彼女の登場。(一)
脇谷篤郎は凝り固まった肩をほぐしながら、何気なく時計を見やった。
「うわ、もうこんな時間か」
降り続く雨の音をBGMにして、執筆すること数時間。強くなったり弱まったりを繰り返している雨音だが、止むことはなくずっと降り続けている。鬱陶しい季節だと妻が不機嫌に嘆いていた事を思い出して、篤郎のテンションも少しだけ下がった。家に帰って当たられるのは御免である。
執筆室にかかっている、古びた大きな文字盤のアナログ時計は十二時ちょうどをさしていた。
今日もこの部屋のひとけはまばらだ。篤郎の見える範囲に人間はいない。黙々と作業し続けていたので、少し人恋しくなった。窓にぶつかる雫の向こう、白く煙った外を見るように、彼は目を眇める。普段から活気があるとは言えない街並みも、今日は一段と閑散として見えた。
秒針の音が無ければ、自分が生きているのかどうも怪しく思えてしまう、そんな静寂。
このところ、隊長以下『幹部』と呼ばれる肩書き付きの人々が浮き足立つようにして忙しそうだ。彼らはこぞって、執筆室を空けていることか多かった。加えて、ネット戦略部主任の日野渉が外出届けを出していたのを見た篤郎は「こりゃ何かあるな」と漠然とした当たりをつけていた。奥の一角で引きこもりをしている日野がこの拠点にいないというのは、大抵隊内に大きな動きが出る時である。
企画もあるしな、とついでのように思い出した。再来月の頭に予定されている、番外増刊号である。小説誌あさの葉にも目新しい動きをだそうと、「日本四季織物語」を模した季節アンソロジーの初号を出すことになったのだった。インターネットではそれに纏わるさまざまな憶測や情報が飛び交っているが、篤郎たち作家は企画本体のこと以外は何も聞かされていない。
彰考会で予測不可能な事態はしょっちゅうの事なので、柔軟に対応していこういう心構えだけは出来ている。
この会が発足した時、自ら肩書きを辞した老兵には経験くらいしか取り柄がない、と心の中で自虐した。
「ま、こんなもんやな」
今日書いた分をざっと見返しながら、篤郎は充足感に浸った。
全体の進捗は上々、これならば今週中には企画短編の方へ取り掛かれそうだ。黒い革の愛用手帳とにらめっこしつつ、彼は一人で頷く。
デジタルのスケジュールが世間一般では王道になったとはいえ、篤郎はどうしても予定管理を手書きから切り替えられないままでいた。就職祝いにと祖父から貰った手帳をすっかり気に入ってしまって以来、篤郎は同じ型の物を毎年買い込んでは使っている。
篤郎はもう一度伸びをしてからくるり、と椅子をまわし、隣、篤郎にとっては背後のシマにいる……はずの人間に声をかけた。
「吉田くん、もうそろそろお昼やで」
はず、というのには訳がある。
その姿がまるでこちらからは見えないからである。パソコンの画面のせいだけではない。最低限隣の人の席へご迷惑がかからない程度にしか片付けられていないそのデスクは、書類や資料集の類があちこちで雪崩を起こしていた。キーボードはその上で不安定さを誇るように乗っかっている有様だ。彰考会参謀、名和優介ほどの神経質さは篤郎も持ち合わせていないものの、さすがにここまで雑多な中で自分なら仕事はできない、といつも思う。
だがこの状況はもはや日常風景の片隅と化していた。もしすっきりさっぱり片付いている日が来たとしたら、それは彼がこの場を辞した時くらいのものだろう。むしろ違和感のあまりわざと散らかしたくなりそうだ、などと下らないことを考えた。
「吉田くーん」
返事がないので、再度呼ぶ。するとようやく、「た、こ、やき…………」という謎の呟きが耳に入ってきた。
「まあたたこ焼きの夢か。絶対寝てるとは思ってたけどな」
見えない理由その二。
それは彼が、机にうつ伏せて寝ているからに他ならない。
彼は篤郎の知る限りいつ見ても眠りこけている。ある時は涎を垂らし、またある時はその貴重な資料たちをくしゃくしゃに敷いたまま。一体どのような時間の使い方をすればそれだけの睡魔を職場に連れ込めるのか、篤郎には理解しかねる。だが原稿の締切だけはぎりぎりながら遵守しているようなので、ますます謎多き人物だ。謎の多さだけに関して言えば、剣士の望月史奈といい勝負かもしれない。
