白銀の少女、その望み
「すごく、すっごく待ってたよ〜。
一日千秋じゃ生温いどころか、冷たくって湯冷めしちゃうくらいに。
そうしてそのまま心が凍り付いちゃうくらいまでに。
ずっとずっとずっとずっと、この日を夢見て、この日だけを待ちわびていたよ〜」
距離感を狂わせる部屋の中央には、銀髪赤目の少女の姿。
”夢見”と”不滅”、二つの神名を持つ存在、フリージアに相違ない。
「オスカーさん。あの少女が?」
頷きで肯定を伝える。
厳密には、ああして動いているフリージアの姿は幻影であり、本物の彼女の肉体はもはや骨しか残されていない。
彼女の振る舞いを反映しているのは魔力を用いた幻覚の一種であり、”全知”の前ではその幻覚と、本体である骨が重なって視えている。
部屋の光景も、白く距離感が掴めない幻想的な景色と、暗く狭く骨が散乱する灰色の小部屋、そのふたつが重なり合って視えている。
「オスカーくんはちょっとぶり、そっちはシャロンちゃんだね〜? はじめまして〜」
「ああ、また会ったな」
「はじめ、まして」
”結界”内部に満ち満ちている魔力によって、フリージアのことを感知するには視覚情報くらいしかアテにならない。さらにその視覚さえもまやかしである。
にこやかな顔を形作って挨拶をしたフリージアに対して、反面それを受けたシャロンの返答は固い。
しかし、フリージアの興味はさほどこちらにはないようで、その目はずっと傍らの人物、『勇者』を追っている。
「ほんと〜に久しぶりだね〜。
ずいぶん戻ってくるのが遅いんじゃない〜? カノンくん」
「ちょっと道が混んでてな」
僕らが知らない名で親しげに勇者を呼ぶ彼女に対して、そんな適当なことを嘯く勇者。
フリージアは、くつくつとおかしそうな表情を形作った。
「変わんないね〜、カノンくんは」
名無しのはずの『勇者』にそう語りかけるフリージアと彼は、やはり知己の間柄らしい。
「君は少し痩せたか」
「女の子の扱い方、少しは心得たってことなのかな〜。
痩せたっていうかガリガリっていうか骨が見えてるっていうか骨なんだけどね〜」
実に楽しそうに、けらけらと、けたけたと、狂気じみた笑い声を上げるフリージアに、シャロンは警戒を強めて僕を庇う位置にそれとなく移動する。
それに引き換え、『勇者』は気楽なもので、驚きの様子すらない。
「いや〜、再会の約束をこんなに経ってから果たすなんてね〜。
ロマンチックというにはちょぉ〜っと長すぎかな〜」
後ろ手に手を組み、赤い目を細め、じとーっと『勇者』を見つめるフリージア。
「あんまりに遅いからさ〜。借りてたもの又貸ししちゃった、ごめんね〜」
かと思うと、ぺろっと舌を覗かせてみたりする。
彼女の本体である骨のほうはあまり動いている素振りもないが、僕らに見せる幻覚の扱いは、僕が以前会ったときよりも少女っぽい動きを再現できていた。
「はぁ……。借りたっていうか無理矢理毟り取って行かれた記憶があるが」
「そうだっけ? そんな昔のことは覚えてないや〜」
『勇者』が失ったという名前さえ覚えていたフリージアは、都合が悪くなった途端にすっとぼける。
すっとぼけて、ふふふ〜と笑う。楽しそうに、笑う。
ずっと頼りにしてきた、いわば相棒の、ここが返し時だ、と悟った。
あっけないけれど。物事は基本的に、そう劇的なものではない。
案外、こうして別れのときは突然で、あっけないものだ。
「っ——!
