僕と彼女と無人島 そのさん
海賊船から切り出した帆を活用して天幕を設営する者たちのすぐ側で、僕は地面をいじくっていた。
シャロンは『芋を育てて、ここをショクミンチにしましょう』なんて、いつものように意味不明なことを口走っていたけれど、べつに作物を育てようというのではない。
「よし、と」
"自動筆記"をも駆使して描いた緻密な魔法陣の、完成だ。
円の縁には8つの魔石を配置し、それぞれが焚き火の光を照り返して怪しく煌めく。
ごくり。
見物する誰かが喉を鳴らす音さえ煩わしいと言わんばかりに、大勢の人間が固唾を吞んで、この光景を見守っていた。
大魔術の準備をするから立ち入らないでね、なんて伝えられ、着々と魔法陣が組み上げられていくのだ。気にもなろう。
対する僕は、完成した魔法陣を前にしても気楽なものだった。
"全知"によって完全性が担保されている、というのもある。
しかしもっと実際的な問題として、この魔法陣は見せかけ上、大魔術に見えるように組み上げているだけなのだ。
この魔方陣の本当の効果は、実は魔力を通すとそれっぽく光る、ただそれだけの陣だったりする。
一緒に漂着した人々の中に僕以外の魔術師がいても訝しまれないよう、表面上はしっかりと術式を書き込んでいる。それはもうみっちりと。
魔法陣は詠唱と同じく、基本となる型はあれどある程度自己流のアレンジを施すことも少なくない。
なので、ぱっと見ただけでこれが偽装のための魔法陣だと見抜くことは困難だろう。
今回、僕がそれっぽく仕立て上げている魔法陣は、大魔術。奇跡の業、伝説の魔術。
『勇者』が雑草を払うくらいの気楽さで発動していた、"転移"の術式だ。――なんか、そう形容すると一気にありがたみが減るな。
一番外枠たる大きな円環は世界をあらわし、内に刻まれたふたつの楕円が此方と彼岸。転移元と転移先を示すものである。
ふたつの楕円の間では空間の繋がりを歪める帯が横切り、特徴的な陣形を形作っている。
この帯ひとつにしても、"結界"をはじめとした空間系魔術の粋を極めた記述を詰め込んでいる。
いっそ芸術的とも言えるほどに整頓され、あるべき場所に嵌め込まれた神聖文字が、発動の瞬間を今か今かと待っているかのようだった。――実際は、光るだけなのだけれども。
天幕を設営したり、あれやこれやと忙しく動き回っていた者たちも、またそれを指揮していたジレット = マグナ = ランディルトンも、一時的に作業の手を止めて、何が起こるのかと互いの顔を見合わせた。
ジレットは魔術の素養があるのか、僕の描く魔法陣を食い入るように見つめては、何かを考え込んでいるようだったが。
「シャロン」
「はい」
魔法陣のチェックを一通り終えた僕が合図を出すと、少し離れた位置に控えていたシャロンが歩み出る。
彼女はその両腕をいっぱいに広げ、大きな木桶と鉄鍋を抱えている。しかし、まるで重みを感じさせることはない。
木桶と鉄鍋の総重量は大人の男一人分にやや満たないほどである。
この木桶は人目に付かないようにシャロンが「えいっ」してきたものを加工したものだ。
そして鉄の方は、思わぬところから手に入れることができた。
ジレットが指揮する数名の有志によって帆が切り出された海賊船には、その船の大きさに見合わないほどの立派な衝角も取り付けられていたのだ。
衝角とは、船の先端、水面下に付けられる機構の一つらしい。
船が丸ごと体当たりを仕掛けて穴を開けたりだとか、漕ぎ手を押し潰したりして攻撃するため、使われたりするのだそうだ。
