僕の身勝手な思いと、その代償
しばらく暗いかんじが続きます。
「フリージア」
再度の呼びかけにも、彼女は反応を示さない。振り向きもしない。
ただ耳が痛いくらいの静寂が、あたりを包む。
「『勇者』が”結界”の一部を壊したんだ。
だから、ここで死ぬことはないんだ、もう外に出られるんだ!」
たとえ死がフリージアの望んだことだとしても、僕は。
どれだけ身勝手なことを言っているとしても、僕は。彼女に生きていてほしかった。
「オスカーさん――」
沈痛な面持ちで僕の腕を握るシャロン。
それでも、僕は。
「ここから、出られる……」
振り向くことなく、フリージアが小さく呟く。
「ああ、そうだ。もうここに――こんなところに居る必要はないんだ」
フリージアが生きることに絶望したのは、この狭い空間に孤独で過ごしたからだ、そう僕は思った。
だから、彼女が外の世界への興味を見いだしてくれれば、あるいは。
そう、思っていた。
「それで。出てどうするっていうの?」
フリージアからの、当たり前といえば当たり前な、問い。
出てから考えればいい、だとか。
ひとりじゃなければきっと楽しい、だとか。
その虚ろな声を聞いて、そんなチャチな返答を返せるほど、僕はお気楽な性格をしていなかった。
ありきたりなことで癒せるほど、彼女の傷は浅くない。
いや、傷なんて生易しいモノじゃない。彼女自身が、生きていることが、痛みそのものとなってしまっている。
”不滅”の効果で発狂が許されなかっただけで、その精神はもはやヒトとしての均衡を保つことすら難しくなっていたのだ。
「肉体もない」
「居場所もない」
「待ってる人もいない」
「なにより、生きる気力がないんだよ」
身体は僕がなんとかする、居場所だって、となお悪あがき気味に言い募ろうとして、固まる。
こちらをくるりと振り向いたフリージアの顔は、笑顔だ。
狂気的な、幸せそうな笑顔だった。
自らの境遇を悲観的に語るフリージアの表情には、一片たりとも悲観的な陰がない。
まやかしだ。
これは、彼女が僕らに見せている幻覚の表情だ。
それは識っている。それでも、これは彼女の本心に思えてならない。
彼女の言に固まってしまった僕をちらりと見やり、『勇者』は失望したような——いや、そもそも期待すらしていないのだろうが、お決まりのため息をついた。
『勇者』にとって、フリージアは旧知の間柄のはずだ。それに思うところすらないというのか。
「死にたさを騙し騙し生きて、どうするの?」
「それが一体何になるの?」
「きみが居場所になってくれるの?」
「オスカーくんたちがわたしの居場所になってくれるとして、そのあとは?」
「きみたちが死んだあと、わたしはまた孤独で、死ぬ事もできない」
ぽつぽつと、決して早くない口撃を叩き付けられ、打ちのめされ。
フリージアは一度言葉を切り、ゆっくりと言った。噛んで含めるように、聞き分けのないこどもに言い聞かせるように、ゆっくりと。
間延びした、いつもの調子で。
「いい加減、解放してほしいんだ〜」
そうして彼女は笑顔のまま僕に背を向け——『勇者』に向き直る。
「とはいえ、カノンくんにしか、たぶんわたしは殺せないけどね〜。
嫌な役回りをさせちゃうけれど、わたしのさいごのお願い。引き受けてくれるよね〜?」
『勇者』は答えない。
が、その行動が何より雄弁にその意志を物語っていた。
「"借り受ける——"」
少女を見下ろす『勇者』が呟くと、先ほど"結界"を切り裂いてみせたのとは違う剣が握られていた。
ナイフのような短刀のようなそれは、ただの剣と評するにはあまりに禍々しい。ギザギザの牙のような、黒々した刃がついてる。
その短刀には見覚えがある。
昨日、アーニャを空中で縫いとめ、大通りの方まで巻き込んだ僕の魔術を、魔力を、喰らった刃だ。
