彼女への疑惑。(一)
しとしとと、今日は朝から雨が降りつづいている。
窓を叩く雨の音に混じって、紙をめくるさらさらと乾いた音が部屋中に響き渡る。
白い長机がいくつも置いてある洋間の会議室や執筆室とは打ってかわって、こちらは床の間まで完備された純和風の畳部屋である。窓だけは、マンションにある和室と同じようなガラス張り仕様だが。
大きな机を囲み、黙々と作業を続けているのは五名の職員たちだった。皆揃いの瑠璃紺の隊服を着て、赤ペンを片手に次々と手元の紙束を繰っていく。
普段この部屋にいるのは四名の精鋭たちである。が、頭数がいつもより一つ多いのは、この降りしきる雨が影響していた。
「佐久間先輩、依頼分終わりましたー」
一通り赤を入れ終わって首をコキコキと鳴らす少女。
ゲリラ販売が雨天中止となり、暇を持て余していた望月史奈である。
「ありがとう、助かったわ」
端一番上座に座っていた女性――佐久間琴音は、顔を上げて史奈の方を見た。彼女が大あくびをかましながら身を乗り出して、原稿の束を手渡す。
「副隊長から聞いてはいたけど、本当に早いのね」
「いえいえ。他にはなにか、あります?」
琴音は自分の目が、一瞬泳ぐのを自覚した。
「あ、無いならないでいいんですよ。他の仕事してきますから」
敏い史奈が気づかぬはずがない。結局琴音は当たり障りのない受け答えしかできずに終わる。
「そう……? 沢山してもらって、悪かったわね」
「全然ですー。じゃ」
そのまま席を立って、史奈はふらりと姿を消した。
途端に室内を覆っていた緊迫感がふっと緩んだ。
気が緩むとつい口を開きたくなるのは、人間の性というものである。
彼女の後ろ姿をまじまじと見送っていた校正部の三人が、一斉にかしましくなった。
「ねえねえ、望月さんって何者なの?」
「古語と難解漢字だらけの吉田先生の原稿を、あの速さでチェックするなんて」
「慣れてるあたし達より早くない?」
「普通じゃないよね。纏ってる雰囲気もさ」
「分かる。なんかミステリアスというか」
「隊長たちとも仲いいみたいだし」
「校正あんなに早いのに、どうしてうちとか編集部じゃなくて剣士なんだろうね」
「さあ……販売も上手いって聞いたけど」
「あたしこの間、ネット戦略部の人から聞いたんだけどね」
「え、なになに?」
「実は望月さんって――」
「あーんーたーたーちー」
琴音はわざとらしく低めの声で窘めた。ざわめきがピタリと止まる。
「自分の仕事も終わらないうちから噂話に花が咲くなんて大したものね。人の凄さに舌を巻くよりも自分たちの進捗をもうちょっと恥じたらどうなの?」
『申し訳ございませんでした!』
おしゃべり好きなのは困りものだが、基本的に根は素直ないい子たちだ。一体誰に似たのかと問われれば、琴音は一も二もなく今ここにいない校正部のトップの名前を上げるだろう。
常に校正部の代表代行のような役割を担わされている彼女は、いない人間を思ってため息をつく。
(それにしても……)
つ、と彼女が消えた引き戸に目をやる。
雨に紛れるようにして消えた、史奈。
非の打ち所がない彼女は一体、何者なのだろうか。
* * * * *
一雨ごとに秋を連れてくる、穏やかな音。
黒髪をかんざしでまとめた少女が、それを聞きながらゆったりとした足取りで彰考会の廊下を歩いていた。
「小雨、霧雨、小糠雨。秋霖、時雨、涙雨。私雨に遣らずの雨……」
彼女は歌うように口ずさむ。お盆に載せた湯呑みの中の緑茶が、それに合わせて静かに揺れる。
校正部の部長を兼任する、彰考会副隊長、和泉彩香である。
「なんていうのかしら。この、奥ゆかしいというか。雨にこれだけの名前をつけちゃうセンスが、堪らないのよねえ…………あら?」
道路に面したその廊下で、彼女は一人雨に右腕を差し出す不思議な人影を見つけた。
