僕と彼女と無人島 そのよん
それは、島の頂点に君臨せし存在。
森を統べ、空を制し、大地を睥睨する威容。
海と、一部の地下空間においてはその威光も陰りはする。彼女の本領は風さえ悲鳴を上げる高速飛行だ。
それに地下は古き遺物のテリトリー。徒に領域を侵さねば害はない。分を弁えるというのも、君臨する者には必要な資質だと彼女は考える。
彼女の配下は同族ではない。そも、同族は跡継ぎ候補の数羽しか存在しないのだ。その同族たちも、支配者継承戦に敗れた者は容赦なく食い破られることとなる。新しき支配者によって。そういうものだ。
とはいえ――彼女がその座を明け渡すのは、もっとずっと先の話となろう。
では、支配者たる、島の頂点に君臨せし彼女は同族でなければ何を配下に置くのか。それは、同族以外の全ての生き物だ。屈服させたモノを誘惑で指揮するのである。
いや、それは実質のところ指揮するなどと生易しいものではない。誘惑は自由意志までをも縛り、ほとんど操っているのと大差はない。操られている側にはそれと気取らせずに、だ。
先代も、そのまた先代も、そうやって島に君臨し続けた。
逆らう者をも殺しはしない――少なくとも、簡単には。死なぬぎりぎりを見極め、生き血を、体液を、魔力を啜る。自ら生命を断つ力すら残さず、執拗に啜る、啜る。もはや回復が見込めないほどになると、ようやっと彼女は慈悲と栄誉を与える。跡継ぎ候補のための苗床という栄誉を。
そうやって逆らう者を潰し、恐怖で頭を垂れるその同族を屈服させ、誘惑で支配する。
紛う事なく、彼女はこの島の覇者であり。
君臨するとはこういうことだ。彼女はそう思う。
だと言うのに。
彼女の領域へ、土足で踏み込む愚か者が居る。
海のあたりをちょろちょろしている間は様子を見てやっていた。彼女は動くモノを観察するのが好きだ。
が、その活動領域を森にまで拡げるというのであれば――誘惑の配下にない者が彼女の森に踏み入るのは、明確な敵対者である。
そして、敵対者には容赦をしないのが覇者たる彼女の役目である。
久しぶりに、新しい配下が増えるか。
ギチギチギチギチ。
彼女は口の鋏を打ち合わせて嗤う。
岩ほどの硬度を誇る無骨な凶器を打ち鳴らし、嗤う、嗤う。
とはいえ配下に加えたところで、奴らは大変に弱そうである。配下同士の食い合いで、結局のところ数日を待たずして滅びるだろう。以前に同じような生き物が来た時もそうなったのだし。
考えながらも、彼女は指揮を摂る。自由意志をも捻じ曲げる指揮棒を振る。
まずは配下に出迎えさせる。痛みに、絶望に心が屈服してこうべを垂れたとき、いよいよ彼女が眼前に降り立つのだ。上に立つ者が顕現するには、其れ相応の場の準備というものが必要である。
唯一の気掛かりは――本当に奴らは弱そうなので、配下の者たちが勢い余って殺してしまわないかどうか、である。
殺してしまっては、吸える体液は微々たるものになってしまう。限りある資源は有効に使わねばならない。
それにしても――遅い。遅い、遅い、遅すぎる。これだけ配下を差し向け、取り囲み、ぶつけているのになんの報告もないのはどういうことだ。
愚図な配下を持つと、つらいのは君主のほうである。
ギチギチギチ、ギチギチギチギチ。
今度のそれは、苛立ちから。
自由な行動を封じられていても、側にいる者たちは自身が身震いすることを止められない。
彼女が苛立ちに任せ、口の隙間から漏れ出でる死の霧が忍び寄ってくるのがわかっていても、配下は自由に動くことはできない。逃げ出すことはおろか、悲鳴を上げることすら叶わない。
口の端から血の混じる泡を吹き、意志や支配とも関係なく崩れ落ち。
ドシャリと重い音を立て、ピクピクと細かな動きを繰り返すのみになった配下の1匹を見咎めて、ようやく彼女は少しだけ落ち着きを取り戻す。
とはいえ、苛立ちが薄れたわけではない。どちらかというと、配下への落胆がより深まっていると言ってもいい。
弱い。弱い、弱い、弱すぎる。
毒への耐性が多少あるというから側付きを命じていたのに、この有様。
どうして彼女以外の他の生き物は、かように脆弱なのか。
仕方がないのは彼女自身、理解っているつもりだ。
彼女は覇者。王者。君主。島の頂点に君臨せし存在。
それ以外の有象無象は、彼女が統べるためだけに在る、矮小な存在。小さき、弱き存在。