「あんたも何してんだ。フリージアを助けることだって出来るだろ」
「それをフリージアは望んでいない」
ピシャリと切り捨てられる。
考慮にも値しないとばかりに。
「でも、あんたは……フリージアとは仲間か友達か知らないけど、旧知だったんだろ!」
「はぁ……。
何を言うかと思えば、それがどうした。
昔どうだったかというのは、今の彼女の望みから目を背ける理由にはならない」
正論だ。
『勇者』の言葉も、フリージアの願いも、正論だ。
「聞きわけろ、少年」
「でも、だけど、死んだらそれまでなんだ。取り返しがつかないんだ」
母の死体、羽虫の集るその骸を前にしたとき、"全知"をもってしてもそれを望んだ形で元に戻す手段は、ひとつもなかったんだ。
死は不可逆で、取り返しがつかない。
そんなことは、僕が言うまでもないことだろう。
『勇者』はその生涯において、僕なんかよりも、何倍、何十倍、それ以上に人の死を見続けてきたはずだ。
ときには戦いで、ときには時の流れの中で。
中には親しい者もいたことだろう。
僕の勝手な推測だけど、彼が頑なに僕らを名前で識別しないのは、もう新しく人の名を覚えるつもりがないことの、もう、親しい人を作るつもりがないという意志の、表れではないだろうか。
それほどまでに死を身近に感じ続けたであろう『勇者』ならばこそ、僕の思いもわかってくれるのではないか。
そんな楽観もあった。そう、楽観でしかなかった。
「手段は考える! だから!
だから、少しだけ待ってくれ。フリージアを救いたいんだ」
ただ、死んでほしくなくって。
取り返しがつかない事態が怖くって。
「そう」
フリージアの声からは間延びした感じが消えて、冷たい声が突き刺さった。
「シャロンちゃんはどうなのかな」
「私、は――」
突然水を向けられたシャロンが、その身をぴくりと震わせる。
「きみも、親しい人から、愛しい人から、置いていかれる存在だよね。
ただ時の流れに取り残されて。自分だけ朽ちることを許されず」
「わたし、は――」
シャロンは僕の右腕にしがみつくようにしながら、一雨来そうな夕暮れ時の空のように歪んだ瞳をこちらに向けた。
僕はそのとき、彼女にどんな表情を返しただろう。
少なくとも、愉快な表情でなかったことだけは確かだ。僕も――そしておそらくシャロンも――考えないようにしていたことを、いきなり正面に突きつけられたのだから。
「きみは、愛しい人から、死に行く人から、『自分だけは生き続けろ』と言われたら、どうするのかな」
シャロンは揺れる瞳で、きゅっと唇を引き結ぶ。
それは、きっと。シャロンが答えたくない答えを口にするときの仕草で。
「――私は、オスカーさんの望む通りに、します」
僕がそう望むなら、一人生き続けることも厭わないと、言い切った。
ずっと一緒にいよう、と彼女に言った僕が、そんな答えをさせてしまった。
「そう」
フリージアは、感情が完璧に抜け落ちた声で、冷たく呟いた。
その側では、『勇者』がまるで見てられないとばかりに、やれやれと頭を振っている。
「それじゃ、――仕方ないね」
興味なさげに呟いたフリージアの最後の一言で、ようやく僕は思い至る。
僕は勘違いしていた。楽観視していた。
僕にとって恩人であるフリージアは、いつまでも味方であると。
僕自身が、その言動が、彼女の悲願の達成を阻む敵となることに、気付いていなかった。それに気づくのが遅すぎた。
僕は、その覚悟どころか、身構えることすらできず。
フリージアの目が光った気がしたのを最後に、僕の視界はいつぞやぶりの闇に閉ざされた。
手足の感覚もなく、地面の感触もない。すぐ側にいたはずの、シャロンの気配も感じられず。
「まさに『頑固者には自ら招いた難儀が一番の教師となるに決まっている』だねぇ〜」
