僕と彼女と赤との遭遇 そのに
シャロンの対峙するそれは、見たことのない魔物だった。いや、魔物と言っていいのだろうか、あれは。
それは、紅く、ぐちゃぐちゃしていた。
まず、僕が開けた丸い穴から、赤い水のようなそれは噴出している。
僕らの背丈のゆうに2倍ほどにまで水柱を上げ、しかしそれがただの赤い水ではないことは一目瞭然だ。
吹き上げられた水柱は、自然の摂理に逆らって、そのまま落下することをしない。
うねうねとその身をくねらせて、べちゃりべちゃりと何本もの細い水流をあたりに撒き散らす。
まるでいつぞやの村で見た、蟲型の魔物の触手のように。
赤い水の触手に触れられた草木は、たちどころに悪臭を放ちながら、ぶすぶすと白煙を上げはじめる。
「まさか。あれ、燃えて――違う、溶けてるのか!?
まずい、駄目だシャロン! 攻撃するな!!」
かつての蟲の魔物はその触手をもって、生き物の血や体液を啜っていた。
しかし、こいつは違う。触手のような水の鞭に触れられた木の根元近くが灼け爛れ、見ている間に腐り落ちるようにゆっくりと大木が倒れてゆく。
「――ッ! させるか! ”結界”!」
明らかに意図を持って幾本もの触手がシャロンへと振り下ろされる。が、シャロンをどろどろに溶かされるわけにはいかない。あわやシャロンへと迫る赤い水を"結界"で堰き止める!
しかし赤が触れたその瞬間に、"結界"はその効力を失った。
ビキリという硬質な音を周囲に撒き散らし、一瞬だけ動きを止めただけで、まるで壁など元よりなかったかのように赤い水が地面を汚していく。
「不発、じゃないよな……。
たしかに手応えはあったのに」
もっとも、シャロンにとってはその一瞬があれば十分だったようで、合間に僕へと投げキッスをした上で、易々と回避行動へと移行する。
赤い触手は迫り来るシャロンを的確に迎撃し、進路を阻み、触手を叩き付けようとする。
あの赤い触手は生きている。少なくとも意思を持って、動いている。
シャロンはそれを、付かず離れずの距離を保ちながら、巧みに回避に徹していた。
《"対有機溶解" "対魔硬化" "対電飛散" "対水増殖"》
なんだこれは。
なんなのだ、これは。
それのスキルを識った僕は絶句する他ない。僕らは赤い変なやつにつくづく縁があるらしい。全然嬉しくない。
「シャロン、やっぱり触るだけでやばそうだ!
全部避けてくれ!」
いなしたり、捌いたりするのにも障りがありそうなので、シャロンにはあのまま回避を続けてもらうしかない。
「はい! しかし長くは保ちませんので、早めに対策か退避をお願いします!」
シャロンをもってしても、触れることなく回避を続けるのは至難。
相手はべちゃりべちゃりと地面を濡らし、細く長い腕のように、何本もの触手をくねらせ、あたりの植物を爛れさせてゆく。
どうりで、のっぺりとした石と、その周囲に植物も動物も存在しないわけだ。
「わかった。絶対に無理はしないでくれ!
ちなみにどれくらい保たせられる!?」
「はい! 2時間が限度かと!」
「十分すぎる……!!」
緊迫した様子のシャロンに叫び返すと、余裕があるんだか無いんだか微妙な答えが返ってくる。
実際、触手の動きは遅くはないが、さほど早いというわけではない。フリージアの光の針さえ躱しまくっていたシャロンに、回避できない道理はないのだ。
ただ触手や地面を濡らす赤い水の量は多く、触れてはいけない領域が広がっていくなかで僕が居る方向へ被害が及ばないようにしようと思うと、シャロンとしては十分な緊迫状態なのかもしれないけれど。
"全知"で視えたのは、あれの持つスキルだけ。名前を判別ができないので、新種の魔物なのか?
