僕との勝負、その結末
——バギャン!!
甲高い破砕音をまき散らして、フリージアを守っていた魔方陣が一斉に砕け散る。
フリージアが最初から回避不能な針の雨を降らしてこない——つまり、僕らに手加減をしていたように、実はシャロンも手加減をしていた。
それはフリージアを慮って、みたいな情緒的な理由や、余裕からくる慢心のようなものではない。もっと直接的な理由である。シャロンが手加減をしなければ、彼女が投げた小石はフリージアの結界や光の針を迎撃するまでもなく、自壊してしまうのだ。
針で滅多刺しにされ、それ以前にも何度も掘り起こされたりしたであろう床石は、さほど硬度を保っているわけではない。”硬化”魔術を掛けようと、音を置き去りにして飛び退るほど固くなりはしない。
その点、シャロン自身の腕の耐久性の高さ、またフリージアの平面魔方陣の結界を殴り抜いても支障を来さなかったことは実証済みである。
しかし、投げる腕と投げられる腕。ともに一本ずつが必要なこの作戦は、秘策であり、奇策であり、一回限りの賭けだった。
平面の結界、何重にも重なっているそれを貫かれたフリージアは、その赤い瞳に驚愕を浮かべ、はじめて回避行動らしいものをみせる。僕らが見ているのはフリージアの幻覚スキルによる肉体の幻影のはずだが、それでも避けるのはそこに本体を重ねたままにしているのか、術式の核でもあるのか。
『らせん』を帯び、回転するシャロンの腕が防御の術式を次々とまとめて砕く一瞬の間に、銀の髪の少女は拳一個分横にずれる。まるで踊るように軽やかな足取りだ。
「あはは〜、びっくりした。
『まったく、想像力で一杯なのだ。狂人と、詩人と、恋をしている者は』だね〜。
でも残念でした」
防御を貫いた”永劫らせんのろけっとぱんち”は正確無比なシャロンの投擲により、過たず数瞬前までフリージアのいた場所を通過し——
「はい。実に——残念でした」
にこやかに応じるシャロンの様子に気付いたフリージアが眉根を寄せ、防御用の魔方陣をシャロンとの間に再展開しようとする。が、僕らの狙いはそれではない。
『らせん』を帯びたその拳——渾身の攻撃を繰り出し、それでもなお躱されたそ
れが、その掌の中に握り込んでいた小石を、指の力だけで投擲する。『らせん』の回転の中でも、シャロンの演算能力によってはじき出された軌道に沿って、小石が飛来する。ただの、何の変哲もない、小石。
ボヒュッ
「あだぁっ!!」
そして。その小石は手応えのない音を立ててフリージアを、その幻影を貫通し、前面に再展開された魔方陣に後ろからぶつかって、消し飛んだ。
こうして、秘策を、奇策を弄してようやく僕らは一矢を報いた。いや、一石を投じた、というのが洒落が効いているか。
しかし一発は一発だ。無論、勝利条件は一発入れることではないけれど。それでも。
全力をかけて、一撃をいれたのは確かな事実だった。
僕は足を止める。正確には、もう動けなかった。もう、足が動かなかった。
『らせん』には、全ての魔力を込める。僕自身の魔力、”結界”から充填され続ける魔力、フリージアの光の針まで巻き込んで、全て、全てだ。もはや、回復が追いついていなかった。
「オスカーさん!? なにを——っ。ッッ——!」
足が止まった僕に、すぐに光の針は追いついてくる。シャロンの悲痛な、声にならない叫びがあがるが、針は止まらない。
脚を。
背を。
肩を。
シャロンの拳がそうしたように、僕の全身を針が貫き、地面に縫い止める。
どう、と倒れ込んだ僕は、かろうじて動く首を上げる。針の切っ先が見えた。
数百、数千を数えるだろう光の針、その奔流、濁流が、僕視線のすぐ先で、停止している。ピタリと切っ先を僕に向けたままで。
はぁー……盛大に息を吐き。
「僕らの、負けだなぁ」
その厳然たる事実を、受け入れた。
——
大の字に横たわり、一歩も動けない僕。頭の下には、柔らかくあたたかなシャロンの膝がある。
”六層式神成陣”の外壁に阻まれて落ちた左腕をそのまま放り出し、シャロンは僕のもとにすっ飛んで来た。