衝角がついていると、船の面相——と言っていいのかはわからないが、正面からその船と対峙したときの印象は、かなりいかつくなるという。今回はじめて船に乗った僕にはあまりわからない感覚だけれど、日常的に海に繰り出す人間からすると、そういうものらしい。
海賊の側からしてみれば、戦わずに金品をせしめられれば最上なわけで、そのためのいわば脅しの兵装なのだという。捕縛されている海賊本人が渋々語ったことである。
この衝角があったから、体格差の大きかった商人の船舶もあえなく撃沈の憂き目にあったわけだが……。
ともかく、せっかくの鉄塊である。
何かに活かせないか、と頑張ってこれを持ち帰った者たちに応えるべく、僕も張り切って加工した結果のひとつが、これなのだった。
片手に木桶、片手に鉄鍋。それらを苦もなく運ぶシャロンを見て、腰を浮かしかけた男たちがあんぐりと口を開ける。
シャロンを手伝って、あわよくばお近づきになろうという魂胆でもあったのだろうが、アテが外れたようだ。
そこいらの男でも二人掛かりで運んだほうが安全な代物を、シャロンは一度にふたつ持ち上げ、しっかりとした足取りで事も無げに運んでくる。
見ているだけなら、それらが羽根でできているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
「ありがとう、そこの、手前の楕円の中におろしてほしい」
「はい。ここですね」
ちょうど、ひとつの楕円に重なる場所に木桶と鉄鍋を設置すると、シャロンはぴょいっと一足飛びで僕の元まで戻ってくる。
「おっとっと! です」
スカートの裾をふわりと靡かせて着地したシャロンは、完璧に計算ずくの慌てた様子でバランスを崩し、ぱたぱたと手を上下に振りながら僕の胸に飛び込んでくる。
倒れ込んできたはずなのに僕の方に全く衝撃がこないので、僕にはそれがわざとなのは丸わかりなのだけれど……それでも衆人環視のもと、それを指摘するほど野暮なことはしない。
そのまま、たっぷり数秒の間ぎゅむーっと頭を押し付けてくる。まるで、自分の所有者を見せつけるかのように。
ふわり、花のようないい匂いがした。
「えへへ。ありがとうございます」
スカートの裾をふわりと靡かせて微笑む。
見守る者たちからは歯ぎしりのような音や、「ぐふ」だとか「だぐばぁっ」だとか声が上がり、挙げ句の果てに「女神様……」と拝む者まで出る始末なのだが、シャロンはそんなことはまったくお構いなしのようだった。
……。そっとしておこう。
下手にこちらに飛び火するのは避けたい僕だった。
「よし。じゃあ、やるぞ」
「はい。頑張ってください、オスカーさん」
仕切り直しをかけると、シャロンが一歩下がった定位置に離れて行く。
ぶっちゃけた話、頑張るもなにも、僕がやることは魔法陣を光らせておいて"倉庫"から食べ物を取り出すだけだ。
しかし、周りの人たちから見れば、謎の大掛かりな儀式を摂り行おうとしている魔術師と、その嫁。
雰囲気は大切だった。
まわりに集まっていた者たちを少し下がらせると、緩やかに翳した左手から魔石へと魔力を注ぎ込む。
焚き火の光を鈍く照り返していた魔石は、もともと僕の魔力を押し固めた結晶体だ。
それが僕の魔力に反応し、自ずから明るく輝き出す。ひとつ、ふたつ、と鮮やかに輝き出す魔石を前に、誰かが「ほぅ」と短くため息を漏らした。
やがて、8つ全ての魔石が点灯し、煌めいた円は閉じる。と同時に、その内部の文字、砂に描かれた神聖語にまで光が伝播していく。
「おぉ」
「きれい……」
どよめきや感嘆を受けて、僕の側に控えるシャロンがいつものようにドヤ顏をして胸を張っているらしい。
自身が賞賛を受けるよりも、僕に羨望の眼差しが向けられるほうがシャロンとしては嬉しいものらしかった。
「なンだぁ……?