弱き存在がいくら束になろうと彼女が敗れることはない。あってはならない。
――ゆえに。
彼女は飛翔を開始する。
配下からの報告がないことに苛立つくらいであれば、彼女自身が出向いて、終わりにしよう。
上空から毒霧を散布しては、配下もろとも奴らが死滅してしまう。風を操り、ある程度毒の濃度や方向を操作することもできる。巨なる彼女の軀で高速な飛翔を実現しているのは、宝石のごとき翅によるものだけではない。風をも従える王者としての力が、それを可能とさせる。
それを応用すれば、毒霧をある程度好きな場所にだけ限定して散布することだって容易だ。しかし犠牲をゼロにすることはできまい。
――空に一人くらい攫って、生きながらにして中身を吸いだされれば、いつものように他の者も屈服しよう。
遥かな高みから奴らを睥睨し、彼女は狙いを定める。
相手はどれでも良かった。
どれでも良かったが、その中でも一際目立つものに、彼女の全ての眼が吸いつけられる。
地上にあるのに、燦然と照りつける太陽のように、それでいて優しく煌めく星々のように。
その金の美しさは、彼女自身が集め、次代の支配者に贈るために精製された、宝石のごとき輝きを放つ蜜にすら匹敵する。
ギチギチギチ。
彼女は生まれて初めての『嫉妬』というその感情に戸惑い、鋏を鳴らす。
その金を害し、貶めるのは――悔しいが、勿体無い。
標的はその隣に在る、なんか茶色いのにしよう。あれはあれで、この上空にさえ届き得る、匂い立つほどの濃密な魔力を感じる。そこそこ美味そうである。
狙いを決めた彼女は、突撃姿勢に入る。
彼女が本気となれば、その速度は音速にも迫る。逃れられる者は存在しまい。
――しかし。
音速に迫るということは、音速にはやや劣るということだ。
つまりは、音速を超えて迫り来る物体を認識してから避けるのは困難ということでもある。
いや、それは語弊があるか。べつに後ろから追尾されているわけではない。
たとえば。もし仮に正面から音速を超えて迫り来る岩があっても、横に避けてしまえば良い。簡単な話だ。
ただし。音の壁に阻まれてその身を砕かれながらも、地上から空に向けて降る歪な雨のように、一直線に飛来する岩礫を前にしてもそんなことが言える者は、そうはおるまい。
それはたとえ彼女を以ってしても、視認するのが精一杯であり。
その身を貫かれて地面に激突する寸前になっても――彼女は何が起こったのかを理解することが、遂にできなかった。
――
ドシャリ。
重い音を響かせて、巨体が地に墜ちる。
大柄な男よりもなお大きい軀には無残な穴だらけになっており、それは既に死んでいるようだった。
複数の手足がぴくりぴくりと動いてはいるけれど、"全知"によると反射というはたらきらしい。うへぇ。
「おー。でかかったな、今のやつ。
あれが地獄姫蜂か。はじめて見た」
「はい。オスカーさんをいやらしい目で見るメスの気配を感じたので、撃墜しました」
「どんな目だよ……。突然岩を引っこ抜くから何かと思えば。
蟲からモテるのはなんだか嫌だなぁ」
シャロンとそんな気の抜けるやりとりをしながらも、迫り来る魔物を剣で受け流し、"大切断"でなぎ払う。
どこをどう往なせば攻撃を捌けるかは"全知"がすべて見切ってくれるし、魔力の残量だって申し分ない。
たまにどうしても返り血を浴びることはあるけれど、不快なだけであり、まだまだ戦いを続けることはできる。
「私の目の黒いうちは、オスカーさんに悪い蟲がつかないように陰に日向にお守りします」
「いやシャロンの目、蒼いし」
シャロンのほうも、僕と似たり寄ったりで戦い詰めだ。
拳で、蹴りで、迫り来る魔物を手早くただの肉の塊へと変えていっている。
超高速で穴を開けられ、叩きつけられ、首を飛ばされる魔物たちから血が吹き出す頃には、もうシャロンはそこにはいない。
だから僕と違って返り血も浴びていなければ汗さえかいていない。
「あ。オスカーさん、オスカーさん。
さっきの地獄姫蜂の軀の穴から毒が漏れ出してきているようです。
ご注意ください」
「おー、じゃあ"剥離"して"抽出"で集めておこう。
あとで何かに使えるかもしれない」
「では、あとで巣を見つけたら蜜も採取していきましょうか。
アーシャさんが喜ぶと思います」
「いいね、そうしよう」
