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筆を執れ!  作者: 楠木千歳
二 その少女、曰く付き。
9/23

彼女の登場。(二)

 普段の篤郎ならば、そんな些細なことで大げさに驚いたりはしない。だが今日は、この時だけはなぜか違った。腹底から這い上がってくる得体の知れない寒気を、必死で閉じ込める。

 ぱっちりと見開かれた史奈の二重の目がこちらを捉えた。二度、三度とゆっくり瞬く。


 そうしてへらり、と彼女は笑顔を作った。作ったという表現がまさにぴたりと来る、そんな笑い方だった。

 史奈は結んだ髪の先に指を絡めながら口を開いた。


「今日はもうお昼食べちゃったんですよう……また今度の機会に」

「ああ、そうやな……って、そうじゃなくて」

「え、脇谷先生がお昼奢ってくれる話じゃないの?」

「ちゃうわなんでそうなる」


 その会話で空気がふと緩む。ただそれは彼が勝手に感じたたけのものであって、彼女にとっては何の変化もない事かも知れなかった。

 奢ってくれる話じゃないとしたら、じゃあ何ですか? と首をかしげた史奈に「いつから居ったんや……」と尋ねると「二分前十二秒くらいからいたよなあ」と史奈ではなく剣星が呑気に返してくる。


「二分前? 気づいたなら言えやお前、心臓止まるかと思ったぞ俺は!! ていうか秒まで数えんやろ普通!!」

「黙ってた方がのちのち面白そうかなと思いまして。ご覧の通り、当たりましたが」

「人で遊ぶな!」

「えっ私、脇谷先生が俺って言ったところ、初めて見たかもしれない! ちょー感動ー!」

「お前は黙れ!!」


 柄にもなく声を荒らげてしまう。ねー、と顔を見合わせる史奈と剣星が腹立たしい。

 篤郎はグラスに残っていた水をぐっと飲み干した。脳が少しだけ落ち着きを取り戻す。深呼吸をする。よし、平常運転だ。

 そんな篤郎を他所に、剣星と史奈は穏やかな会話を始めていた。


「吉田先生の作風、好きなんですよー。言葉が生きている、いや踊っているとでも言うのかな。その感じがして。一度は校正作業前の原稿を拝みたいなと思ってたんです」


 念願叶いましたー、とご満悦な史奈に対して、「やや、それはありがたいお言葉」と剣星は赤面した。飄々としている彼には珍しい一幕だ。


「校正って、助っ人で入れるもんなん?」

「あーなんか、適正審査で一応合格点をクリアしてるって言われてたので。人手が足りない時はよろしく、と声をかけられてたんですよ」


 ひけらかすような素振りは一切なく、史奈は淡々と告げた。


「……凄いんやな、望月さんって」

「どこがですか」


 彼女はけらけらと笑ったが、笑い事ではなかった。採用基準点のクリアならばともかく、合格点は即戦力で使えるレベルを指す点数の事である。何種類もの適正でその基準を満たすのは、決して易しいことではない。



 化け物。


 今までまるで相手にしてこなかった噂話の一言が、現実味を帯びて篤郎に迫る。


「吉田先生はどうして、旧仮名遣きゅうかなづかいを使用されてるんです?」


 そんな篤郎の心中など露知らず、史奈は剣星へインタビューを開始した。いつの間にか彼女の手元には小型のノートと赤い万年筆が完備されている。相変わらず準備がいい。


「んー、よく聞かれますがね、それ」


 ぼさぼさ頭をかく剣星。暫く不明瞭な言葉で唸っていたが、史奈に引く気がないと分かって観念したようだった。適当な言葉で濁すのをやめ、ひとつため息をつく。


「まず一つ訂正しておくと、『旧仮名遣』を使っているという自覚は儂には無いんですわ」

「と、おっしゃいますと」

「新旧で言えば確かに『旧』になるんでしょうが……儂が使っておるのは『歴史的仮名遣れきしてきかなづかい』であって、今使われているものと比べてただ単純にふるいものを使ってる、という訳では無いんですよ」


 史奈がぴた、と動きを止めた後、はっとした表情でなるほど、と呟いてノートに何かを書きこんだ。


「失礼しました。吉田先生が使われているのはあくまでも『歴史的仮名遣』だということですね?」

「そういう認識でいて下さると有難いですな。現代仮名遣いが定着して久しいが、儂にはどうにも馴染まんのです」

「そうなんですか」


 先ほどの史奈の褒め言葉が、意外と効いているのかも知れなかった。彼がこんなに自分の作品語りをしているところを、篤郎は初めてみた。彼の作品の大ファンだ、という人間以外からは、旧仮名遣いは面倒がられこそすれ、褒められる事はまずないからだ。


「曖昧、いや、儂から言わせれば適当のような気がしてならんのですよ。現代仮名遣いは原則、発音表記であります。しかし助詞の類は『はひふへほ』の『は』と表記するわけで、つまりそこだけ未だに歴史的仮名遣を踏襲しておる……名残り、と言ってしまえばそれまでなんでしょうが、ね」

「ああたしかに、言われてみれば」


 言われてみれば、確かにそうだ。今まで気にかけたこともなかった篤郎にとっても、目から鱗の観点だった。

 

「仮名遣いの問題は、存外根が深いモノとして識者しきしゃの間では扱われておるそうな。他にも一昔前なら、熟語漢字の書き換えなども問題になっとりましたよ。せっかくの表意文字が、書き換えによって意味を為さなくなっている、とね」