「ちくしょう、くっそ強ぇ」
「はい。そりゃそうですよ」
思わず弱音が漏れる僕に、シャロンが呆れたように相づちをする。
シャロンが僕の言葉に反応して、声を返してくれる。それだけのことが、僕はひどく嬉しかった。
——しかし、負けた。
僕らは。僕は。フリージアに敗北した。その事実は揺るがない。
「強かったな」
「はい。攻撃速度、防御性能、継戦能力。
そのどれもが、極めて強力でした」
シャロンも、フリージアの強さを肯定する。口を膨らませ、不満さをアピールしながら、だが。
「シャロンも、僕にとってはすごく強くて、頼りにしてるんだから。そんな顔をしないでくれないか」
「はい。むぅ、それでも、オスカーさんが痛めつけられて、内心穏やかではないのですよ」
「それこそ、僕から吹っかけた勝負で、僕が返り討ちにあった。それだけだ」
僕の苦笑に、僕の頭を見下ろすシャロンが首肯する。
ふわりと金の髪が揺れ、シャロンは残った右手で僕の髪を撫でる。ただしく持ち主の元にある金の腕輪が、カチャリと小さな音を立てた。
「はい。理解はします。
ですがやはり、オスカーさんを傷つけられて憤るのは、私の気持ちの問題ですからどうしようもありません。それに、悔しくもありますし」
自らの気持ちを吐露するシャロンに、僕はまた嬉しさと——少しだけの気まずさを感じる。シャロンにとっては少し前。僕にとってはもうずっと前の記憶を、思い出したからだ。
僕は、フリージアの術式を破り、それまでの記憶も取り戻している。
”童話迷宮”内での肉体面での不調は、全くといって良いほど持ち越していない。フリージアが幻覚スキルの極地と言っていた通り、あれは実のところ、『偽物の世界』でもなんでもなく、僕の頭の中で、僕の意識を閉じ込めておく術式だったのだろう。
傷ついた腑も、喉も、目も、脳も、すべては意識の中でのこと。現実に——いまこの時に、害を引き継いではいない。
それでも、意識の中での出来事だからこそ、だろうか。その思考、意識、全ての感覚が生々しく残っている。
シャロンを喪った喪失感や、自身の腑を貫いたときの半ば狂った思考も、手に伝わる感触も、異物が入り込む感覚も、流れ出る血の温かさも、失意も失望も絶望も。その全て、全ての出来事が、感触が、現実のことのように思い返せる。
自身の狂気を冷静に観測できるというのは、それはそれで再び狂気に引き摺られそうな体験だ。きっとあの”童話迷宮”で発狂し、そのまま意識が暗い淵から戻れないほどのダメージを受けていたならば——術式を解いたあとも、そのままになったのだろう。怖ろしい術式である。肉体には何の異常もないまま、周囲の者にとっては一瞬のうちに、精神が破壊されるのだから。
”童話迷宮”——精神の迷宮。魂の牢獄。
それらの『得難い』経験をした僕は、”童話迷宮”で彷徨う前の問答を、今また思い返していた。
「シャロン」
「はい」
いつもであれば、残念な発言なんかを交えつつ、たわいないやりとりを挟んでくる場面だ。
しかし、シャロンはしっかりと僕の目を見返し、その澄んだ蒼い目で続く言葉を待っている。
「すまなかった」
「——」
「いつも通り、今回も心配をかけた。
無謀な勝負にも付き合わせた。
せっかく気に入っていたヒンメル夫人の手製の服も、ぼろぼろになっちゃった」
「——」
シャロンは、口を差し挟まない。
僕が何を伝えたいのかを、待っているのだろう。
彼女はいつもそうだ。僕が、僕やアーニャたちが、楽しく会話をしているときは、一歩下がってにこにこと話を聞いているだけのことが多い。話を振られれば応えるし、険悪なムードになりそうなときは空気を読んで空気を読まない発言をしたりする。
それでも彼女は基本的には他の人が——特に僕が話しているときにはあまり口を挟んで来ない。自分が魔導機兵だから、ヒトの邪魔をしてはいけないと律しているかのように。
「シャロン」
「はい」
僕は、再び彼女の名を呼ぶ。
柔らかく、あたたかい彼女は、優しい声音で応じてくれる。