おい、そこのお前、これは何の……なんじゃあそりゃああ!?」
商人を殺し、横暴を振りかざす粗暴な男、ルーダー。
ルーダーの陣営も、どこかでこちらの様子を伺っていたのだろう。
はたまた、そろそろ空腹に堪えられない頃だと見越して、さらなる要求を掛けにきた頃合だったのかもしれない。
奇しくも、この男が一番最初にその現象に気付いたらしかった。
それは、肉。ごろりと大ぶりな骨つき肉。噛めば柔らかな肉汁が口中を満たすであろう、羊肉。
それは、根菜。彩り鮮やかに、一口大に丁寧にカットされ、ほろほろに煮込まれて。今は形を残しているが、一噛みでホクホクとしたその身を崩すだろう。
それは、スープ。白く濁った液面が、魔力光を受けて嬉しげに輝く。具材の旨さを閉じ込めた、湯気の立つ粘性のあるスープは、冷えた身体を芯から温めるだろう。
中空から次々に現れるそれらの食材は、そのまま落下。
きらきらと輝く魔法陣のなかに据えられた大鍋の中で、ごとりごとりと湯気をあげる。
今日のアーシャの一品はソルテリらしい。
なぜか僕はソルテリに若干苦手意識がある。昔は好物のひとつだったはずなのだけれど。
しかし、その苦手意識もアーシャが作るものだけは別だった。
どういうものなら僕が食べられるかというのを、長い時間と根気をかけて少しずつ、少しずつ。改良を、調整を重ねたアーシャ、執念の一品である。美味くないはずがない。
魔力の燐光が一時的に消え、ほかほかと白い湯気を上げ続ける鍋があとには残されて、波の音だけが時間の経過を知らせてくる。
ざざーん、ざざーん。
水平線の彼方へと今まさに消えんとする太陽の最後の足掻きが、無言の者たちを橙色に照らし出す。
あー。ちょっと舞台装置に力を入れすぎたのかもしれない。あのルーダーさえ、口をあんぐり開けたまま一言も発しようとしないのだから。
『ちょっと調子に乗りすぎたかな』
『いいえ。素晴らしい乗りこなしでした』
お褒めに預かり恐縮至極だが、調子を乗りこなすってなんなんだ。
ちらりとシャロンを仰ぎ見ると、むふー! とばかりに満足げに胸を張っていらっしゃる。
シャロンさん的には満足いく演出だったらしい。
『とはいえ、このままってのも埒があかないな
——シャロン、お願い』
『はい。任されました』
僕の意を汲んだシャロンは一歩前に進み出ると、絶句している者たちすべてに告げる。
「あの、皆さん。——冷めてしまう前に、召し上がりませんか?
せっかくオスカーさんが用意してくださったのですから」
彼女がとびきりの笑顔で、こてんと首を傾げる。
一瞬、間があって。
割れんばかりの歓声が上がった。
——
ばちばち、ばちばち。
薪の爆ぜる火の音に、もう震える歯の音が重なりはしない。
そのかわりに聞こえるのは、一心に食事を掻き込む音、どこか陽気ともとれるような鼻歌や、繰り広げられる大道芸にワッと湧く声、毛布に包まれた微かな寝息。
焼きたてのパンに、あたたかいスープ。一人に1枚以上割り当てられた、真新しいふかふかの毛布。
ある者ははしゃぎ、ある者は目に涙を浮かべて。
周囲を夜の闇が包んでも、彼らは楽しげに声を上げていた。
「アーシャの料理はおいしいなぁ」
「はい。
——フリージアさんを看取ってから、毎食言っていますね」
シャロンの指摘に、ぎくりとする僕。そんなに口にしていただろうか。
フリージアとの相対は、そう長時間のことではない。しかしそれは、実時間のことである。
フリージアの幻覚スキルの極地、"童話迷宮"と彼女が名付けたモノに囚われた僕は、飢えは感じず、傷は治癒し、魔力は充填され続けた。
その境遇の、なんと味気なかったことか。
"童話迷宮"でのことは、シャロンには言っていない。
あそこで負ったダメージは僕の脳内での出来事だったので、今の僕にダメージはない。少なくとも、肉体面に関しては。
だから、心配させたくないのと——シャロンにフリージアを恨んでほしくなかったのもあって、僕はそのことを秘密にしていた。
とはいえ"童話迷宮"後のフリージアとの問答のなかで、僕が何らかの術中にあったことは、シャロンも知るところとなっている。
しかしそれがどういう性質のものであったかについては、シャロンは知らないはずだった。
——洞察力に秀でた彼女のことなので、推測した上でそっとしておいてくれているのかもしれないけれど。
ふたり、並んでアーシャの渾身のソルテリを口に運ぶ。
ああ。美味い。
遮るもののない空には星空が広がり、隣にはシャロンがいて。
帰れない心配などまるでなく、いつもと違う環境をどこか楽しんですらいる僕だった。
「隣、いいですかな」
「どうぞ、ご自由に」
昼間、あちらこちらへと奔走し、皆をまとめ上げていた男。
ジレットが、片手を軽く上げて僕の隣に腰を下ろす。シャロンと反対側の位置だ。
シャロンではなく僕のほうに興味があるらしい。変わった奴だ。
「——実に。実に見事でした、ええ。
ハウレル殿の音に聞く翠玉格の名は伊達ではないどころか、まだ不足だと思うほどです」
「そりゃどうも」
どうやら向こうは僕のことを知っていたらしい。こちらも向こうの名前は”全知”によって知っているから、おあいこではあるけれど。
ジレットの物腰は柔らかで、笑顔は裏を感じさせない。
かなり年下である僕に対しても、丁寧な態度を崩さない様は、育ちの良い大人の余裕のようなものだろうか。
彼は手元で空になった木の器を弄びながら、言葉を続ける。
「それに、胸のすく思いでもありましたし」
「ルーダーのことか?
