隣にあり続けてくれる天使に対して、恥ずかしいじゃないか。
だから。だからこそ。
「僕はそれでも彼らを助けたいんだ。
それに、重すぎる事実でも、多くの力が集まれば耐えられるかもしれない」
「夢見がちなことですな。
小さな力をいくら束ねたところで、目の前の――文明全てへの脅威の役には、まるで立ちますまい」
僕らのどこか不穏なやりとりを、いくつもの目が射抜く。
不安に、悲観に、不満に、苛立ちに、揺れる瞳の群れ。
《死にたくないよぉ……》
《もういやだ》
《帰りたい》
《勘弁してくれ》
《死にたくない、死にたくない、死にたくない》
《怖い》
《助けて》
《お願い、助けて》
《どうしてこんなことに》
彼らの目を視ているだけで、僕まで不安の坩堝に引き込まれそうになる。
それでも。
《大丈夫です。私はいつでもオスカーさんの味方ですから》
傍で僕を見上げる蒼い瞳の前で、無様は晒せないから。
シャロンに頷き返すと、彼女はいつものように微笑みを返してくれた。
「ジレットの言う通り、一人ひとりの力なんて大したことがない。
そしてそれは、僕やシャロンだって同じだ。
多少力があろうと、現状の苦難の前では全く足りない」
「――しかし、諦めたようには見えませんな」
「そりゃもちろん。
大事な人の前でくらい、格好を付けたいのも『人間』ってもんだ。
そういうふうに、僕は思うから」
そんなふうに嘯く僕に、人前であることも憚らずシャロンはぎゅむぅと抱きついてくる。
ジレットはやれやれとばかりに肩を竦めるが、それ以上何も言葉を続けるつもりはなさそうだった。
僕は、多くの目に向き直る。
シャロンが抱きついたままなので、毒気を抜かれたというか、呆気に取られたというか、困惑したというか、そんな感じの目線の割合が多くなっている。
「聞いてほしい。
捜索してた冒険者は、おそらく死んだ」
再度事実を口にすると、再びざわめきが広がった。
しかし、僕はそれを手で制する。つい昨日に、ジレットがそうやって視線をコントロールしていたように。
「それをやったと思われる強力な魔物が、向かって来ている」
言葉を続けると、一気に不安が、不満が、怒号となって噴出する。
ジレットが目線だけで『なんと愚かなことを……』と語っているかのようだ。
今度は僕が手で制したところで、そう易々とは収まらない。僕は声を張り上げる。
「だから! みんなの力をかしてほしい!!」
僕に掴みかからんばかりであった者も、いっそ逃げ出しそうですらあった者も、ピタリとその動きを止める。
僕にしがみついたままのシャロンが威圧を飛ばしたからではない、たぶん。や、やってないよね? シャロンさん……?
ただ、小さなざわめきだけが、いつまでも場に残る。
僕は静かに言葉を続ける。
「僕やシャロンの力だけじゃ、足りないんだ」
ざわめきが再び大きくなり、うねりとなって僕らを包む。
多くの困惑する目に見つめられ、僕の額からは汗が伝う。
それでも、やり始めたからにはやり遂げる。
僕をその両腕にかき抱くシャロンは、僕が途中で投げ出すなどと考えてもいまい。
「魔術師様でも敵わない相手に、どうやって……!?」
「俺は、俺たちは見たぞ!?
魔物の群れが襲いかかってくる中、あなたたちがまるで散歩でもするように片手間で魔物を殲滅する姿を!!
それなのに俺たちが役に立てるとでも!?」
「そんな……そんなの、私、剣を握ったこともないのに」
悲観が、諦観が、入り乱れる。
誰かがなんとかしてくれる。だって、自分には。自分たちには、力がないから。
不安が迫り来るのとあたかも連動するように、青空の端から雲が徐々に張り出してくる。
群衆は、いつも傍観者だ。いつだって、物語の登場人物が――ヒーローがなんとかしてくれると思っている。ヒーローは、決して自分ではない。
それでも。
立ち上がる者が皆無なわけではない。決して。
それは、当人の力のある無しに関わらず、心の強さだと、僕は思う。
そう、たとえば震える足取りで半歩進み出た、僕の眼前の女性であるとか。
「でも……ま、魔術師様は、わた、私の子どもの怪我、な、治してくださったわ。
私、ほ、ほんとになにもできないけど、そ、それでも」
それでも。
何かが変わるのならば。何かの助けになれるのならば。
やせ細り、震える手を必死に抑え付けながら中年女性が言葉を紡ぐ。
顔面は蒼白で、今にも倒れそうなくらいに目を見開いているけれど――それでも彼女は、前へ進み出た。
「俺も――俺も、助けられたぞ。
骨が肘をさ、突き破ってて……ああ、こんなとこで俺は死ぬんだなって思ってさ……せっかく拾った命だけど、恩知らずには、なりたくねぇ」
右手を握り締めながら、男が言う。古傷のようになっている右肘は、確かに昨日僕が"治癒"を施したものに違いない。
「魔術師様と奥様は、パンを下さったわ」
「寒くって死んだほうがマシだと思ってた。でも、温かい食べ物と、温かい毛布をくれた」
「……飯を貰った恩くらいは返そう」
「怖、怖い、怖いよ……!!
でも、ひ、独り残されるよりは……!!」
「今度はアタシらが魔術師様を助ける番ってことだね」
各々が、口々に助力を表明する。
ある者は勇敢に。
ある者はおっかなびっくり。
無論、全ての者ではない。半分にも満たないだろう。
一人では怖くとも、他にも誰かいるのであれば……そういう姿勢を優柔不断と断じることもできよう。
しかし、その気持ちの出処は、やはり善意であるはずだ。
だから、僕は。
案外、人間も捨てたもんじゃあないと思うのだ。
「ありがとう……。頼らせてもらう。
今回の相手を放っておけば、海や川すべてが汚染されて、ことはこの島だけに収まらない。
皆で、世界を救おう」
改めて頭を下げる。
「あああああもうッ!
ッたく、それを先に言えってんだ!」
「俺、国に妻を残して来てるんだ」
「私もだ。もうじき2歳になる娘もいる」
一人、またひとり。僕らの元に、人が集う。
口々に気勢を発する人たちを眺め、傍のシャロンは微笑んだ。
「それじゃ、取りまとめは任せるよ、ジレット」
「はぁ。まぁ、どこかそうなるのではないかと思っておりましたとも、ええ」
諦めたように口の端で笑うジレットは、すぐに表情を引き締めた。