いや、でもジレットは何かを知っているようだった。
「まさか、ここも『神成る土地』? いやいや馬鹿な――」
「ジレット、あれについて何か知ってるのか!?
レッド・スライムだとか何とか、さっき口走ってたけど」
ぶつぶつと、考えに没頭していたジレットに呼びかけると、鋭く尖った視線が僕を射抜いた。
なぜかその底冷えするような視線に、違和感というか、嫌悪感というか……そういう光を見た気がして、一瞬僕の体が硬直する。
が、ジレットはすぐにそれまでの調子を取り戻し、直前の雰囲気はまるで嘘のように霧散していく。
「ああ――そうだな、そうですね、ええ。
あれは腐肉粘液、だと思います。
……ハウレル殿は、対象の名を見抜く手段をお持ちなのでは?」
「それで名前が判明しなかったから、驚いてるんだよ。
新種かと思ったら、ジレットは何かを知ってるみたいだし」
「でしたら、私の思い違いという可能性もありますね、ええ。
なにぶん魔物に詳しいというわけでもないものですから」
ジレットは、猛る赤い触手の身悶えを躱し続けるシャロンを目で追っているようだ。
シャロンの姿が霞んでかき消え、その一瞬後には赤い鞭が空間を薙ぎ払っていく。
少し離れているとはいえ、強力な敵性存在を前にジレットは随分冷静なように見受けられる。
「合ってるにしろ違うにしろ、そのレッド・スライムってやつについて知ってることを教えてくれないか。
あれがその近親種なら、特性も同じようなものかもしれないし」
「ふぅむ。道理ですな。
繰り返しになりますが、私も詳しいというわけではありません、そこはお間違えなきよう願います。
――腐肉粘液は、生物を溶かすようです。これはもう、見たままですね、ええ。
力はさほど強くはないはずですが、触れられないのであまり関係はありますまい。
少しの隙間からでも滲み出ることができるので、あのように一枚の石で作られた部屋などでないと封じ込めは難しいのでしょうな」
「スライムだと、いうのでしたら、ひのきの棒で叩けば死ぬくらいに、しておいて、ほしい、ものです! おっとと!」
本数を増した触手を躱しながら、シャロンが声を張りあげる。
こちらの話に入ってくるくらいは余裕があるのは、シャロンだからこそだろう。頭上を薙ぐ触手を屈んで、零れ落ちる水滴を手まで使った横ステップで躱し、足元を狙う赤い水流を飛び越え、正面から迫る鞭を石礫で迎撃する。
ジレットはその様子を冷めた目で眺めたあと、眼鏡を指で押し上げると何事もなかったように話を続けた。
「特筆すべきは増殖性です。水があれば増えます。ほぼ、限りなく。
生物をどろどろに溶かし、その液体を自らの一部として増殖していきます。
これは生物の体液に限らず、どんな液体でもそうなるでしょう」
雨の日に相手取るのは最悪でしょうな、と人ごとのようにジレットは続ける。
詳しくないと言うわりにはピンポイントでその特性を言い当てており、内容も"全知"で視たスキルと反しない。
いったい、彼は何者なのだろう。僕と同じ魔道具技士だと本人は語っていたが、”全知”でも滅多に思考を読み取ることができない。只人であるはずがない、とは思うのだけれど。
いや、今はレッド・スライムの対処が最優先だ。頭を振って思考を切り替える。
「水で増えるってことは、逆に言えば水を奪えば弱るかもしれないな」
「それはあり得るでしょうな。
方法に心当たりがおありで?」
「少しだけね」
舞い踊るように触手を躱すシャロンに誤射しないよう、右手を翳して正確に位置を補正する。
狙うは水柱の上のほう――レッド・スライムの頭、という表現が正確かどうかはわからないけれど。
やることそれ自体も、初の試みではない。
水分を"抽出"して"剥離"する。これも、それなりに慣れたものである。アーニャには好評で、シャロンには不評だけれど。
「いくぞ! "剥離"!」
ガン!