ひっきりなしに迫り来る魔物の群れは、統率された波状攻撃から、いつのまにか混乱する阿鼻叫喚の有象無象と化している。
これだけ次々に撃破され続けているのだから、恐慌からそれもやむなしかもしれない。一部では魔物同士での争いさえ起きているようなので、もうひとふんばりか。
暴威の中にあっても、僕とシャロンはまるでピクニックにでも来たかのように採取計画を仲良く話す。
しかし、他の者たちにはそんな余裕はどうやらなさそうだった。
護衛を買って出た男たちは、3人が3人とも、もうずっと呆然と立ち尽くしている。
魔術師とその嫁、同行を希望した魔道具技師が人探しのために、魔物ひしめく森に入るなどというのは自殺行為だ。そう言って聞かず、正直な話、対応するのが面倒だったのもあり護衛の同行を許したのだけれど。
「うーん。それにしても、とくにそれらしい反応はないな。
魔物、魔物、魔物ばっかりだ。シャロン、そっちはどう?」
「はい。私の探索範囲にも、当てはまるものはありません。
ていっ」
近場の魔物を、霞む速度の足蹴で赤い染みに変えながら、シャロンが応える。
森を少し進んだあたりにあった、小高い丘の上。
僕らはもう数十分以上、ここで足止めを食っていた。
この丘くらいに拓けたところならいざ知らず、鬱蒼と茂った森の中では、有視界内の探索などほとんど意味をなさない。
護衛としてついてきた3人は口をぽかんと開け、元魔物、現新鮮な肉を眺めているだけなので、戦力的にもなんの役にも立ってはいない。
助力は不要といえば不要なのだが、棒立ちされていると邪魔になるときがたまにある。何しに来たんだ。
「広域で"探知"魔術を使っても、掛かるのは魔物ばかりだ。
たまに妙な感覚もあるけど」
「はい。私のほうも、似たようなものです。
地下を除いて、島の端のほうまで動体反応を探索していますが、芳しくありません。
魔物だらけすぎます。えいっ」
僕らが話しながら人探しをする片手間で、あちらこちらに点々と肉塊が構築されていく。
オーク。ブォム。ガルバホーク。アグニルドラ。エムハオ――は僕らが視界に入った段階で風のように逃げて行ったけれど。
そして、地獄姫蜂。これはシャロンが撃ち落とした一匹だけだな。
「今まで人が居なかったにしても、あまりに魔物だらけすぎる気がする。
肉屋が開けそうだ」
ブォムやエムハオといった比較的臆病な魔物は、統率が乱れたタイミングで早々に撤退していったり、また現れたりを繰り返しているけれど、その他は僕らの姿を見咎める端から、次から次へと突貫してくる。
同族が次々無造作にやられていくのも気にせずに、むしろ血の匂いで余計に興奮したかのように魔物たちは襲い来る。半狂乱になりながら。
「そもそも、なんでフェッチャーさん? とやらは森に入って行ったんだよ……。
森自体が魔物の巣窟みたいなもんじゃないか、これ」
「理由は不明ですが――商人の方の、護衛となった冒険者の一人なのですよね。
その方でしたら夜中から朝方まで、私たちの居た天幕のほうを、森の入り口あたりから監視していたようです。
朝方に撤退して行ったあと、行方不明となったようですね」
口を動かす間にも、ばったばったと薙ぎ払われた魔物や、その余波を受けた木々がミシミシと音を立てて倒れ、重々しい振動が丘を揺らす。
護衛のはずの3人の男たちは青い顔で縮み上がってしまって、一箇所で身を寄せ合っている。あとでキャンプ地まで肉を運んでいくくらいの役には立ってもらいたい。
「ルーダーの差し金か。
僕らの護衛というよりは、何か行動を起こさないかを見張ってたかったのかな。あんまり僕らに良い印象を持ってないだろうし……。
そんなことがあったなら、起こしてくれて良かったのに」
「いいえ。とくに行動を起こすわけでもなさそうでしたし、私はオスカーさんの寝顔の観察に忙しかったので放置しました。
その時に拘束していればこのような事態にはならなかったでしょう、申し訳ありません」
「何もしてない相手を拘束するわけにもいかないし、それはしょうがないよ」
それを言うならば、夜警であるのに寝こけていた僕も悪いのだ。
天幕の周囲には魔石を配置した対物理結界を形成し、魔力灯も点々と配置。
あとは焚き火の前で毛布にくるまって陣取っているだけの簡単なお仕事、のはずだったし、実質夜間はそうだった。
