僕と赤い男 そのいち
絶対的強者、『赤衣の勇者』。
そいつとの出会いは、穏やかなものとは言い難かった。
そいつに気付いたのは、たまたまだった。偶然の産物でしかない。
だがそれも、そいつの言葉を借りれば『運命』であり『宿命』であり――もしその場での遭遇を回避したところで、どこかで出会い、同じ結末を辿ることになった、のだろう。
そいつは、ただただ異質だった。
「オスカーさん。あなたのシャロンがただいま帰りました」
「ただいまなの」
『妖精亭』から二人が帰ってきたとき、僕はたまたま"全知"を使った作業をしていた。
持ち込まれた魔道具の修理依頼を果たすためだったように思う。
そしてたまたま、このとき僕は視線をあげて帰ってきた彼女らの方を見た。
扉を開いてアーシャを待っているシャロンと、何か大きな包を抱えたアーシャ。
そしてそのさらに後ろ。通りの一角に、異質な存在が、ただ佇んでいた。
赤い。沈みゆく夕日を受けて、なお赤い。
そいつの第一印象は、その身に纏うローブとも、外套とも、マントともつかないボロ切れの色だ。
しかし異質なのはそこではない。
「な……ん……」
声が漏れる僕に、シャロンがはてな、と小首を傾げる。彼女の金の髪が夕日に照らされさらりと一筋流れる。
そいつの異質にシャロンが気付いていないという事実が、僕をまた総毛立たせる。
そいつには、片腕と片足が無いようだった。
欠けたその部位を埋めるように、ただの細い木の枝が挿してある。
まるで泥人形に、そこいらで拾った木の枝をそのままぷすりと突き刺した程度に無造作に。
それでいて、そいつは片足と木の枝で、平然と路地に立っていた。
なんの苦もなく、だ。ともすればそのまま走り出してもなんの不思議もないくらいに自然に、不自然な状態を維持している。
そいつは、でかかった。道ゆく大人たちよりも、ゆうに頭一つ分くらい大きい。
年齢不詳。性別は男であるらしいが、そもそも人間であるのかどうかも怪しい。
しかしそれでも、そいつを見咎める者は誰もいない。優れた探索能力を持つ、シャロンでさえも。
道ゆく人は一瞥すら投げかけず、ただ衝突を回避するように避けるのみだ。
そして何よりも僕を驚愕させたのは、そいつの持っているモノだった。
手に何かを持っているわけではない。
それは、そいつの存在に刻み込まれたモノ。
神名。
世界が認めた、世界が与えた、神のごとき力を宿す名前。
たとえば、僕の持つ"全知"の眼鏡がそうであるように。
たとえば、フリージアの持つ"夢見"や"不滅"がそうであるように。
それはヒトを超えた力だ。
物の来歴や生物の思考に至るまで、すべてを識るモノであったり。
本来は不確定の未来を、夢という形で体験するモノであったり。
肉体は骨と成り果てようとも、滅ぶことも狂うことも叶わないモノであったり。
いずれも本来ヒトが持ち得ない、反則級の能力である。
それを、そいつは。その赤い男は、その存在に宿している。
《"守護":第5階位。護る力。防御に類する行動の効力大幅上昇、コスト大幅減少》
《"調律":第5階位。統べる力。抗魔力および抵抗の意志により効力変動》
《"雷帝":第8階位。雷の力。神の雷の使用権利。雷に類する行動のコスト大幅減少》
《"超越":第4階位。超える力。世界の枠組みを超える権利。空間に作用する効力上昇》
《"薬楽":第8階位。癒し壊す力。毒や薬への理解力および作成能力、耐性の極限上昇》
《"略奪":第4階位。奪う力。能力、思考、記憶などを奪い、自らのものとする。抗魔力により効力変動》
「――はは……」
乾いた笑いしか出ない。
意味不明だ。いや、意味はご丁寧にも"全知"が補ってくれているから理解はできるのだが、それが現状の認識と繋がらない。
笑いが出るだけ、まだ余力があると皮肉ることもできるかもしれない。が、嬉しくもなんともない。
そして、いくつもの神の名を持つそいつ自身の名は、まるでどこかに落としてきたかのように。
ぽっかりと、空欄だった。空洞で、空虚で、がらんどうだった。
わからない。わからない。
やつが何なのか。
何が狙いなのか。
何故今そこにいるのか。
わからない。
わからない、が――そいつがひとたびその気になったなら。
どんなことが引き起こされるかもまた、わからなかった。
そいつは。シャロンを見、そして次に僕を見た。
どこまでも空虚なその目で。僕を見た。
僕がそいつを見て固まっていたのは数秒の出来事で、そしてそれは神の名を持つ者にとっては、致命的すぎる隙だった。
背中から吹き出す汗。冷えていく指先。そして、叫ぶ。
「"全知"の神名において、あれへの対処の筋道を示せッ!」
"神名開帳"。
"全知"の持つ力、その全てを解放する。それは、全てを識るモノによる、最適解の提示だ。
全てを識るということは、現在の観測結果から、かなり精度の高い予測を立て得る。未来視にも迫るほどまでに。
予測された未来は、残像のように現実に重なって、全てが一瞬のうちに、僕の脳内へと直接なだれ込む。
そいつは、わずかに目を見開いた。
《きょとんとした表情だったシャロンが、扉の外へ勢いよく振り向いた。右手を外に向けて構える。沈みゆく夕日を受けた金の腕輪が、眩しく輝く。》
《アーシャが頭を抱えて蹲り、その拍子に大きな包みが床に落下し中身をぶちまける。色とりどりの果実を使ったパルタが、床に衝突した衝撃でぐちゃりと潰れる。》
