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筆を執れ!  作者: 楠木千歳
二 その少女、曰く付き。
7/23

彼女への疑惑。(二)

 茶色とワインレッドの中間に位置するような、上品さを内に秘めた万年筆。

 それを、史奈の細い指が弄ぶ。


「いつも持ち歩いてるの?」

「ええ、大体は」


 特に意味は無いけどお守りがわりです、と言った史奈の目がとても優しかった。彩香はふと、史奈に初めて会った日のことを思い出す。

 その万年筆は着の身着のまま転がり込んできた彼女の、唯一と言っても過言ではない持ち物だった。


「いつだった? 史奈ちゃんがうちに来たのって」

「そうですねえ……いまから半年くらい前、でしたかね。初夏の頃、じゃなかったかな?」





* * * * *






 彰考会のある古ぼけたビルの前で立ち尽くしていた、望月史奈の第一発見者は、他でもない和泉彩香だった。

 ジーパンにTシャツ一枚のラフな格好で、ぼんやりと建物を見上げていた彼女に、思わず声をかけてしまったのを覚えている。


 第一印象は「やつれているな」だった。肩を超す髪は縛られもせずぼさぼさだ。褪せた色のTシャツは、ところどころ破けてさえいるような代物だった。

 時刻は夜中の十一時をまわる頃。ただでさえひとけのないこの場所で、こんな時間帯に女性が薄っぺらな格好で突っ立っていること自体が異常だ。

 そもそも、彩香がここへいたこと自体も奇跡に近かった。その日は偶然講演会のクレームが相次いでしまい、対応に追われていたのだ。

 そのせいで日中業務が大幅に滞ってしまった。幹部隊員の夜食を買出しに、副隊長自ら外に出たという、滅多にないシチュエーションが全ての始まりだった。

 運命というものがあるのなら、こういう事を言うのかもしれない、と彩香は今になって思う。


「あ、すみません。『しょうこうかい』さん、で、あってますか?」


 そう言って、へらり、と中身のない笑い方をした疲れきった顔の少女は、彩香が彰考会の人間だと分かるとポケットからよれた手紙を引っ張り出した。


「なんか、知人? が、これを持っていって『しょうこうかい』の人に渡して欲しいと」


 その紙を見て、同じく疲れきってぼうっと惚けていた頭が冷水を浴びせられたように一気に冴えていくのを彩香は感じた。


「これ……どこで」


 履歴書に似た様式のそれには見覚えがあった。


「入隊手続き用紙、よね」


 それも、隊長の承認印が既に押されているものだ。本来ならば面接試験、及び適正審査を通った人のみに発行されるはずの用紙だ。

 しかもその配属コースは、他に比べて適正検査を何種類も受けなければならない『剣士』になっていた。


「望月史奈? あれ? それあたしの名前だ」


 なんでだろ、と考え込む少女に、フリーズする彩香。とりあえず連れ帰った事務所内でも、もちろん蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「隊長! いつこの判を押したか、覚えてますか!?」