まあ、確かにな。少し横暴が過ぎたし」
僕が食べ物を取り出したことで、ルーダーは自分が所有権を主張する商品を取られたと思ったのか、もしくはそれを口実にしたかったのか。盛大にゴネた。ゴネにゴネてゴネまくった。
そこで僕がソルテリに続いて木桶に山と取り出した、どこからどう見ても焼きたてのパンを握らせたときの何とも言えない表情は、吹き出さないようにするのが大変なくらいであった。
強欲な商人ルーダーは、今まで吹き上がっていた怒りのやり場がなくなったのだろう、顔を赤くしたり、かと思ったら紫色にしたりして、そのまま従者を連れて無言で去って行ってしまった。
「パンを握ったまま去って行ったのがさらに傑作でしたな」
「まあ、ルーダーが混乱してたおかげで彼らもご飯を食べることができたんだし、良かったよ」
僕とジレットの視線の先、たき火にほど近い場所には、こちらもルーダーが所有権を主張している6人の獣人たちがひと固まりになって、静かに、しかし一心に、一口ひとくちを噛み締めるようにしてソルテリを口に運んでいる。
獣人だけではない。今回の騒動の一因となった海賊たちにも、大人しくしていることを条件にパンと水だけは与えている。
他の人たちには、内心思うところもあろう。しかし食べ物を出した僕の決定に表面上は意を唱えるものはいなかった。
「治癒系の魔術に、空間系魔術の素養もあるのですな。そればかりか、魔方陣を描くのに使っていたのは私にとって未知の魔術体系です。実に。実に、感服いたしました、ええ」
漂着者の間に漂っていた緊迫した空気もなくなったため肩の荷が降りたのか、ジレットは饒舌だった。
僕が手放しに褒められているので、シャロンは先ほどに引き続き鼻高々といった様子である。
とくに口を差し挟んで来ることはしないが、僕のすぐ隣で『そうでしょう、そうでしょう!』とでも言わんばかりのドヤ顔をして、芋を小さな口に運んでいる。そんな彼女の様子を幾人かが見ては、微笑ましそうに頬を緩めた。
「魔道具との連動で単身での召喚魔術を成功させるなど、我が目を疑うばかりですよ」
「ん、やっぱりあんたも魔術師なのか」
「魔道具を少々作る程度で、貴方には遠く及ぶものではありませんとも。
先ほどの魔力の流れ、源となる魔道具はその腕輪ですかな。ふぅむ、実に興味深い」
ジレットは感心しきりであるが、僕のほうもその発言には驚かされた。
魔方陣が見せかけだけのものと見抜かれたかどうかはわからないが、僕の腕輪が何らかの関与をしていたということを看破されるとは思いもしなかった。
ジレットも魔道具を作る者だというし、発言から察するに魔力の流れを感知できる道具でも持っているのかもしれないな。"追憶"の魔術のような。
実際、先ほど食べ物たちは僕の腕輪を利用して、いつも通りに"倉庫"から取り出したにすぎない。
"倉庫"経由で物を取り出すのは、"倉庫"の実体がある地下施設の転移装置の機能を間借りしている。
僕やシャロンの腕輪、アーニャたちの首輪を擬似的な転移装置に見立て、二点間の座標を繋げているのだ。
空間を繋げるために必要となる膨大な魔力も、いまや内部には誰もいなくなった"六層式神成陣"が集め続ける魔力を動力として掠め取って使っているので、術者の魔力消費はほとんど無い。必要となるのは、転移装置に自分の居処を教えるのに使う程度のわずかなものだ。
そして持ち運び可能になり利便性が向上した反面、不便になっている部分も存在する。
あくまでも僕の作った腕輪をはじめとする魔道具は、簡易版の転移装置のようなものである。
そのため、展開できる魔法陣の大きさはごく限られたものだ。
らっぴーくらいの大きさであれば余裕で行き来ができるのだが、それ以上となると厳しい。ラシュでぎりぎり通れるくらいである。アーシャだともう通れないだろう。
だから今回のように海の真ん中で孤立してしまった場合、”倉庫”を経由して好きな場所に移動する、といった方法は取れないのだった。
しっかりとした転移装置をこの島で作ることができれば無論その限りではないけれど、”倉庫”から必要な部品を取り出して組み上げるのにも、それなりに時間は掛かるだろう。
それに、多くの人に"倉庫"を晒してしまうのは、なるべくなら避けたい事態だ。いざとなったら、くらいの手段に思っておくべきだろう。