《僕の体は、扉へと迫る。》
《そいつが動く。いや、動いた? 視えない。視えない。》
《僕が伸ばした右手が、シャロンの左手をとり。》
《「あ」と声なき声で、その唇を驚きの形に、その瞳を決意の色に変えた彼女が僕を引っ張り。》
《すぐ横合いに突然現れたそいつの腕が、短剣を握るその腕が閃く。》
《シャロンの胴体がその白刃を吸い込むように。まるで抵抗なく両断され。》
《血も、何も、零れ落ちないその傷から彼女の命だけが零れ落ち。》
《その胸から上と下を離れさせたシャロンは、最期に僕に微笑んで。》
《シャロンと僕の魔力を循環させて発動した"転移"で、僕だけが無事に逃げ果せた。》
「うわぁああああああああああああああああぁぁぁぁ――!!!!」
慟哭を、絶叫を。僕の口が発する。
それは、"全知"による未来予測の僕と、その一瞬前にいる僕が同時にあげた喚き声。
「えっ、なにっ、オスカーさまっ!?」
僕は、扉に向けて駆け出す。
アーシャが怯えている。二つ括りに結わえられた髪が、しゃがんだ拍子にくるんと揺れた。
《きょとんとした表情だったシャロンが、扉の外へ勢いよく振り向き、右手を外に向けて構える。沈みゆく夕日を受けた金の腕輪が、切なく輝く。》
《「ほう」と一瞬、笑ったかのように視えたそいつの姿が掻き消える。》
《僕がシャロンに手を伸ばし。》
《シャロンは僕を抱きすくめる。まるで、覆いかぶさるように。》
《その彼女の重みは多少の衝撃あと、少しだけ軽くなり。》
《足元に転がる彼女の首から、僕に向けた最期のほほえみを見る。》
《彼女の亡骸に、その掌に残された魔力を使い、僕だけが無事に"転移"を果たし――》
駄目だ。認めない。
否定する。僕は"全知"の最適解を否定する。
そんな結末は認めはしない。そんな最適解は選ばない!
ズキリ
痛い、痛い。肉体からの抗議か。頭が割れそうに痛む。
怖い、怖い。生命としての本能か。絶対的強者に相対する恐怖で身が竦む。
警鐘で、恐怖で、倦怠で、絶望で、歯の根が噛み合わない。
僕が、僕だけが逃げ果せるのでは駄目だ。駄目なんだ。
もう僕は、自分だけが助かることに耐えられない。
身近な人の死を、許容できない。できはしない。断じて。
あいつの攻撃が来るのは、シャロンが何らかの行動を起こしてからだ。
防ぐのは――その軌道すらわからないのでは、ほぼ不可能だろう。
シャロンがそちらを見ることなのか、なんらかの牽制を行おうとすることなのか、何が行動の発端となるかがわからない。
それらにさえ、実はなんの関係もないかもしれない。それでも。
「僕を見ろ、シャロン!」
それでも、叫ぶ。
彼女に向けて左手を伸ばす僕だけが、その視界に映るように。
『最適解』と違う結末を選びとりたくて、僕は手を伸ばす。ただ、最愛に向かって、手を伸ばす。
きょとんとした表情だったシャロンは、そのまま自らに手を伸ばす僕の手をとった。
「はい。あなたのシャロンです――えっ、わわっ」
掴んだ柔らかな手をぐいと力任せに引っ張ると、バランスを崩すシャロン。
蒼い瞳が驚愕に見開かれるのを、ゆっくりと"全知"越しに捉える。
彼女を半ば床に引き倒すようなかたちになるが、頓着していられない。
「あ、あのあの。オスカーさんっ、今日はそのっ、情熱的なのですね。
――あの、オスカーさん?」
「はッ――!、はッ――!」
肩で息をし、後ろで何か言っているシャロンを背中に庇う。
汗はもはや全身から吹き出し、茹だり切った頭はいっそ意識を手放しかねない。
ワンワンという耳鳴りは止まず、心臓はばくばくと張り裂けそうだ。
さらに絶望的なことに、事態は何も好転していない。
それでも、僕の後ろでシャロンは生きている。
僕も、まだ生きている。
扉の外を、そいつを見据える僕。
そいつは元いた場所から、動いてはいなかった。
1秒、2秒。
しゃがんで包みを抱えこんでいたアーシャが、ちろりと顔を覗かせたのと、目があった。
「少年」
そいつが言葉を発したと気付くまで、さらに数秒を要した。
そいつは――その赤い男は、沈みゆく夕日を受け、実に億劫そうに言葉を紡ぐ。
「ひぅっ!? ふぁ……」
情けない声をあげてアーシャが尻餅をついた。
男が話しはじめたあたりから、シャロンやアーシャにも認識できるようになったようで、僕の背中越しにシャロンが動こうとする気配があった。
しかし、僕はその握ったままの手を離さない。床に倒されたまま動くに動けないシャロンから困惑が伝わってくる。しかし、柔らかくて暖かな、その手を離すわけにはいかなかった。
「そんなに人形が大事なら、今すぐ壊したりはしない」
人形と、そう言った。
シャロンを見て、ただそれだけのことで彼女が人間ではないと看破した。あれだけの数――5つ、いや6つか? それだけの神名を持つ男だ、もはや何でもありなのかもしれなかったが。
人形という形容に異議を唱える余裕など、ありはしない。ただ、僕は彼女の手を強く握りしめる。
「――」
「オレに敵対しない限りにおいて、だが」
空虚な視線は僕らを冷たく見下ろしているようでいて、その実全く興味なさげですらある。
「それよりも、少年」
面倒くさそうに、いかにもだるそうに。男は続ける。
「その"全知"、どこで手に入れた?」