「嘘ぉ!?」
瞠目する。
意気込んで放った"剥離"魔術は、あらぬ硬質な音を響かせて、その効果を発揮しない。
《"対魔硬化": 接触した魔力を硬度に変換する》
レッド・スライムの持つスキルのひとつか!
先に教えてくれ"全知"せんせぇ! と文句を言っても始まらない。
シャロンがあれを抑えておいてくれるうちに、僕がなんとかしないとならないのだ。ジレットは腕を組んで何やら考え込んでいるだけだし。
ただの"剥離"で駄目ならば、僕に残された手段はそう多くない。
"神名開帳"は魔力の消費が大きすぎるし、その後に倒れてしまっては詰みかねない。
となれば――次なる手段は、新技だ。
「"回れ、久遠に往ゆくために"」
詠唱を開始する。
僕自身の魔力、ポーチの中の魔石、それだけでなく地面、空気、島中からさえかき集めるように。膨大な魔力を束ねていく。
太く脈打つ魔力の奔流から、細く糸のような支流に至るまで、その総てを巻き取り、束ね、高めていく。
「"回れ、蒼き義のために"」
束ねた魔力は回転し、『螺旋』を紡ぐ。
レッド・スライムが蛇の鎌首のように触手をもたげ、こちらを認識した。
渦巻く魔力の、螺旋の中心に在るこの僕を。
しかし、いまさら気づいたところで何か行動を起こすには遅い。
剣を抜き放ち、渦巻く魔力を纏わせて振りかぶる。
「"世界を壊せ――"」
ここに詠唱は成った。
ぎりぎりまでレッド・スライムを引きつけてくれていたシャロンが、横っ飛びに飛び退くのを合図にして、振り下ろす。
「"永劫螺旋の――大切断ッ!!!"」
ガガガガガガガガガッ!!
地を抉り、空気を裂き。
剣より撃ち出された魔力の奔流はけたたましい音を徒に、寄るものすべてを切り裂き、分解し、剥がして粉々に砕いていき――
ガツン!!
「うっそだろおい……」
魔力がぶつかったことで硬化したスライムによって、"永劫螺旋の大切断"――僕の新技にして大技――は呆気なく終わりを迎える。
付随して"全知"が伝えてくるのは絶望的な情報だ。
先ほどの単発で行った"剥離"よりも硬化範囲が広く、硬度も高い。
魔力による攻撃を弾くために硬くなっているわけじゃないんだ――あれは魔力に反応した部位が、ぶつけられた魔力それ自体を使って、勝手に固くなっているのか。
「くっ、そ……はぁ、はぁ……!!」
"神名開帳"ほどではないと言えども、"螺旋"の行使は膨大な魔力を消費する。
肩で息をし片膝をつく僕の前で、根元付近が硬質化したレッド・スライムがギギギギと嫌な音を立て、目のない身体でこちらを睥睨する。
「オスカーさんっ!」
「何をしているのです、今が好機です!
硬質化はすぐに解けますが、今なら砕くことも叶いましょう。
砕いて、穴を塞ぐのです!」
「でもっ――!」
対峙するスライムから踵を返し、僕に駆け寄りかけたシャロンが逡巡する。
ギギギギギ。
巨体を軋ませ、硬質化していない部分の触手がのたうつ。
「僕は大丈夫だ、シャロン!
ジレットの言うようにやってくれ!」
声を張り上げる。
迷いを色濃く表情に浮かべたシャロンと、"全知"越しに一瞬視線が絡み合い――蒼い瞳から僕を慮る気持ちが痛いほどに伝わり――小さく、だが明確にシャロンは頷いてくれた。
ギギ、ギギギギ……バキリ!
硬質化が解けるのも時間の問題だ。
再びレッド・スライムに向き直ったシャロンは、数の減った触手の横薙ぎを横っ飛びで躱すと、その場にあった苔が繁茂した岩をむんずと掴み、
「てぇいっ!」
身体をそのまま半回転させ、重厚な岩で硬化したレッド・スライムの根元を粉砕した。
バキャァアアアン!