「おーい、いい加減起きろー」
呆れ口調を可能な限り抑えつつ、篤郎は席を立ってそばまで行き彼を揺すりにかかる。自分の腕が積み本の一角に当たって床へと落ちたが、知ったことではない。後で拾わせよう。自業自得というものだ。
むにゃむにゃと顔をしかめて彼がいくつか呟いた。やがてうっすらと目が開く。焦点が合い、彼の瞳がこちらを捉えた。
「……脇谷、殿?」
「睡眠中に何時代を旅行して来たんや」
思わず速攻突っ込んだ。
面長の顔面にしっかりと紙の筋をつけながら、むくりと彼が起き上がる。ぼりぼりと頬をかいて、次いで伸びをした。ようやくのお目覚めだ。
「これはこれは……失敬。また眠りこけておりましたか、儂としたことが」
「儂としたことがって、あんなあ……まあええわ、はよ行かな昼飯食いっぱぐれるで」
ゆったりと着流し風に着付けた隊服に、依然眠そうな目。どことなく浮世離れした、不思議な雰囲気。
「昼飯か……たこ焼きですかい?」
「……多分違うと思うけど」
「そりゃ残念」
もう一つ伸びをして、彼は立ち上がった。自分勝手にすたすたと歩き出すその背中を追いかけて篤郎も執筆室を出る。が、どうしても先ほど落とした本のことが気になってしまい、結局引き返して吉田の机の上へと戻しておいたのだった。つくづく甘いな、と自分に苦笑した。
* * * * *
吉田剣星は、外見年齢不詳とよく噂されている。だが実は脇谷篤郎と最も年齢層の近い人間である。
篤郎は彼と行動を共にする事が日頃から自然と多かった。年齢が近いのはもちろんあるが、なにより彼といるのが飽きない、というのが大きな理由である。
食堂についた彼らは、ご飯に味噌汁、梅干しと漬物と焼き魚という、一番定番の定食を頼んだ。
ここも人はまばらだった。雨だと外出者が減るのでどうしても混みやすくなる場所のひとつだが、今日は空きを見つけるのも容易い。その代わり熱気がないので、がらりとした空間はやや肌寒くもあった。
ちなみに開口一番メニューのどこにも書いていないのに
「たこ焼きは?」
と剣星に聞かれた研修生が真面目に困っていたので、篤郎が一発頭をはたいておいた。
「ここのご飯は白米、雑穀米、玄米と選べるけども、吉田くんはいつも玄米やね」
「ええ、まあうちはそれで育ったもんですから」
いただきます、と二人揃って手を合わせた。ほかほかと立ち上がる湯気に癒される。
「美味いなあ」
「美味いですねえ」
喉を通って腹の底に沁みる、熱々の味噌汁がたまらない。最近急に冷えた気温も手伝って、なおさらだ。まだじゅうじゅうと音を立てている焼き魚の香りも空腹を刺激する。箸を入れるとほろり、とその身が崩れてさらに湯気を立てた。
「どうしてこう、素朴なのに美味いのかねえ」
「しんぷる、いず、べすとってヤツでしょうやっぱり。何でもそうですわ」
器用に骨を外しながら剣星は答える。彼の魚の食べ方は綺麗で、その育ちの良さを感じさせる。
「……吉田くんみたいに綺麗に魚食べられる人って、このご時世にどれくらいおるんかな」
思ったことが知らぬうちに口から出ていたようだった。ばちぱち、と細い目をしばたかせた彼が首をひねる。
「はて、考えたこともありませんが……そもそも、そんな綺麗でしたかね」
「ああ。少なくとも私の知る範囲では」
過去、著書の一場面にどうしても必要で本格的に日本料理の作法を勉強したことのある篤郎である。実はずっと洋食一辺倒の食生活をしてきた篤郎だが、それをきっかけにして日本食にハマり今では完全に和食派だ。
ただ、魚は幼少期にあまり食べつけなかったせいか、今も綺麗に食べられないのが篤郎にとってはちょっとした悩みであった。箸を正しく使えることだけが唯一の救いである。
「小さい頃知らなかったもんを、大人になってから身につけようとするのはなかなか大変なことやからね」
「三つ子の魂百までとは良く言ったもんですな。そうとなれば親に感謝ですわ」
