xxhappy dxx
[One - Dinner]
くるくると、丁寧に、根気よく。
木べらでビーフシチューをかき混ぜる。
いつものセール品の割って入れるタイプのルーではなく、いいデミグラスソース缶を今日は使った。
国産のビーフをふんだんに入れ、隠し味に赤ワインも入れて。
弱火で時間をかけて煮込むのが美味しく作るコツだ。
ぐつぐつと煮えるこげ茶色の液体。
鍋底からぽこぽこと湧き上がる泡は液面で重そうにはじけていく。
私の背後、台所につづく八畳一間の部屋では、恋人がゲームに熱中している。
サバイバルもののこのコンテンツを、恋人はもう一年以上飽きることなく続けている。
休日となると朝から夕方まで、目がしょぼくれてもかまうことなく。
狭い空間にバリバリと発砲音が鳴り続けるのは異様だ。
そのたびに画面上ではころころと敵らしき兵士が死んでいく。
それが延々と続くのだ――延々と。
同棲して二年、こういう休日にはいまだに慣れない。
いや、正直言えば落ち着かない。
本当は、恋人と二人、ジャズかヒーリングミュージックでも聴きながら、おいしいコーヒーでも飲みながら、ソファに座って映画を観たり読書をしたり、二人顔を見合わせて意味もなくふふっと笑ってみたり、そういうふうに過ごしたい。
だが現実は違う。
ここは安アパートで、畳部屋には炬燵を一つ置くスペースしかない。
炬燵布団は食べかすやしみで薄汚れている。
そして壁際のテレビ画面に目が釘付けの、私に背を向けている恋人といったら――。
音楽はメジャーなポップスしか聴かないし、コーヒーは苦いと言って飲まないし、本は活字ものは読まず、というか本を気軽に購入できるほどの収入もないフリーターだ。
誕生日も、クリスマスも、バレンタインも。
私は恋人と満足に楽しんだことがない。
お金がないし、恋人はそういったことに興味がない。
それでも今日は一年ぶりのバレンタインで、少しでも、と夕食作りに精を出していた。
「ああ、腹が減ってきたなあ」
恋人がつぶやく声が聞こえて振り向いた。
「そろそろ夕食にする?」
私の問いに、恋人はただ目を細めただけだった。
視線はいまだ迷彩色ばかりの画面に注がれている。
それでも、腹の方から手を入れぽりぽりと掻きながら、片手で器用にゲームをセーブし出したので、心得たとばかりに、私はシチュー皿を取り出しにかかった。
いつもは使わない薄手のもの、滑らかで艶のある純白の皿だ。
電子音がぷつりと止んだ。
あれほど耳を騒がせていた喧噪の源が消えると、なぜか私の心は穏やかになるどころか不安に満ちた。
ぎい、と古い床を鳴らせ、いつの間にか恋人は私の後ろに立っていた。
「お、今夜はビーフシチューか」
肩ごしの鍋の中をのぞいた恋人に、私はやや早口で答える。
「うん、そうなの。ビーフシチューのショコラ色が今日に……」
ショコラ色が今日に、バレンタインにぴったりだと思って。
だが恋人は私におかまいなしに冷蔵庫を開けサイドのほうを物色しだした。
「どうしたの?」
振り向いた恋人の手にはケチャップのボトルが握られていた。
「それ」
どうするの、と問うよりも早く、恋人は蓋をあけ、赤い液体を一気に噴射した。
ショコラ色の液面の上を、グロテスクなみみず状の赤いラインが何本ものたうっていく。
侵略だ――。
なぜか「侵略」という言葉一つが頭の中にぽつんと浮かんだ。
「こうしたほうがおいしいだろ? カレーもビーフシチューも、俺んちではケチャップ入れるからさあ」
絶句する私に頓着することなく、恋人は大量のケチャップを投入し、嬉しそうに、意気揚々と木べらでかき混ぜ始めた。
鍋の中身は恋人自慢の家庭の味に早変わりし、恋人の鼻歌は耳慣れたゲームのテーマソングで、手に持つ木べらには飛び跳ねた赤い汁が付着していた。
―― Is this a happy dinner, or an unhappy dinner ?
