僕と銀の彼女の清算
名というのは、特別に重要な意味を持つ。
名前がついていないものは、『わからないもの』だ。
わからないものは、怖い。畏れの対象だ。
それを正しく認識するために。『わからない』を『わかる』にするために。ヒトはものに名を付ける。
名は理由と言い換えてもいい。わからないものに名を与え、理由を付けるのだ。
何年かに一度、嵐によって水害が起きることがある。
ヒトの力で立ち向かうには、あまりに強大にすぎるその暴威に、ヒトは畏れとともに神の名を付け、奉る。
ひとたび干魃が起これば、そこにも神の姿を見、畏れ奉り贄を捧げる。
子が生まれれば、名を付ける。
それは、わからないモノをわかるモノにする、手の届くところに置くための、理由づけをする儀式だ。
つまり、捉えどころができれば良いのだ。
名さえ知れば、そのものの一端がわかる。
一端がわかれば、そこから地続きな部分も自ずと判明する。
だから、僕が取り戻した自身の名も、自身の根幹を成すものであり――それに地続きになっている記憶の蓋も、そのいくつかが開かれる。
僕は。僕の名は、オスカー。オスカー = ハウレル。
"紫輪"の二つ名で呼ばれる、魔術師だ。
とはいえ。
「はぁ……」
そんなに状況は変わっちゃいない。
多くの記憶と引き換えに『この世界が偽物』である可能性を、副産物である板の残骸とともに得た。
そして今、ようやく自分の名前をふたたび手にした。
それだけと言えば、それだけなのである。脱出に向けての手立ては、相変わらず皆無だった。
「でも」
でも。頑張るだけの活力は得た。いまも、空虚に壊れた胸の内から、やる気が滲み出てくる。それはひとえに、あの蒼い瞳にまた微笑み返されたいからに他ならない。
頭はじくじくと痛み続け、足もうまく動かない。
それでも、また再び最愛に会える可能性が見えたんだから。
「やるかぁ」
バシン!
景気付けに頬に喝を入れ、"結界"に、『偽物の世界の果て』に向きなおる。
なあに、いくら失敗したって構わないのだから、気楽なものだ。
なにせ、時間だけはいくらでもあるのだから。
――
暗転する。
流転する。
逆流する。
遡行する。
撹拌される。
撃摧される。
隙駒の日々が、一度に、一様に、平坦に、脳髄へと叩き込まれる。
いつしか数えることすらやめたそれは、努力と挫折の日々。
それだけではない。無くした記憶、手放した記憶さえも、昏い淵から舞い戻ってくる。
両親を見捨てて一人生き残った記憶、神の名によって血反吐を吐いた記憶、大勢を生き埋めにした昏い昏い記憶。
腑を貫いた記憶、喉を掻き切った記憶、脳を直接かき回した記憶、記憶、記憶、記憶。
『オスカーさんっ』
金の髪を揺らし、僕を振り返る蒼い瞳。
『もうっ、オスカーさんったら』
頬を膨らし、整った顔に眉根を寄せてみせる姿。
『ふふ、オスカーさん』
目を細め、愛おしく壊れやすいものを扱うように、優しく撫で付ける指先。
『――』
そして、まるで眠っているような、物言わぬ屍。
記憶を。
記録を。
体感を。
痛みを。
慟哭を。
絶望を。
「――〜〜!!」
歯を食いしばる。食いしばる歯が粉になるほどに。
耐えられない。耐えられるはずがない。
一つでも厳しい。それが全部だ。無理だ。無理だ。無理だ。
その全てを一瞬のうちに頭に叩き込まれ、追体験させられ、ぐちゃぐちゃに混ぜられ、めちゃくちゃにきりきざまれ、どろどろにとかされ――やさしくみまもる蒼だけを、こころのよるべにして。
――
「オスカーさんっ!!」
それは、ほとんど悲鳴だった。
あれほどまでに焦がれたその人の、ひさしぶりにみた表情は、今にも泣き出しそうな歪んだものだった。
「シャロン」
ぽつり。
言葉が漏れた。
舌は縺れることなく、思考の通りの発声をしてくれる。
ただ、その声はか細く震えてはいたが。
「はいっ、オスカーさん。
あなたの、シャロンです」
半ば僕に覆いかぶさるようにして、その背で何かから庇うようにして、泣き笑いのような顔を僕に向けるのは、僕の嫁――僕の最愛の魔導機兵。シャロン = ハウレル。