骨から綺麗に身を剥いだ剣星はその一口をご飯とともに放り込んだ。
「でも、脇谷センセも良い舌はお持ちだと思いますよ」
「私が?」
剣星は鷹揚に頷いた。
「昔誰かが言っとりましたよ。濃い味になれればなれるほど、舌が馬鹿んなって薄味の良さが分からなくなるもんだ、と。幼少期に壊れた舌は戻らんという説もあるそうです」
「へえ」
二人の間に束の間の沈黙が降りた。黙々と箸を運んでいると、その静けさに割り込むようにして後方で賑やかな声がした。
篤郎が視線をやると、校正部の面々だった。電子端末を使った、書き込み式のデジタル校正を導入するかしないかに関して、熱い討論を交わしている。
「つまり何が言いたいかと言いますと」
「ん?」
「塩味だけのこの魚を美味しく食べられて、良かったですねえという話ですわ」
「あ、ああ、成程」
すっかり終わったつもりでいた会話の続きを述べられて、篤郎は慌てて頷いた。勝手に打ち切ったようで少々バツが悪い。
「あ、吉田先生、ちょうど良かった」
会話の隙をついて、声をかけてきた人物がいた。入ってきた校正部の一人、佐久間琴音だった。
「こちら、企画短編の第一校正終了原稿です」
「おろ、もう終わったのですか」
驚きに眉を少しだけ上げた剣星がわざわざ箸を起き恭しくそれを受け取った。
篤郎はあっけに取られて手元の原稿を見る。
「吉田くん、もう企画出したのか」
「ええまあ。たまたま前回ボツったネタが今回の分にお誂え向きだったんで。ちょいと設定弄って書き直しまして」
食事そっちのけで紙束をめくり始めた彼を、篤郎は少々面白くない気持ちで眺める。計画をきちんと建てて執筆を進めなければ、すぐにカツカツになってしまう篤郎にとっては羨ましい話である。サボっているように見える人間であればあるほど、要領がいいのがお約束とはいえ。
今回の剣星の原稿は、見たところいつもに比べて随分と赤が少ない。旧仮名遣いを多用し、現代人には少々耳慣れない言い回しを使う彼の書き口は、他人とは一線を画し独特である。篤郎はその軽妙なリズムに、剣星らしさや「日本語らしさ」を感じられるのが好きだ。だがいかんせん、校正している人間が現代人なのでニュアンスが伝わりづらいことも多かった。赤マークが増えるのはそのせいだ。
「ふむ、ふむ……脇谷センセ、つかぬ事を伺いますが」
一通り最後までめくり終えた剣星が顔を上げた。そして彼はぺらり、と一番上の一枚を篤郎によこす。どこか違和感を覚えたが、原因が分からないまま篤郎は首をかしげた。
「……どうかしたん?」
「校正部に、こんな勢いのある字を書く人がおりましたかね?」
剣星の指がトントン、と原稿の一部を叩く。言われて違和感の正体が発覚した。
「ああ、それでか……なんか字が大きいとは思ったんだ」
「そうでしょう、校正部はみんな、丸まっちくて細い字の子ばっかりですから。これはなんというか、そのう」
言い淀む理由は分かる。つまり例えようとすると、あまりいいイメージには繋がらないということで。
「悪く言えば、男子学生のような、とでもいうか?」
「ええ。やっぱり勢いがあると言うか」
二人はもう一度原稿に目を落とした。
「校正部は確か、全員女性やなかったか?」
「記憶ではねえ。となると、校正部でない別の誰かが手伝った説が有力ですな」
「それしかないな。しっかし誰かいな、校正なんか任せられる人って――」
「あたしですー」
突如として可愛らしい声が割り込んだ。ぎょっとして篤郎は声のした方へ顔を向ける。自分が箸を持っていた手の方、つまり、右隣を。
「字汚いってよく言われるんですよね、読みづらくってすみませんねー」
いつからそこにいたのか。
まるで初めから座っていたかのように、それが当然であるかのように頬杖をつき、ニコニコして、「美味しそうですねえお味噌汁」などと呑気にのたまう少女の姿があった。
自然体のくせに、気配を全く感じさせなかった不自然さ。
思わず寒気が背中を走った。
「も、ちづき、さん」
自分の掠れた声が、その名前を紡ぎ出した。