 剣星は史奈にちょっと貸してくれ、とペンを借り、近くにあった紙ナプキンに「破たん」と書き付けた。そしてさらにその左隣へ、「破綻」と書いた。


「本来、これは左側の『破綻』という漢字で表記されていた。やぶれる、という字とほころぶ、という字の組み合わせです。ほら、なんとなく意味が通じますわな。ところが漢字制限が行われて以降、正しい表記とされておるのは『破たん』の方です。一体全体どこから『たん』がやって来たんだが、さっぱり分からんと思いませんか? ……儂の考えすぎかも知れませんがね」


 ただこの問題は、手書き文字よりもパソコン文書や自動変換の機会が増えるに従って、あまり重要視されなくなってきたとも言われているらしい。先送りとも言えますが、と剣星は一応言い置いた。


「『破たん』だと、なんだか硬派なイメージというか、危機感が崩れますね」

「お、よう分かっていらっしゃる。ひらがなはその特性上、柔らかく見えますからな」


 気づけば篤郎もその話に引き込まれていた。以前自分も「何故旧仮名遣いを使うのか」ということは一度質問したことがあったような気がするが、確かその時は「癖みたいなものですな」とはぐらかされた記憶がある。

 元来多くを語る男ではない。故にこういった彼の話は非常に貴重だったりする。



「言語の歴史は、国の歴史だと儂は認識しとります。文字も然り。漢字の大多数は渡来したものではありますが、ひらがな、カタカナを発明し表音表意の組み合わせによって多様な書き言葉の文化を織り成してきたのは日本人であります。このまま現代仮名遣いごと消滅させてしまうには、なんとも惜しい。だから儂が使うのですよ。読みにくかろうと、何だろうと」


 史奈はこくこくと頷いた。彼女のノートには例の、お世辞にも綺麗とは言えない大きな文字で殴り書きが増やされた。


「とまあ、全て父の受け売りですがね」

「お父様は、なにかされているのですか」

「日本語研究家とかいう事をしておる、この時代にゃ珍しい変わり者ですよ」


 残りの味噌汁を飲み干しながら、剣星は穏やかに言った。


「他人からは変人と言われる父ですが、儂は尊敬しております。だから、この道を選んだ」


 史奈の目に尊敬の色が浮かんだ。「素敵ですね」とにこやかに言うと、ノートを懐にしまう。聞きたい事は聞けた、といった所だろうか。


「望月さんは、何で彰考会に入ったんでしたっけ」


 今度は逆に剣星が尋ねる。篤郎も興味を惹かれた。噂話以外で、彼女の生い立ちなどを知るものは皆無に等しかったからである。


「あれやろ。お父さん病気になって働き手がおらんのやろ」

「え? ……ああ、はい。そうそう。そういう事になってましたよね」

「『なってた』?」

「いえ。そうです。そんな感じです」

「……なんや適当やな」


 普段ならば不明瞭でもそこで終わらせるのが温厚と言われる篤郎だった。だが彼をさいなむ僅かな猜疑心と強い興味が、次の一言を転げ出させた。


「望月さんは夢とか、あったんか?」

「ありましたよそりゃあ。父の影響か、昔は物書きになりたいとずっと思っていましたし、出版社に就職してからも――」


 そこではた、と史奈の動きが止まった。


「望月さん?」


 呼びかけたが答えはない。

 うわ言をつぶやくかの如く、彼女の唇が「しゅっぱん、しゃ……」と音のない声を紡ぐ。

 異変に気づいた剣星が史奈の顔を覗き込んだ。


「どうかされたか。顔が青いように見えるが」


 だが史奈はまるで応じなかった。石像のように固まったまま、一点を見つめて動かない。そこだけ空間が切り取られ、時が止まってしまったかのようだった。篤郎はなにか自分が悪いことを聞いた気分になり、とてつもない罪悪感と後悔の念に駆られた。


「悪い、望月さん、話したくない事もあるよな? ええんやで別に。ここには複雑な過去持ちもいっぱいおるし……」

「違う」


 先程までとはまるで異なる冷たい温度で言い放たれた一言に、二人は一瞬にして凍りついた。

 史奈は泣き出す直前かのように目を伏せた。小刻みに震える指をぎゅっと内側に握りこみ、彼女は呪文のように何かを呟き始める。


「あたしが働いてたのは……本屋じゃ、なかったんだ。英語。出版社。校正。作家。万年筆。どうして、あの人は」


 矢継ぎ早に繰り出される単語に、二人はなす術もなく呆気あっけに取られた。お互いに視線を交わしたが、解決策は出てこない。

 彼女の顔面は最早青を通り越して紙のように白かった。指先が震えていた。目の光が消えていた。


「知らないと。思い出さないと」


 そう呟いた彼女は何かに取り付かれるようにしてゆらり、と立ち上がる。


「すみません。急用ができたので、私はここで」

「ちょっと、望月さん」

「来ないで!」


 鋭利な刃物で切りつけるかのような痛い一言が、二人の喉元に突きつけられる。金縛りにあったかのように、引き留めようとして浮き上がりかけた腰と出した右手は空中で縫いとめられた。

 その声は思いのほかよく響いた。食堂にいたすべての人間の動きを止めた。


「ごめん、なさい」


 はっと我に帰った史奈が、小さな声で謝った。


「でも、ごめんなさい。本当に……すみません」

 

 完全に、史奈は自分たちと違う世界にいた。彼女はもう一度深々と頭を下げると、脱兎のごとく駆け出した。途中何度もテーブルにぶつかりそうになりながら。


「何だったんだ、今の……」

「……分からん」


 取り残された二人は、しばらく言葉を失って呆然と顔を見合わせた。


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