物憂げな瞳に映るのは、指から滴る雨の色か。頬を載せた左腕は重たそうに顔を支えている。
後ろで無造作に束ねた髪からはみ出したひと房が、頬にかかっている。それをどけようともしない。
人影、望月史奈の姿が何故か気にかかった彩香は、思わず足を止めて首をかしげる。
「何をしてるのかしら」
気になりだしたら止まらない。『お茶会女王』の異名を持つ彼女の好奇心と噂話好きは、彰考会員誰もが知るところである。
彼女はいそいそとお盆を持って、史奈の元へと急いだ。
「ふーみーちゃん!」
体が硬直したのはきっと、見間違いではあるまい。何食わぬ顔を装った史奈の顔に動揺が走ったのを、彩香は見逃さなかった。
「あらま副隊長。お疲れ様ですー」
「お疲れ様。どうしたの? こんな所で」
「急遽路販が中止になって、やることなくなっちゃって。次の仕事をするまでの、ちょっと休憩といいますか」
仕事が早いと噂の彼女のことだ。自分の代わりにあてがった校正部の仕事は片付けたのだろうと見当をつけた。
史奈はその濡れた手を雨の中から引き抜いた。懐にしまってあった手ぬぐいで丁寧に手を拭く。
「ねえ、その雨に当たるの、楽しい? 私もやろうかしら」
自分でも何故そんなことを言ったのだろう、と思ったが、それしか話しかける言葉が他に思いつかなかった。
聞きたい事は別にあったはずなのに。
「楽しい……? 別に楽しくは……いや」
史奈はぶつぶつと言いながら曖昧に笑う。
何故か彩香にはその表情が痛々しく映った。
「そうだ、ふみちゃん。ちょうど良かったわ。暇ならあたしに付き合ってくれない?」
「……いいですけど」
史奈は濡れた手を窓枠から引っ込める。彼女は上衣の懐にしまったハンカチを取り出した。
自分の手を拭きながら、歩き出した自分の後ろをひょこひょことついて歩く史奈。「何に」付き合うのかなど、言われなくても分かっているという風だ。
彰考会の一角、資料室と呼ばれる部屋へ向かう。隊員たちから密かに『お茶室』と呼ばれているそこは、副隊長御用達のサボり部屋である。
「仕事を佐久間先輩に押し付けといて、自分はこんな所でサボってるんだからいただけないなあ、副隊長は」
「やるべき事はちゃんとやってるわよ。私の仕事は紙面上のことだけじゃなくってよ」
「どうせ隊員の心のケアとか言いつつ自分がお茶菓子食べたいだけでしょー」
「まあ、否定はしないわね」
彩香は鍵を開け、どうぞ、と招き入れる。
長く保管された本独特の匂いが鼻をくすぐった。史奈と入るのは初めてか、などと考えながら、彩香は奥へと進んでいく。
資料室という名の通り、そこは図書室と言っても過言ではないつくりをしている部屋だ。たくさんの本棚に、ジャンル別にきちんと分類されている日本語書籍たち、あるいは有名な洋書もある程度おいてある。それからもちろん、今まで刊行された色とりどりの「あさの葉」バックナンバーも全冊揃っていた。
一番奥まった場所、本物の図書室ならそこに自習机が置いてありそうなポジションには二枚の畳が敷いてあった。小さなちゃぶ台と給湯器やらお盆やら、いわゆる「お茶グッズ」が完備されている。
「はい、じゃあ、お茶しよ?」
「完備され過ぎでしょ……ていうか、今どこから出してきたんですかそのわらび餅。ここにありませんでしたよね?」
「ナ・イ・ショ」
わざとおどけた口調で言いながら、彩香は備え付けられた小さな流しへ立って急須で緑茶を淹れた。視線から呆れられているのには気がついたが、どこ吹く風とばかりに無視した。
ちなみに、自分の上衣の袂がずっしりと茶菓子で膨れていることは、彩香だけの秘密である。わらび餅はさっき隠したばかりの代物だ。
「ふみちゃんはわらび餅、好き?」
「大好きってほどじゃないけど、嫌いじゃないですかね。副隊長は和菓子全般がお好きでしたよね?」