半身を喪って、もの言わぬ人形に成り果てた彼女ではない。いつもの微笑みで、僕に返事を返してくれる。
「僕は、シャロンに生きていてほしいよ」
シャロンの瞳の蒼が、微かに揺れる。
察しの良い彼女は、何の話をしようとしているか、気付いたのだろう。それでも彼女は言葉を差し挟まない。
「たとえ、僕が死んだあとであっても。
愛した人には、元気に生きていてほしい」
いつもであれば、『オスカーさんのデレが』とか、茶々を入れる頃合いでも、彼女は何も言わない。ただ、穏やかな微笑みを口元に浮かべ、残る右腕で僕の髪を撫でる。
「それが、僕の想いではある。
でも。それよりも、シャロン自身の『やりたいこと』を優先してほしいなって、今はそう思うんだ」
「やりたいこと、ですか」
彼女の太ももの上に横たえた頭を、顎を多少引いて、肯定を伝える。
むにむにとした、柔らかな心地よさを後頭部が噛み締めている。
”結界”の回復効果によって、僕の体力も魔力も、すでに立ち上がって小躍りできるくらいには回復している。しかし、僕は身体を起こさなかった。
「自分だけ生き続ける辛さが、よくわかった。
残される怖さが、よくわかった。
独りの狂気が、身に滲みた。
だから、ずっと生き続けろなんて、言えない」
「オスカーさん、一体、なにを」
小首を傾げて、シャロンは訝しむ。
フリージアの何らかの術式を受けたことは知っていても、どういうことが起こったのかを、彼女は知らないのだ。当たり前の反応と言えよう。
「僕が死んだあとも、他の誰かの元で幸せに生きてくれれば、とも思うけど」
「いいえ。それは有り得ません」
僕の言葉に被せ気味に、それだけは明確に否定するシャロン。
だろうね、と僕は嬉しいやら情けないやらで苦笑いをした。
「私の幸せは、オスカーさんと共にあります。
あなたの亡き後に、私の幸せはありません」
きっぱりと、そう言い切る。
だから、僕は言葉を返す。
「僕は、きっとシャロンより先に朽ちることになる。
それでも、『自分だけは生き続けろ』なんて、もう言わないよ。
シャロンのしたいように。望むように、してほしい」
「——一緒の棺桶に入ってもいいですか」
僕の言葉を受けて。揺れる蒼の瞳で、シャロンはそんなことを言って来た。
「う。それはちょっと狭くない……?
それもシャロンがやりたいようにやればいいけどさ——」
「はい。では、狭くないのをオスカーさんが作ってください。
四季折々のお花が咲いて、お風呂があって、月が見えて。
あなたとわたし、ふたりで安らかに眠れるお墓を」
「すごく快適そう」
墓に風呂ってなんだ。
「死んでも愛してください、だなんて言いません。
生きている間に、目一杯愛してくださいね」
憂いのなくなったシャロンの瞳が、僕の目にうつる。
そして、ゆっくりと天使のような顔が、太ももの上で抱えられた僕に近付き。
音も立てない、やさしい、触れるだけの口づけ。
「——」
「やりたいようにして良い、とのことでしたので」
シャロンは、白くきめ細やかな肌をほんのりと春色に染めて、小首を傾げて微笑んだ。
「わたし、勝ったはずなのに〜。
そっちのけでやってくれるものだよ〜。
なんか負けた気がする〜。どう思う〜? カノンくん」
「俺に話を振るな」
少し離れたところでは、勝者たるフリージアに歩み寄る『勇者』の姿がシャロンの太ももに遮られつつ、垣間見えた。
その空気は明るいとは言いがたい。
敗者たる僕に止める権利はない。
いや、元々なかったものが、より明確になっただけだ。
ようやくその時が来たのだ——フリージアの念願が叶う、その時が。
そう、思っていた。おそらく、誰もが。フリージア以外の、誰もが。
「ね、カノンくん。
わたし、強いでしょう〜。強くなったでしょう〜」
「……ああ」
頷く赤衣。禍々しい短剣を片手に下げ、足取りは重い。
「だから——もしかしたら、稀代の『勇者』様よりも、強くなっちゃったかも、しれないよ〜。
"白の洗礼"」
「なッ——!!?」
驚きの声は一体、誰のものか。
フリージアの足元に再展開した魔方陣が、赤々とした光を放った。