「これまで数々の魔術師を見て来ましたが、そのいずれもを凌駕する——おっと、申し訳ない。まだ名乗ってもいませんでしたな」
今思い出した、とばかりにジレットは軽く手を打つ。
そして、彼はずいと身体をこちらに向き直り、名乗った。
想定外の名を。
「私はジレット = ランダ。以後——」
「え?」
ジレット = マグナ = ランディルトン。”全知”で見えたとおりの名を名乗られると思っていたところに異なる家名を名乗られたので、僕の口からは間抜けな声が出た。
”全知”が間違えた? そんな馬鹿な。
「——どうか、されましたかな?」
「え、あ、ああ。いや。
あなたの名前はジレット = マグナ = ランディルトン、だと思ってたんだけど」
とっさのことだったので、深く考えずに返答してしまってから、まずかったかもしれないと気付く。が、もう遅い。
いつでも対処ができるようにだろう、シャロンが木皿を置いたのが気配から察せられる。
対して、彼の。ジレットの表情に変化は見られなかった。
しかし”全知”の視界には、
《どこまで知っている?》
こちらを探るような思考が垣間見えた。
しかしそれも一瞬のこと。
元々推し量れない表情のように、”全知”でもその表層思考を拾うことはできなくなった。
かわりに、ジレットは声をひそめる所作をする。
「これは失礼しました。できれば家名のことは内密に願いたいのです。
『かの家』はシンドリヒトの方の貴族——いえ、元貴族、ですか。
ある勢力の者の耳に入ると、あまり……面白いことにはならないのです」
シンドリヒト王国。長らく経済難だったところを、カイラム帝国が独立を宣言して、ごたごたし続けているという、かの国か。
「それはすまなかった。いろいろあるんだな。
はじめまして、ジレット = ランダさん。昼間の、皆をまとめ上げる手腕には助けられた。
オスカー = ハウレルです。こっちは妻のシャロン」
「オスカーさんの妻の、シャロン = ハウレルです」
横合いから顔を覗かせたシャロンが、『オスカーさんの妻』のあたりを改めて強調して、ぺこりと頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます。
ハウレル殿が『かの国』と無関係で助かったと胸を撫で下ろしているところです。
私では貴方はおろか、お嬢さんにすら易々と負ける自信がありますからね、ええ」
むしろ、僕よりシャロンのほうが数倍は強い。
ほとんどの人はそうは思うまいが。
「ところで、どこでその名を?」
「あー、魔道具の効果みたいなもんだよ。名前がわかるんだ」
肩を竦めて見せると、ジレットはふぅむ、と眼鏡を指で押し上げ頷いた。
さすがに"全知"のことを教えたりはしない。装着すると一気に魔力を吸い出されるので、まともに扱える人間も限られるだろうけれど。
全て得心したといったふうではないけれど、ジレットはひとまずそれでよしとしてくれたらしい。
「工房を持つ魔道具技士として、ハウレル殿の持つ魔道具には興味が絶えませんね、ええ。
出来る事ならば全てをつぶさに観察したいところですが——いやはや、国宝級をも超えそうな魔道具の数々が私に理解できようはずもありませんな。まことに残念至極」
「そんな場合でもないしな。
ほら、満腹になって、疲れ果てたやつらがそこらへんで寝そうだぞ……」
焚き火の火はなおも赤々と周囲を照らし出している。
その中央で温められている大鍋の中身はほとんど空になっており、木桶のほうもパンが一欠片だけぽつんと残されている有様だ。あれだけあったのに、よく食べたものだ。
「遠慮の塊ですね」
「えん……なんだって? シャロン」
「いえ。それよりも、収拾がつかなくなる前に寝床への誘導や夜の番を考えたほうがよろしいかと思います」
「では……再び私の出番ですね、ええ」
とジレットは腰を上げると、小さく伸びをして口元に笑みを浮かべてみせた。
こうして、漂着一日目の夜はとくに何事もなく更けて行ったのだった。
翌朝も、昨晩の魔方陣によるパフォーマンスを再び行い、アーシャ特性のスープを差し入れて、実に和やかな雰囲気のまま一日が始まった。
一人、行方不明となった者がいることが明らかになるまでのごく短い間、その和やかさは続くことになる。
「遠慮の塊」は関西のほうでは意味の通る概念(だと思うの)ですが、どうも他の地域だと通じないとかなんとか。