[Two - Drink]
「ああ、疲れた」
そう言って肩をもみ首を回す恋人の目の前に、「はいどうぞ」と僕はマグカップを置いた。
コトン、といい音をたて、続けて白い湯気とともに甘い香りが立ち上がった。
「……なにこれ」
肩をもむ手も首を回す動作もやめないまま、じろりと目線だけを動かした恋人。
そこに純粋な愛が感じられなくなったのはいつからだろうか。
「ホットチョコレートだよ。あんまり甘いの好きじゃないのは知っているけど、今日はバレンタインだし、いいかなって思って買っておいたんだ。飲んでみて?」
恋人は目線を僕からマグカップにやり、しばらくじっと考え込んでいたが、ふいに立ち上がるや、無言でポールにかけてあったダウンを羽織った。そして乱暴な仕草で鞄をつかむや、玄関へと歩いていく。
僕はあわてて恋人を追いかけた。
玄関に座りブーツに足を入れる恋人の背に怒りを感じ、僕は焦った。
「ごめん、嫌いだった?」
それでも何も言わない恋人は、立ち上がるや、吐き捨てるように言った。
「あんたっていっつもそうだ」
「え?」
「小賢しい」
「……え?」
「私のためにしていることじゃないだろ。誉められたくて愛されたくてしているだけだろ」
「そ、そんな」
そんなことはない。
そう断言しようとして、しかし恋人の強い視線の前で僕は言葉を失った。
「リトマス紙みたいに出されたものを、飲めるわけがないだろ」
ドアを開け出て行こうとする恋人に「どこに行くの?」と訊くと、「チョコレートの香りのしないところ」と言い残し、恋人は姿を消した。
僕に反論の余地を与えず、恋人は部屋から出て行った。
後に残ったのは飲まれなかった一杯のホットチョコレートと、甘い香りだけだった。
部屋に戻りしばらく放心していたが、僕は冷えたマグカップを手に取り一口含んでみた。
とろりとした舌触り。
鼻を突き抜けるカカオの香り。
甘さとほろ苦さが絶妙の一杯。
「……なんだ、美味しいじゃないか」
僕は一人だけの部屋で、最後の一滴まで飲み干していった。
時間をかけてゆっくりと。
同じ感覚を共有できない恋人に哀しみを覚えながら――。
口内には粘りだけが残った。
味も香りも残らなかった。
―― Is this a happy drink, or an unhappy drink ?
[Three - Dream]
私は雪山で一人遭難していた。
スキーをしていたのだが突然の吹雪に視界を奪われ、気づけばコースアウトしていたのだ。
斜面から滑り落ちて墜落死しなかっただけ幸運だった。
今はおあつらえむきの山小屋を見つけ、なんとか暖炉に火をつけ、冷たいウェアを脱ぎ埃っぽい毛布に身をくるんでじっとしている。
窓の外は真っ暗で、白い礫のような雪が斜めに角度をもって右から左へ走っていくのが見えるばかりだ。
「今頃、みんな心配しているだろうなあ……」
会社の同じ課の若人有志でここに来ていた。
スキーは学生時代に少しかじった程度だ。
もともと運動神経にも自信がない。
だが、それでも今日ここに来たのは、あこがれの先輩も参加すると知っていたからだ。
それにしても。
大木の丸太を組み合わせて作られたこの小屋、ドラマに出てきそうな、なんとも典型的な代物ではないか。
暖炉もそう、窓枠の形も雰囲気も、このシチュエーションも、何もかも。
ということは、ドラマの鉄板、この後の展開といえばもちろん……?