あたたかい。
やわらかい。
「ああ……」
ここすらも『偽物の世界』だというのなら、僕はここを離れることはできないと思う。
記憶は、おそらく全て揃っている。シャロンに出会う前のことも、出会ってからのことも、記憶を捨てる葛藤のことも、脳を弄くりまわす感触のことも、耐え難い白熱する目眩まで、すべて。
思い出した記憶による幻痛に苛まれる全身を動かしてシャロンを抱き返すと、僕の腕の中でその蒼の瞳は一瞬驚きを浮かべて、それはすぐにあたたかなものへと変じた。
そんな僕らの耳朶を叩く、音。
手と手を打ち合わせるそれは、一般に拍手という。
骨は打ち鳴らす手の平を持ち合わせていないので、きっと『偽物の世界』のように幻覚の為せる業なのだろう。
「やあやあ〜、おかえり〜」
その感情を感じさせない間延びした声に、僕を抱くシャロンが振り返る。僕が滅多に目にすることのない、厳しい目線だ。
対するは、赤い瞳。その色を見るだけで、口内はからからに乾き、口から心臓が飛び出るのではないかと心配になるほどに僕の鼓動は乱れ、頭は冷たくなっていく。
永らく孤独に閉じ込められた経験は、恐怖として僕の中に根付いている。
「なんだ。帰って来るまで待っててくれたのか。
先に逝ったかと思った」
嘯く声が、震えてはいないだろうか。
平静を取り繕うさまが、滑稽に見えてはいないだろうか。
――シャロンに抱きすくめられたままでは、平静も何もあったものではないということに気付かない程度には、僕は狼狽していた。
幸いと言うべきか、残念ながらというべきか、赤い瞳の主はそんな野暮な指摘を返しはしなかった。
「"童話迷宮"は、わたしの魔力で保たれるものだからね〜。
こっち側の時間は、ほとんど経過してないから安心したらいいよ〜。きみが知りたいのも、そこらへんだよね〜」
無事に生還したサービスに教えてあげるね〜。フリージアはあの空間を作り上げた犯人は自分だ、とネタバラしをする。
銀髪赤目の彼女と対峙するにあたり、気を張っていないと歯の根がかみ合わず、ともすれば意思と関係なしにガチガチと震え出しそうな今の僕の状況を無事と形容するかどうかは議論の余地があるところだ。
「わたしの、この姿を作り出してる幻覚スキルの、言うなれば究極発展系みたいなものなんだけどね〜。
どうかな〜、すこしはわたしの気持ち、共感してもらえるかな〜」
自らの技術。幻覚、その究極発展系だという"童話迷宮"とやらが破られたことに対して、彼女の所作からは別段堪えた様子は見られない。
いまも威圧全開のシャロンに睨み付けられ続け、それでも平然と、泰然と、貼り付けた笑顔は変わらない。
彼女の、フリージアの、気持ち。
『いい加減、解放してほしいんだ〜』
僕にとってはもう遥か以前に思える、それでいて直前の、フリージアの言葉だ。
「味わったことのない人には、わかんないだろうからねぇ〜。
『他人もまた同じ悲しみに悩でると思わば、自らの心の傷はいやされなくても、気は楽になる』ってのもあるけれど〜」
だから、あの『偽物の世界』を作ったのだ、と悪びれもせずに動機を供述する銀の髪。
身勝手に、聞き分けのない僕に対して、自身の絶望の一端を見せつける形で。
僕がこうしてここにいるのはシャロンへの想いがあってこそ、『偽物の世界』を出てからの希望があってこそだ。
それすら、フリージアには無い。永劫の刻を、希望もなく。いや、自らの滅びだけを希望にして。ただ在り続ける。
暗闇で。
独りで。
無力で。
身震いする。
会話によって一時的に脇へと追いやられていた恐怖が、暗闇の孤独が、絶望による支配が、まるで忍び寄る蛇のように鎌首をもたげ、再び僕を射程に捉える。
シャロンを抱きしめたままの腕に思わず力が入るが、彼女は何も言わずにしっかりと抱き返してくれた。ちゃんと手があり、足がある。そしてなにより、あたたかい。
「そりゃ、まあ。
思うところは、あったさ」
フリージアとしては、どうだっていいのだ。
僕が彼女の意思を理解しようが、僕が彼女へ恨みをぶつけようが、――僕が彼女のいう、"童話迷宮"から戻って来られなかろうが。