赤い結晶を撒き散らし、甲高い悲鳴のような耳障りな音を立て。
支柱を失った上部がぐらりと崩れる。
シャロンの持つ岩の表面の苔類が、無惨な有様に爛れてゆく。
「そぉい!」
ズン――
重い音を響かせて、穴の直上に岩を挿し込んだシャロンは、文字通り雨のように降り注ぐ赤い雫をすんでのところで後退して避ける。
「やった、か……?」
植生が溶けて爛れて斑模様のようになった地面には、うぞうぞと動く赤い水溜りがそこかしこに残っている。しかし、そのどれもが先ほどまでのような勢いはない。
それどころか、うぞりと動くたびにその体積を減らしてさえいるようだ。
「なるほど……。土に水分を吸われてるのか」
スライム自身に魔力をぶつけると硬化してしまう。そのため間接的な攻撃として、地面の水分を"抽出"してやると、みるみるうちにレッド・スライムは縮んでゆく。そうして大地の染みとなり――やがて最後には、その身を完全に消失させた。
5秒を数え、6秒が経過しても、特に動きは見られない。
「――っはぁ〜……!!」
「終わり、ですかな?
念のため、石の床の方の穴も塞いだ方が良いかも知れませんが」
どっと尻もちをつき、大きく嘆息をした僕に、ジレットが言葉を掛けてくる。
「地下に残ってるやつが出てきたらまずいもんな。
手頃な大きさの岩があれば――っと、どうした、シャロン。怪我したのか?」
最後の飛沫をも彼女は完全に回避していたはず。
だというのに、シャロンは険しい表情で、今しがた自分が置いた岩――苔が溶けてグズグズになっており、緑の斑点みたいになっている――を見つめていた。
「いいえ。被弾はありません。
ですが――あまり、思わしくない報告があります。悪い情報がふたつ、です」
「あんまり脅かさないでくれよ。
もしかして、地下に残ってるやつが、まだ大きいとか?」
「――はい。さすがオスカーさんです、お気づきでしたか。
交戦中から音波の反響などから計測していた結果が出ました。
私たちが退けたのは、地下空間に広がるレッド・スライムの推定0.2%程度に過ぎません」
なるほど。さっきのやつをあと499つ分倒せば僕達の勝ち、と。レッド・スライムより先にこちらが干乾びるのは必至だった。
「ふぅむ。その数値が正しかったとして。
我々がこの島から脱するまで、このあたりに近付かなければそれで済む話ではないのですかな」
なぜかジレットはシャロンに数値の根拠を質したりはしなかった。魔術や魔道具で計測した、と判断したのだろう。――あれ、でもジレットは魔力の流れを判別するすべを持っていたんだっけ?
僕の疑問はともかくとして、ジレットの言い分はもっともだ。
脅威が何か知らなかったときはそれを明らかにする必要もあったけれど、それがレッド・スライム――"全知"的には名無しだが――とわかった今、僕らが無理に討伐せねばならない謂れもない。
しかし、シャロンは首を振って明確に否定する。
「そこでもうひとつの悪い情報が出てくるのです。
レッド・スライムは地下を掘り進み――より正確には侵食して、活動範囲を広げています」
シャロンの目線が、のっぺりとした石の床、斑の岩で埋められた円形の穴、そしてその先へと順に向けられる。
そちらは奇しくも僕らがやって来た方角である。
ということは、その先には浜があり、必然的に――
「まさか……」
「はい。
――このままですと、海に出るのは時間の問題です」
《"対水増殖"》なる、水があれば際限なく増えるというスキルを持つモノが。
生きとし生けるものを溶かし、爛れさせ、骨さえ遺させない異形が。
大海に、解き放たれる。
シャロンは静かに、その絶望的な未来予測を僕らに告げるのだった。