と、突然、いかにもな木製のドアが音を立てて開けられた。
そこに現れたのは、期待通り、憧れのあの先輩だった。
雪まみれの先輩はゴーグルをはずすと、真剣な瞳のままこちらに向かってきてやにわに私を抱きしめた。
「無事でよかった……!」
先輩は抱きしめる腕の力を緩めると、私の顔をもう一度あらためてじっと見つめた。
「俺、お前のことが」
その目を見れば、先輩が言わんとすることは察せられた。
だから私はあわてて手を上げて制した。
「先輩。ちょっと待ってください!」
私は脱いでいたウェアのポケットから小さな箱を取り出し、先輩に渡した。
「……これは?」
「あの、チョコです。今日はバレンタインだから……」
それ以上はもう言えなかった。
先輩の唇で塞がれたからだ。
初めてのキスは凍えるほどに冷たかった。
だけどすぐに氷解した。
とろけるほどに熱いキスで私と先輩はお互いの愛を確認し合った。
「……あのー、いい加減どいてもらえる?」
はっとして頭をあげると、隣に座るのは知らないおじさんだった。
一瞬にして頭が冷めた。
酔いも醒めた。
私はさっきまで飲み会に出ていたではないか。
バレンタインなんて社会人には無関係といわんばかりに、顔もよく知らない人の送別会に強制参加させられていたではないか。
帰宅途中、電車に揺られているうちに寝てしまっていたようだと、この場の事実が物語っている。
おじさんはよれたスーツの肩のところを嫌そうに拭った。
そこには私がつけたと思わしきよだれの跡と、粉雪のようなフケが付着していた。
しみの部分がてろりと光っている。
車内の光に反射してややピンク色に光ったそれは、あきらかに私のつけているグロスによるものだ。
電車が停車し、おじさんは席を立ち降りていった。
謝るタイミングを完全に失い、私はおじさんの去りゆく背中を窓越しに眺めるしかなかった。
―― Is this a happy dream, or an unhappy dream ?
[Four - Day, Die]
上空、突き抜けるように澄んだ青を、少年は見上げている。
ふわふわと浮かぶ雲に手を伸ばしたが、もちろん掴めるものは何もない。
もう一度手を上げる気力は少年には残されていなかった。
日の出とともに始まった爆撃は今も耐えることなく続いている。
大音量と地を揺るがす震動で目覚め、取る物も問わず外に出て、少年は自分の幸運を知った。
見える範囲にあるほとんどの家屋はすでに爆破され、元の原型を失っていた。
人の命もほとんどが消えていた。
その中には少年の家族も含まれている。
うめき声も叫び声も、駆ける音も、何もかも。
空を飛ぶ飛行機の旋回音と、爆弾の破裂音が潰していく。
無数の空飛ぶ金属は夕暮れ時の群れる蝙蝠を懐かしく思い出させた。
しかし、朝焼けの中、黒銀の飛翔体は、この世の終焉を告げにくるという天使を最も彷彿させた。
そして今、少年は住み慣れた自家に戻り空を見上げている。
四方八方を走り回り、少年は悟った。
自国側につづく橋は破壊され、道は完全に封鎖されていた。
自国軍の戦車も兵士の姿も見当たらず、頼れる者は見つけられなかった。
もはやどこにも逃げる道はなかった。
以前ここにやってきた日本人が言っていた。
俺の国にはバレンタインという行事があって、その日は女が好きな男にチョコレートを渡すのだ、と。
チョコレートを知らない少年に、男は完璧な笑顔を作ってみせ、背負う袋の中から赤い包装紙の板チョコを取り出した。
そしてなんてことのない素振りで、丸ごとのそれを少年に渡した。
それはひどく甘美な味がした。
甘く、美しく、かぐわしい。
まさに甘美と呼ぶにふさわしい味だった。
憐みでも偽善でも、男の渡した赤い包みは、こうして最期を迎える少年の舌にきっちりと再現できるほどに強い印象を残していた。
「日本人はよほど恵まれているのかな……」
こんな時だというのに少年はふいに疑問に思った。
「それとも清らかで無欲な人たちなのかもしれない」
あんなに尊いものを他人に与えることができるのだから。
自分だったら、もう一度もらえたらきっと後生大事にとっておくだろう。
あの日は誰にも奪われまいとその場ですべてを腹に収めてしまい、ゆっくり味わうこともできなかったのだ。それが今になってなぜか悔やまれた。
もう一度もらえたら、今度はとっておきの日がくるまで大事にしまっておきたい。
そう――今日のような日に食べるために。
「ああでも……。生まれた場所でこうして死ねるなんて、僕だって最高にツイているんじゃないか」
すでに少年のすぐ上には、視界を覆い尽くすほどの爆弾の雨が降り注がんとしていた。
あれほどの量なら、きっと痛みもなく一瞬にして死ねる。
少年は満足げに微笑んだ。
-- Today is a happy day, a happy die, isn't it ?