間延びした声が暗闇にこだまする。そう、暗闇だ。僕はただ、孤独な暗闇に放り出される。
――ただふたつ、赤く。赤々と。煌々と灯る赤い瞳だけが、目に焼き付いていた。
――
背中に床を感じる。
ぱちくり。
目を見開いてみたところ、目を開く前と寸分違わぬ真っ暗闇である。
きょろきょろと、あたりを見渡して見ても闇、闇あんど闇。すなわち、何も見えない。
目が潰れたわけではないらしい。
滞りのない魔力の循環は感じられるので、ただ暗いのだろう。
半ばお決まりとなった魔力光を作り出す。
浮かび上がった光景は、灰色の小部屋。
無理解が僕を包む。包み込んで抱き込んで、何もかもがわからない。
まず、ここはどこだ。そしていつだ。みんなは。なんで僕は、僕だけがこんな暗闇にいる。
手足はだるいだけで、何か違和感があるがとくに異常は見られず、普通に動く。
体の節々が痛むが、硬い床に転がっていたためだろう。
その痛みも数秒立っていただけで消えて無くなった。
「うーん……?」
孤独な唸りは、小部屋の床や壁に溶けて消えた。
何が一体、どうなった? "全知"がないので、何の情報も増えはしない。今まであれに頼りすぎていたかもしれない。
"倉庫"から魔道具を取り出すなり、"念話"で状況を確認するなりしよう、と考えて初めて、いつも付けている腕輪が無いことに気付いた。先ほどの違和感の正体はこれか。
直前までのことは思い出せるが、それといまの状況が結びつかない。
僕は死を望むフリージアを止めたくて、……それで。それで、どうなった? フリージアに何かされたのか?
みんなは。そうだ、フリージアは? 勇者は? シャロンは……?
見渡すまでもなく小さな小さな灰色の部屋は、ただただ耳が痛いくらいの静謐で満たされている。
端のほうには骨がいくつか散らばっている。人骨のようだ。
「どういうことだ?」
ここはあの"結界"、"六層式神成陣"内部のままなのだろうか。
あの空間を白く曖昧なものに染め上げていたフリージアの姿は見受けられない。
聞き分けのない僕の意識を刈り取り、彼女はその望みを果たした、のだろうか。
そうして『勇者』は倒れている僕をそのままに、"結界"を後にした――大いにあり得る話だった。
でも、それならば。
シャロンが居ないというのは、おかしい。
うぬぼれかもしれないが、シャロンは目をさました僕のすぐ側にいてくれそうなものなのに。
いつかのように孤独な暗闇のなか、それなりに明るい魔力光の下で独り。
「はぁ……」
『勇者』ではないが、ため息が零れ出た。
フリージアのことを恩人だと思っていながら、その最期を見送ることさえせず。
一体、何をやっているんだ僕は。
――そうして、遅ればせながら、何の気なく。何の心構えもなく、僕は振り向いた。
そこに、シャロンの姿があった。
先ほど思い浮かべた通りに、シャロンは僕のすぐ側にいてくれたのだ。
ただ。より正確性を高めるならば、そこに居たのはシャロンだったもの、だ。
「うそだろ……」
膝をつく。
それなりの勢いでざりっとした地面と接した足が抗議の痛みを伝えてくる。が、感じない。
「嘘だって、そう言ってくれ」
――返事はない。
はじめて出会ったときのように。彼女がシャロンになったときのように。
あのときを彷彿とさせるように壁にもたれかかり、そんな様も絵になる彼女。
肘から先の腕の部分、腰あたりから下の部分が綺麗さっぱり消失し、胸には拳より大きな穴が空いている。
地面から上半身が生えているような形で灰色の壁に靠れている彼女は、それでも超然とした美しさを保ったまま。
うっすらと微笑むように安らかな表情で、しかし綺麗だった蒼い瞳に光はなく、僕を見る事はない。
名前を呼ぶことはない。笑いかけてくれることも、もうない。
――僕は、僕の口から絶叫が迸るのを、煩いなと思いながら聞いていた。