どうであったとしても、彼女の望みは達せられる。即ち、本来であれば無用な問いであったのだろう。
ともすれば、同じ孤独を経験した賛同者が欲しかった、ということもあるのかもしれないけれど。
あの孤独のなかに、あれ以上の永きに渡り、永劫にさえ迫る時を独り、ただ存在した者。希望もなく、未来もない。
そんな人が死を望んで、それを身勝手にも止める権利は、僕どころか、誰にだってあるはずもない。
――僕自身、何度となく死のうとした身だ。どの口で、というところもある。
でも。
だからこそ。
僕は震える奥歯を噛みしめる。
「共感は、できる。でも——それでも、阻む。
せめて、お前に青空を拝ませるまでは生きていてもらう」
シャロンが息を飲み、そのもう少し後ろでは大きくため息が聞こえた。
ちょうどシャロンの影になって見えないが、いままで静観していた『勇者』のものだろう。
「身勝手だね〜」
「そうさ身勝手さ。僕は僕の満足のために、お前に生きていてほしい」
ただ、それはずっとじゃない。
そんな残酷すぎることは、願えない。
しかし同様に。彼女の一生を、こんなにも暗く閉じた、孤独な場所で終わらせていいはずがない。
「だから、勝負をしよう」
「勝負〜?」
剣呑な空気を纏いそうだったフリージアは、僕の一言で、呆気にとられたように表情が固まった。
よくよく考えると、この表情の変化も彼女の幻覚の操作によるものであるため、実はさほど驚いていないのかもしれない。ややこしい。
「はぁ……面倒なことをしなくとも、お前らをまとめて外に出して、少年たちを見送ってから俺が始末をつければ、それで終いだろう」
勇者の言うことも、もっともではある。
しかし、それでは駄目だった。
これは、僕がフリージアに挑み、それを彼女が跳ね退けるという儀式でもあり――また、勝負自体も目的なのだから。
「フリージア。お前、暇だったろ。
滅茶苦茶、気が狂うくらい、それでも神名で死ねないくらいに、どうしようもなく暇だったろ」
「そりゃねぇ〜」
なにをいまさら分かりきったことを。と、その目は言外に語っている。
僕はそんなフリージアの様子に頓着しない。一度あの赤い目に怯んでしまえば、もう二度と話せる機会はない。そう思うから。
「その間、鍛錬だってしたんだろ。飽きるくらいにさ。飽きても他にやることもない。
"災厄"を倒すために。『勇者』の横に並び立つために。ここから、出るために」
何かになるために努力をし、何にもなれずにここにいる。
自由になるために頑張って、どこにもいけずにここにいる。
どこにも行けはしないのに、さりとてこの場所は彼女の居場所ではなく。
ただ永き時を強いられただけの、籠でしかなく。
「……なにが、言いたいのかなぁ」
聞き分けのない子供を諭すように、彼女の目が光る。
事実、その通りなのだろう。
僕は、意味のないことをしている。しようとしている。
僕にとっても、彼女にとっても、誰にとっても意味のない行い。なんら結末を左右しない行い。
それでも。
彼女が誰にも認められないまま、ただ無意味に無価値に没するなど、認めない。
彼女自身が認めても、この僕が認めやない。
シャロンにしがみつくようにしていた手をようやく離し、僕は自分の両の足で地面を踏みしめる。
そして、胡乱な視線をぶつけてくる赤い目を正面から見返し、吠えた。
「だから、その力を僕に見せてみろっつってんだ!」
「……それでオスカーくんの気が済むなら、お望み通りにやってあげるよ〜。
でも、まぐれじゃないなら"童話迷宮"は同じ方法で突破されるだろうし〜。
う〜ん。怪我したって知らないからね〜」
対するフリージアの反応は、冷めているようでいて、その実饒舌だ。
仮想世界で精神死しかねなかった僕に対して怪我の忠告をするのは、それはそれでちぐはぐである。
もっとも、不要なことでいらぬ怪我をすることはない、という彼女なりの気遣いなのかもしれないが。
「怪我は治るだろ、この結界」
「あは〜。そうだね、そうだった」