「はて……記憶にありませんね……」


 隊長が首を傾げれば。


「前回の採用試験名簿にはありませんよ」

「偽造品では?」

「いえ、紙はうちの特注ですし印鑑の鑑定結果は一致しています、指紋も確認済。ほぼ間違いなく隊長のものです」

「じゃあどうしてこんなものが」


 登場からして謎ならば、彼女に関わるすべてが謎だった。


「年齢は二十六、ですか……」

「ええ。一応。童顔で背が低いもんで誰も信じてくれませんけどね」

「ご両親は」

「父が病気をしまして、母と二人で田舎へ引っ越しました。今は一人暮らしをしてたと思うんですが、ちょっと今家の鍵を落としたか何かで、帰れなくて」

「何かで、とは……まあいいです。今までの職歴は、書店のアルバイトとありますが」


 名和優介が聞き取り役をかってでた。だが彼女は質問に対して、ところどころでちんぷんかんぷんなことを言う。その理由はすぐに判明した。


「んーと、実はそのへんの記憶が、曖昧で」

「記憶が曖昧?」


 学生時代の記憶は鮮明であるのに対し、社会人になってからの記憶は驚くほど断片的にしか覚えていないらしい。昨日今日の事でさえ、はっきりとは分からない、と。


「読んだ本の中身とかは、忘れてないみたいなんですけど」

「若年性アルツハイマー……」

「可能性はありますよねえ」

「となると、あなたの人間性に関しての信用度はいまとても低いですよ、分かっていますか?」

「それは今自分で喋ってて思いましたよ。あ、もしかして、それのせいかな? なんかどうも、クビになっちゃったみたいなんですよね、バイト」

「……原因に心当たりはない、と」

「ええ、まるで覚えてないです。覚えていないと言えば、ここにどうして来たのかもよく分からないんですよねえ。あ、頼まれたんだっけ?」

「それは誰にですか」

「んんんん……」


 会話はどこまで行ってもちぐはぐだった。呑気とも取れる態度で、時折あくびをまじえながら首をかしげる史奈に尋問係の名和優介他、幹部たちは苛立ちを隠しきれない。一回精神科医につき出そうと結論が出かけた……がしかし、それを遮ったのは隊長の一声だった。

 

「いえ、引き取りましょう」

「隊長、何を仰っているんですか?!」

「元はといえば私の過失。その入隊手続き用紙が仮に盗まれたり精巧に偽造されたものだったとして、それは私の責任です。彼女には何の罪もないでしょう。仕事を奪われ、帰る家も無いのであれば、彼女を預からせてください」

「しかし。彼女の素性がわからない以上は……」

「それならせめて一夜の宿だけでも」


 隊長の強い決意の目の前に、一同は何も言えなくなった。が、得体の知れない人物をここに置いておくことも、隊員達としては許し難かった。盗みや偽造の嫌疑がかけられている人間である。


 隊長の気持ちも幹部たちの気持ちも、どちらも彩香には痛いほど分かった。だがその上で彩香はなぜか、史奈を見捨てる気にはなれなかった。

 初めて出会った瞬間に、史奈の浮かべたがらんどうの笑顔が、どうしても脳裏にこびり付いて離れなかったのである。


 隊長、幹部、両者一歩も引かず、無言の時だけが過ぎた。多数決ならば隊長の負けだろうが、しかし隊長は隊長、トップの決定権を持つ。張り詰める緊張の糸、そこへ静寂がのしかかる。

 ただただ視線を泳がせる史奈を救うべく、彩香は打開策を思案した。


 双方が納得し、なおかつ彼女を優位に立たせなくてはならない。だが情報だけでは苦しい。ならば。

 実力に託してみるしか、ない。


「それならば」


 彩香の静かな呼びかけが糸を切った。

 静観していただけたった彼女に注目が集まる。彩香は史奈の目を見据えて、言い切った。


「今から適性審査を全員の前でやる、というのはどうでしょうか。読書記憶はあるようですし、本屋店員として働いていたならば、ある程度の基礎知識の記憶もあるはずです。彰考会員として相応しいのか、実際に及第点を出して証明すれば文句はないでしょう?」


 全員がどよめいた。隊長でさえ目を丸くしていた。「できますか?」と尋ねられた張本人の史奈は、少し考えてからやはり中身のない笑顔を貼り付けて「ありがとうございます」と言った。

 またちぐはぐな会話だと一同は思ったが、結果を見た彼らはそこではじめて彼女の礼の意味をようやく理解する。


「せっかくお情けをかけていただいたので。それには報いないと、ね」


 ペーパーテスト、販売他実演共に満点を叩き出したのだ……英語の質疑応答を除いて。

 







* * * * *








「あれが日本語で聞かれてたら、全部答えられてたのにな」

「英語のテストに『もしも日本語だったら』なんていう仮定が通用するわけないでしょう? 実際外で外国人に話し掛けられてみなさいよ」

「そりゃそうですけど」


 笑った顔はあの日よりも随分と、人間味を増したものになっている、と思う。だが目の奥の光は、戻らないままだ。

 彩香は話を別の方向へ持っていくことにした。


「それにしても、本当に店員さんが日本人のところって減っちゃったわよね」

「はい。あたしにとっては頭痛の種ですよ」


 心底嫌そうに史奈が言う。どうやら英語を上達するつもりは今後もないようだ。


「こないだニュースで見たんだけどね、現代人は、昔小学校で教えていた程度の漢字すらすべて書けるのか怪しい人も多いんだって。そんなんじゃ送りがなとか、絶対間違いだらけよね」


 彩香がわざと明るく言ったのとは裏腹に、史奈の雰囲気がふっと陰る。ややあって、彼女の口からその質問は飛び出した。


「……副隊長」

「なあに?」


 声色からただならぬものを感じ、綾香は落としていた視線を史奈の方へ向ける。

 史奈は何かを逡巡しているようだった。

 行儀悪くわらび餅をつつき回していた手が止まっていた。


「副隊長は、どうして……彰考会に、いるんですか」



 ああ、来たな。


 そう思った。彼女がこの所周囲の人間にそればかりきいてまわっている、という噂は当然『お茶会女王』の耳に到達していた。史奈の受け入れに反対した人物の中には、それ怪しい行動に出始めた、とばかり彼女のことを嗅ぎ回っている人間もいるようだ。彩香はこそこそ探るような真似が大嫌いだった。