僕の毛布に潜り込んできたシャロンに抱きすくめられている間にいつのまにか眠ってしまったようなのだけれど、昼間の疲れや、結界があるという油断があったのだろう。まさか天幕の外側で問題が起こるとは。
「氏が妙に歯切れが悪かったのはそれが理由なのでしょうね、ええ。
『護衛をどこにやった!?』と怒鳴り込んできたのに、どこかしどろもどろのようでした。
まさか我々を無断で監視させていたのに、こちら側にその者が居ないことを確認した上で、探すのを手伝えとは言い難いでしょうから」
「どうだろうなぁ……。
ルーダーのあの性格じゃ、そんな要求をしてきてもおかしくないと思うんだけど」
僕らの邪魔にならないような位置、かつ魔物にも見咎められにくい位置で何か草を弄っていたジレットが、話に加わって来る。どうやら何かの作業が終わったようだ。
ジレットの言うことも、まともな思考、まともな状況下であれば、わからないではない。
しかし、ルーダーの態度に"全知"が見出した怯えのようなものが正しいならば――フェッチャーなる護衛が天幕の周囲にいなかった時点で、監禁されるなり殺されるなり、そういった事態への懸念が強まったのだろう。
フェッチャーを排したのが魔物なのか僕たちなのか。ルーダーにとってはどちらも恐怖の対象となっていてもおかしくない。勝手に警戒して勝手に恐れて、失礼な話ではあるが。
「獣人や海賊たちもルーダーに連れていかれちゃったし。
ヒドいことになってなきゃいいけど」
せっかく人々から自棄のような空気が薄れつつあったのに、別の箇所から火種が発火したのでは目も当てられない。
「それにはまた別の手をすでに打ってあります。ご安心ください、ええ。
――そろそろこの場も落ち着きましょうから、一旦作戦の練り直しとしましょうか」
「ん。言われてみれば、魔物がかなり減った……か?」
横薙ぎに"大切断"でオークを2体ほど地面に沈めて、僕は周囲を見渡す。
残りはガルバホークが上空に1体、アグニルドラが2……と数えている間にシャロンが仕留め、丘にようやく静寂が戻ってくる。
「魔物除けの香――そういうのもあるのか」
「独特の匂いが付いてしまうのが難点といえば難点ですがね。
うちの主力商品のひとつですよ、ええ」
地面近くが烟って見えるほど香が敷き詰められており、確かに独特の――ツンと鼻や目の奥を突くような、少し不快な匂いがある。
以前にどこかで嗅いだことのある臭いのような気がするけれど、どこでのことだったかな。道往く冒険者が使っていたりしたのかもしれない。
「にしても――げほっ、煙たいな」
「"けむたいなー"」
「"たいなー"」
僕が咳き込んで噎せると、すかさず戻ってきたシャロンが背中をさすってくれる。
ジレットは平気な顔をしているが、彼は慣れているのだろう。
護衛でついてきた男たちは一箇所に寄り集まったまま鼻を摘んでいる。ほんとうに何しに来たんだ、あいつら。
他には幼女が小さな手をぱたぱた動かして、煙たいぞー、とアピールしている。地面に近いぶん、臭いもきついだろう。らっぴーが付いてきていたらしばらくヘソを曲げそうな――。
「は!? 幼女!?」
「はい?
ええと。どうされましたか、オスカーさん。
――ランダさん。もしやとは思いますが、この香には幻覚作用のあるものを使っていたりしますか」
「いいや。そんなことはないはずですとも、ええ。
――そんな怖い顔をしないでいただきたいものです」
「"たいものですー"」
「"いもですー"」
いや、いもじゃないだろう。
僕の背中をさすりながらジレットを詰問するシャロンには、どうも見えていないらしい。それはジレットも同様のようだった。
そこいらの人はおろか、シャロンにさえ見えない。
近くから聞こえるような、遠くから聞こえるような、それでいてどんな言語かが判然としないような聞こえ方。
このような相手に、僕はひとつだけ心当たりがある。
「――もしかして、妖精?」
僕らの工房が軒を構える通りに佇む料理屋、『妖精亭』悪戯看板娘の妖精シアンと、突然眼前に現れたふたりの幼女の特徴は一致する。
「"ようせい?"」
「"ようせい?"」
妖精? 幼女たちは、互いに向かい合ってくりっとした大きな瞳を覗き込むと、ふたり同時に、それでいて反対側にこてんと首を傾けた。
テンタラギオスさんに続く、新たなる噛ませさんの登場(&退場)