本当は、嫌だ。戦うのも嫌だし、怪我をするのもさせるのも嫌だ。
フリージアが死ぬのも嫌だし、シャロンが死ぬのだって嫌だ。
それでも、嫌だ嫌だと言い続けたところで、世界は何も変わりはしないということを、僕は知っている。
だから、この勝負は儀式なのだ。僕が全力で挑み、彼女が終わりを迎えるための——別れの儀式。
「あんたは、邪魔しないよな?」
「好きにしろ。はぁ……若さって面倒くさいな」
何千年と生きているという『勇者』が言うと、含蓄があるやらないやらわからない。
なにより、あんたはいつも面倒くさそうじゃないか。
しかし、それもどうでもいい。あいつはあいつ、僕は僕だ。焦燥を押し殺して僕は今、フリージアと再び対峙する。
はじめて彼女に会ったとき、僕は棒切れを片手に、自らの迂闊さを呪いながら、これでなんとかなるのだろうか、と場違いな心配をしながら棒を握りしめたものだ。
結論から言って、そんなものでなんとかなろうはずがない。『偽りの世界』を脱するために試行錯誤の末に編み出した秘策を用いたところで、有効打を与えるのは難しいかもしれない。そんな相手だ。
『勇者』とは違って神名は二つ、両方とも戦闘向きではない。それでも、目を合わせただけで幻覚空間に僕を閉じ込められるような手合いである。
"全知"がなくとも、その規格外さは肌を通してびしびしと伝わってくる。
いま僕の手の中に、あのときの棒きれはない。
でも、ここにはシャロンがいる。頼もしさでいうならば比べるべくもないし、そしてなによりあたたかい。
僕が手を取ると、呆れたような、苦笑いのようなそんな複雑な表情でシャロンは僕を仰ぎ見た。
「シャロン、手伝ってくれるか」
「はい。もちろんです。
あの小娘を一発どつきます」
あ、シャロンさん目では笑ってるけどしっかり怒っていらっしゃる。
「あはは〜、わたしはどっちでもいいよ〜。
なんだったら、カノンくんまでまとめてだってかまわないんだから〜」
「はッ。もとより無意味な戦いだ、無粋はしない」
鼻で笑うようにして『勇者』は呟くと、言葉通りにフリージアの側から"結界"の脇へと、その身を動かした。
どこからともなく取り出した椅子に腰掛け、足なぞ組んでいる。片足からぶかぶかのブーツが外れ、女性の――魔導機兵の足の曲線が顕になると、『勇者』は表情を多少顰めた。
ぴりぴりと、空気が張り詰めていく。
周囲に渦巻く濃密な魔力が体内に取り込まれ、蠢く。
取り込まれた魔力は練り上げられ、その力を現象と為すため、目覚めの時を今か今かと待ち侘びる。外に出るのを待ち焦がれる。
「だ、そうだ。じゃあ、無意味な戦いを始めよう。相手が倒れたら終わり、だ。
"紫輪"のオスカー = ハウレル。お前を倒して外に連れ出す者の名だ、覚えておいてくれ」
魔石と使い捨て呪文紙を胸ポケットから引き抜く。
すぐ横で、シャロンも同じように使い捨て呪文紙に手を掛けた。
「はぁ〜。男の子だね〜。
それじゃ、まあ。相手してあげるよ、若造」
最後には間延びした調子を無くし、彼女はギラりと赤い目を光らせる。
蛇が獲物を狩るように悠然と。
「いくぞシャロン!」
「はい。いつでも。
シャロン = ハウレル、全力でバックアップします」
「名乗るのが習わしなの? ふ〜ん。
フリージア = ラインゴット、迎え撃つよぉ〜」
フリージアの足元に魔法陣が展開され、光が迸るのと、僕とシャロンが開いた使い捨て呪文紙が紫色の燐光を放ちながら効果を発揮して燃え落ちたのは、ほぼ同じタイミングだった。
使い捨て呪文紙による"肉体強化"が身体を包んだ瞬間には、僕とシャロンは左右に散開して突貫していた。一瞬前まで僕らが立っていた位置に光の針が突き立ったのが契機となる。
目標は、もちろん銀の少女。その引き結ばれたままの口元が、ニヤリと笑みを形作る。
――さあ。無意味な戦いを始めよう。
「はぁ……。
なんだかんだ言いつつ、あいつもノリノリじゃないか。
元気だなぁ……」
ひとり、蚊帳の外の『勇者』が零す。
そのつぶやきに応える者は、この場に一人として居はしなかった。