「和菓子はもちろんだけど、意外と洋菓子も好きなのよ」
「あら、それは初耳」
史奈がぱちくりと瞬きを繰り返す。そんな表情もできるのか、と彩香は少し以外に思った。
「ええ。だからふみちゃんも、オススメのお菓子があったら教えてね」
「わかりました。今度販売に出た時に美味しそうなのがあったら、買ってきてあげます」
「楽しみ! 約束よ」
彩香は大袈裟なくらいに手を叩いて喜んだ。史奈もつられて少し口角を上げた。
「はい、どうぞ」
差し出されたお茶を、史奈は会釈をして受け取った。
静かな場所に雨の音が響く。
一杯のお茶が心を緩めていく。
どちらともなくほう、というため息をついて、顔を見合わせて苦笑した。
「最近、どう?」
「どうって……また曖昧な聞き方ですねえ。一体どれの事ですか?」
史奈がここまで問答に詰まる相手は、おそらく自分くらいのものだろう、と彩香は思う。追求の鬼と畏れられる、あの名和優介相手でさえ、立板に水で説明を繰り出す史奈である。
最も彼女に言わせれば、『曖昧なことをアバウトに聞かれるよりも聞かれているポイントがはっきりしている方が答えやすい』ということになるらしいのだが。
「練習よ、練習。ちょっとは、使えるようになった?」
「……………………ああ、それの話かあ」
長い沈黙と史奈の苦虫を噛み潰したような表情を見て、彩香は察した。彼女が余りにも険しい顔をするので、思わず笑ってしまう。
「もう、そんな笑わないでくださいよ。こっちは真面目なんですけど」
「ははは、ごめんごめん。その顔は、あんまり芳しくないかぁ、と思ってさ」
「芳しくないどころか、散々ですよ。最近は教本のみならず、英文の書いてある本の表紙だけで吐き気が」
余程重症のようだ。さすがに可哀想になってくるが、自分の一存で「やめちゃいなよ」と簡単に言ってあげられる事柄でもない。つまりは、どうしようもない。
「大体、あたしは日本人なんですよ。英語なんて読めなくても書けなくても話せなくても、日本語だけ自由に扱えれば十分です」
「まあた、そんな意地張っちゃって。実際、外でロクに買い物もできない人が何言ってるの」
「そんなの誰かに代行させますから、困るうちに入りません」
「たかだかコーヒー一杯も飲めなくて我慢してたのに?」
史奈はぐっと言葉をつまらせた。
ついでにわらび餅を喉に詰まらせて盛大にむせた。
「ほらほら、お茶飲んで。近くに後輩ちゃんがいてよかったじゃないの」
「……げほっ……あれは後輩というか、まあ……はい」
よほど苦しかったようだ。涙目になった史奈が差し出された湯呑みを呷ってぜえはあと息をつく。
彩香は史奈の背中をさすりながら、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「別に意地悪がしたくて言ってるんじゃないのよ? 隊長もあたしも」
「……分かってます」
不貞腐れた史奈を見て、大きくため息をつきながら彩香も湯呑みの茶を一口啜る。
「昔は私だって、英語をある程度話してたような気がするんだけどなあ……」
「そのへんのこと、まるっと忘れて思い出せないんだからしょうがないわよ」
そうなんですけどね? と言いながら、史奈の指がトントンと机を叩いている。その仕草から、彼女が相当のストレスを抱えているであろうことが伺えた。
「きっとひょんなことから思い出すわ。それこそ、英語ができるようになったら、とかね。意外と些細なきっかけだったりするよ、たぶん」
「英語の方も進まないし、コレのことも思い出せないし。ホント進展してるのかなって、気持ちばっかり焦って……焦ってもいい事ないっていうのは、言い聞かせてるつもりなんですけどね」
史奈が懐に手を入れた。取り出したのは、一本の万年筆だった。