オスカーさん、前に出ないでください。危険です」
「いいや、大丈夫。借り物を、返しに行くだけだよ」
フリージアからの借り物。
もとは『勇者』の持ち物であり、フリージアから又貸しされていたもの。
僕は掛けていた”全知”の眼鏡を外す。
途端に、”結界”内の正しい視覚情報をも捉えていた視界は消え失せる。
重なり合って視えていた、暗く、灰色に汚れ骨の散らばる狭い空間は霞のように消え去って、白く曖昧な距離感のなかに、ぽつんと少女が立っているだけの空間へと収束する。
思えばこの半年ほど、”全知”には世話になったものだ。
文字通り血反吐を吐いて、”全知”という神名を扱えるだけの魔力を獲得するために使ったのはもとより、シャロンとともに地上に出られたのも、蛮族に襲われていたゴコ村を助けたのも。
アーニャと出会ったことも、蛮族を殲滅して仇を討てたことも。
アーシャ、ラシュを助け出せたことも。
数えだせば、枚挙に遑がない。
それら全ては僕とシャロンとで成したことではあるけれど、”全知”の力あってこその部分も、やはり大きいのだ。
返すのが全く惜しくないか、と問われれば否と答えるだろう。
しかしこれは本来、僕には——人間には過ぎたる力だ。
それがあるべき場所に還る。それだけのことだった。
一歩、二歩とフリージアに向けて歩みを進める僕を、彼女はその赤い瞳で正面から見据える。
”剥離”でぱぱっと汚れを落とす。
この”剥離”の魔術は、僕がもともと得意としていた魔術だ。
元来得意でなかったものであっても、ここ最近はいろいろな魔術を使ったものだった。
それも”全知”の構造理解による権能である。
これからは、新しい魔術を見よう見まねで再現したり、大魔術の無詠唱行使なんかは、もうできないだろう。しかしそれも、できなかった元の状態に戻るだけのことだった。
——もう、十分だ。
いままでありがとう、"全知"。
「ありがとう、これにはとても世話になったよ」
フリージアの幻影に、直接眼鏡を手渡すと白い手がそれを確かに受け取った。
わずかに触れた肌は幻覚の作用に依るものか、いつぞや彼女が恐れていたような骨の質感なんかは微塵も感じられない。
「きみの助けになってくれたようで、わたしとしてもとっても嬉しいよ〜。
こうしてここに彼を連れてきてくれたんだもの〜、オスカーくんにはいくら感謝してもし足りないからね〜」
『勇者』をここに連れて来た段階で、彼女の望みはもはや叶ったも同然である、と。
”全知”を返した今でもわかるくらい雄弁に、彼女の表情が物語る。
「どうだったかな〜、神の名の力を行使してみた気分は。神の力を欲しいがままに操った感覚は。
ずいぶん、たくさんのものを得られたんじゃないかな〜。
大事な存在も、復讐も、居場所も、得難き友も」
「私はそれ以前から、オスカーさんのものですっ!」
朗々と語るフリージアに、彼女を警戒して僕にくっついて来ていたシャロンが口を差し挟み、僕の右腕を自らの胸元にぎゅっと抱き込んだ。
その反応にフリージアは一瞬きょとんとしたかと思うと、その表情を綻ばせた。
「そうだったね〜。
そうか〜、オスカーくんはそっちの道を、選んだんだね〜」
「変に意味深なことを言わないでくれ。僕にはもう”全知”がない。
そういう運命だとか大きな駆け引きだとかとは無縁に生きたいもんだ。
”全知”に大変世話になったのは確かだよ。
いろんな人と出会って、いろんなものを作った。何度か魔力を吸い上げられすぎてぶっ倒れたりもしたけどな」
「へぇ〜。いまのきみの魔力量で倒れるくらいってなると、"神名開帳"でも使う局面があったのかな?」
「ご明察だ。
"神名開帳"って存在を知らないときに、魚を釣ろうとしたときに使ってぶっ倒れた」
なかなか苦々しい記憶である。たしか、ラシュにいいところを見せたかったとか、そんな考えをしていたように思う。
"神名開帳"という存在を知るきっかけにはなったのだけれど、シャロンにはめちゃくちゃ心配されるわ、カイマンからは口移しで回復薬を飲まされるわ、散々な目にあったのだった。