 だからこそ。

 出来るならば僅かでも、この手でその噂を、払拭してあげたかった。


 今日史奈を見かけたのは偶然だったが、お茶をしようと声をかけたのにはそういう意図もあったのである。

 予測していたとは悟らせないように、出来る限り自然体で。首をかしげて考え込む振りをする。



「そうねえ……それを聞いて、どうするの?」


 あくまでも純粋な疑問に見せかけて、核心をついた。

 史奈がぴくり、と肩を揺らす。


「もし、あなたがここにいることに引け目とかを感じてその質問をしているなら……その必要は、まるで無いわ。理屈とか理由が、そんなに重要なことかしら」


 史奈は動かなかった。いや、不意をつかれて動けないように見えた。視線は机に落ちたままだ。

 どこからともなくかさり、という音がした。近くの書棚の、「あさの葉」が一冊倒れた音だった。


「難しい理由なら、後からいくらでもつけられる。伝統を絶やしたくないとか、その義務があるとか。もちろんそれは立派な志の場合もあるし、否定するつもりはない。私にもあるわ。でもね」


 そんな事は、押し付けられるものでも、誰かから得られるものでもない。

 彩香はそう思っている。



「好きだから守りたい。大事だから守りたい。最初の衝動は、それだけの理由じゃダメなの?」


 受け取ってくれると、信じて。

 ありったけの想いを彼女へ、ぶつける。


「あたしは日本という国と、その文化が好きよ。言葉も衣服も、食べ物も。しきたりやお祭りも含めて全部。三種類の文字を使い分ける器用さも、文字に意味を見出す遊び心も、そしてそれを、素敵だなあと感じられる心も」


 史奈は黙って聞いている。

 彩香は不安で震えそうになる自分の手をしっかりと握りしめた。


「そういうのを語るのは日本語が一番いいと思ってるの。だってずっと、この国と共に生きてきた言葉だもの。そこに息づく魂や拍動、そういったもの全てを、私は後世に残してあげたいわ。好きだから。愛しているから」


 使われなくなった言葉は、あっという間に死んでしまう。失ってからでは遅いのだ。死んでからでは、生き返らせることは至難の技だ。


「魂……」


 ぽつり、と史奈が呟いた。それは静かに畳へと吸い込まれた。


「そう。魂。昔の人々が編み出した知恵や感性。それらの総称と言ってもいいかもしれない」


 史奈は口の中でその単語を転がしているようだった。やがて小さく頷いて、なるほど、と言う。


「あなたも、知っているはずよ」

「……何が、ですか」



 彩香はとびきりの笑顔を作って見せた。これは自信を持って言える、彼女を初めて見た時から、そこだけには確信を持っていた。


「ふみちゃん、本を手に取る時も読む時も。ページを開いて字を追う瞬間が、すっごく愛おしそうだもの。その気持ちがあるなら、ここにいていい理由に十分よ」


 彩香の目は真っ直ぐ望月の目を射抜いていた。史奈は二三度、ゆっくりとその目を瞬かせた。



 やがて。



 史奈の口から、ふ、と乾いた笑いが漏れた。


「そんな顔、してましたか」

「ええ。誰かに向ける作り笑いとは全然違う、すごくいい表情をね」

「嫌味ですか?」

「そうは言ってないわ」


 二人して笑う。

 次に彩香の目を見た彼女の目に、迷いは、なかった。



「そうよ、その顔。好きなことを好きだと言いきれるその顔よ」


 わらび餅の粉は付いてるけど、と頬に手を伸ばして取ってやる。史奈はぱっ、と赤面した。可愛い。


「あのねふみちゃん」

「なんですか?」


 どうしても伝えておきたかったことを、言わなければと思った。今なら言える気がした。


「あたしはね、いつでもあなたの味方よ。もちろん隊長や名和ちゃんや、ほかの人たちもみんなだけどね。約束する。どんな事があってもあなたのピンチには駆けつけるって」


 僅かな沈黙に不安になる。だがその数秒後、史奈は赤い顔のまま、「ありがとうございます」と呟いた。彩香は密かに安堵のため息をついた。



 雨足が少し、強くなったようだった。

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