まあその"神名開帳"も、もしくは神名自体にさえ、今後の人生で関わることがあるかどうか怪しいものだった。
「はじめての"神名開帳"をそんなところで使うなんてさ〜。やっぱり、きみは変な子だね〜」
くすくすと笑うフリージアは、僕から受け取った”全知”の眼鏡をそのままそっと大事そうに受け取ると、いつかのように彼女の顔には大きめのその眼鏡を掛けてみせ、にこりと微笑んだ。
そうして、もう僕らとの語らいは終わったと示すかのように。
ゆっくり、ゆっくりと『勇者』に近づいて行く。
「きみが無事で、ってほど無事じゃないみたいだけど、生きててよかったよ〜。
ほんと〜に、よかった」
フリージアが、恩人が、『終わり』に向けて、近づいていく。
「ほんと〜に心配したんだよ〜」
一歩一歩を、ゆっくりと『赤衣の勇者』に向けて。
「”世界の災厄”も、やっつけたんだね〜。さすが勇者様だね〜」
僕らとすれ違い、『勇者』に向かって言葉を紡ぐ。その嬉しそうな声音で語りかける背に、声を掛けることができない。
「わたしたちがここでこうしていたのは、無駄だったけれど。無駄になってしまったけれど」
それは『勇者』に向けてのものなのか、独白なのか。
『勇者』は歩み寄るフリージアを迎えるでもなく、ただ静かに見ている。
そうして、その背がようやく『勇者』のもとに辿り着く。
「これで、やっとわたしも終わり」
はい、とフリージアから返された”全知”の眼鏡を、ただ頷いて受け取る『勇者』。
何千年越しの、彼女にとっては何万年越しの貸し借りは、今日この時をもって清算される。
いつもの間延びした調子をなくし、少し俯き気味になるフリージア。
その表情はこちらから窺い知ることはできない。
「これでやっと、わたしも終えられる」
彼女は、大きく息を吐いた。
「やっと、やっとだよ。これでやっと、わたしも死を迎えられる。
長かった、あまりにも永かった。
独りで、暗くって、狭くって、ずっとずっとずっとずっと。
つらかった。生きてるのがつらかった。つらかったんだよ。
こわかった。ずっとこのままでいるんだって思って、ずっとずっとこわかった。
堪えて耐えてたえてたえてたえて絶えられないことに耐え続けて。
声の出し方も、表情の作り方も、ぜんぶぜんぶ忘れるくらい長い永い間、ずっとひとりで。
できることなんてなんにもなくって。わたしたちがここにこうしていることの意味なんて、これっぽっちもなくって。
いくら強くなったって無駄で。強くなってるかどうかだってわかんなくって。
それを活かすためにここに入ったはずなのに、それを活かす機会なんていつまで経ってもこなくって。
いろんな死に方を考えて。やってみて。絶望して。また考えて。
みんなのこと思い出してみたりして。
わたし、何をやったらこんなひどいことになるんだって全部恨んだりしてみて。
誰かがわたしを助け出してくれることを夢見てみたりして。
おかしいよね、”夢見”のわたしがありもしない希望を夢見てまた絶望して。
そんなことを何十回何百回繰り返して、やっと、やっとだよ。
だから。ね、カノンくん。
——わたしを、殺して?」
『勇者』は変わらず、その長身から間近に立つフリージアを見下ろしていて。
こちらからは彼女がどんな表情をしているのかを窺い知ることはできない。できないが、きっと朗らかに、幸せそうに。そんな顔をしているのだろう。これから死のうというのに、だ。
『勇者』には数々の神名がある。
”不滅”を持つ彼女に終焉を齎す手段でさえ、きっとあるのだろう。
終焉。
死ぬ。
死。
恩人が。
彼女の望みの通りに。
僕の脳裏に過るのは、大事な人。大事だった人たちの、その死に顔。
矢を突き立てられた姿。
臓物に大穴を穿つ串刺し槍の上での姿。
その、苦悶に——絶望に塗れた、その表情。
「フリージア」
口をついて、その名前が出た。
隣でシャロンが、僕の腕をより強く抱きしめる。
それでも、僕は自らの口から流れ出て行く少し震える声を、止めることができなかった。