彼女は後輩に語られる。
ベージュのマントにコーヒーのシミが広がった。
「わ、わあ! ごめんなさい、そ、そんなに驚かすつもりじゃ……」
「……あー、いいよ、いや、よくないけど……これはまあ、仕方ないからクリーニング出すとして」
コーヒーのシミが落ちにくいことくらい、家事が不得手な唯子でも知っている。半泣きになった唯子が、かばんに入っていたウェットティッシュでパタパタとマントをはたいた。
「いや、それはともかく。なんで私に尻尾が生えていると思ったんだい、ゆいこちゃんは。あたしは獣人か? 非人類だったのか?」
呆れ口調の史奈に、目をうるませた児島が言う。
「という事は、ちゃんと人間なんですね……尻尾、ないんですね……?」
「尻尾もなけりゃぴょこんとしたお耳もついてないよ、残念ながらね。あったらかわいいとは思うけど」
良かったあ……と心底安堵の表情を浮かべる児島に、「だから何が?」と怪訝そうな眼差しが向けられた。
「昨日、はるちゃん……あ、ネット戦略部志望の研修生で、私のお友達なんですけど……その子が」
* * * * *
「ねえゆいこ、あんたの望月さん好きは今に始まったことじゃないのは知ってるんだけどさ……あの人に、あんまり近づかない方がいいと思うよ」
「どうして?」
それはちょうど廊下で行きあった時だった。唯子は掃除を終えて帰るところで、友人はネット戦略部の実習を終えて帰るところだった。
お疲れ様と、言葉を交わす。
そこまではいつも通りだったのだ。
それなのに、「そうだ」と思い出したように呟いた後の彼女の言葉が辛辣な響きを含んでいて、それが少しショックで。
「こないだあたし、聞いちゃったんだ。望月さんのこと」
「な、にを?」
夕日に照らされる彼女の横顔はやけにコントラストがはっきりしていた。
もったいぶる彼女に、嫌な予感が過ぎる。
「守秘義務ってやつで、詳しくは言えないけど……ネット戦略部の日野主任を始めとした先輩たちがみんなで、彼女の尻尾を捕まえようと躍起になってる」
「しっ、ぽ……」
愕然とする唯子に、友人はうん、と一つ頷く。
「そ。あの人、怪しいじゃん、なんか。色々有能だし。研修生期間めっちゃ短いまま、剣士になって本隊入っちゃうし。普通だったらあり得ない、バケモノだってみんな噂してるよ」
「……」
「そういう事だから。ま、せめて気をつけなよ」
「しっぽ……」
やたら得意げな顔の友人が言う真意が、唯子にはまるで理解出来なかった。
あの人の何が、おかしいというのだろう。史奈が多才なのは、ひとえに彼女の努力の賜物である。唯子は知っている。彼女の弁論がいかにはっきりした根拠を持っているか。いかに博識で、行う仕事がどれほど丁寧なのかも。
それをバケモノなどと言いがかりをつけて、追いやる。ただの僻みではないか。
史奈の努力を踏みにじるような言い方は、誰であっても許したくない。
だから彼女は、こう叫んだ。
「望月さんには尻尾なんか、生えてないもん!!」
「……は?」
「あの人はバケモノなんかじゃない。尻尾なんか生えてない!」
「……ゆいこ…………? なんかあんた、勘違いしてない?」
「明日休みだから。ちょうどいいよ、本人に直接確かめてきてあげる。明後日報告会ね!」
狂気に近いものをはらんだ目をして、憤然と靴を履いて走り去る。置き去りにされた友人が、一生懸命誤解を解こうと説明しかけていたことなど……唯子はもちろん、知る由も無かった。
* * * * *
話を聞き終えた史奈が、再度コーヒーを噴きそうになった。
「……あのさあ、ゆいこちゃん」
「はい」
「前々から思ってたんだけど、あなたさ、かなりのおっちょこちょいだよね。早とちりというか」
「なっ!」
そんでもって鈍感、と不名誉な称号がどんどんと付け足されていく。目標と仰ぐ人からのその言葉は、唯子の心を的確に抉った。
「ゆいこちゃんは、食わず嫌いしないで推理小説系とか、警察物も読んでみるといいと思う」
「はあ……?」
「まああたしにとっては、それくらいが有難いけどさあ……ふうん、日野先輩ね、覚えとく」
意味深な呟きを残す史奈には気付かず、唯子はひたすら落ち込んでいた。おっちょこちょい、早とちり、鈍感。しょっちゅう実の親からも言われる事を、面と向かって史奈に言われた。
「どうせあたしは馬鹿の間抜けなんです……いつも見当違いな方向にいっちゃうんです……」
「凹むな凹むな。せっかくの美味しいカフェラテが不味くなるぞー」
それは嫌だったので、落ち込むのは飲み終わってからにしようと思った。慌てて唯子はカップに口をつける。いや、急かすとか、そういうつもりじゃなかったんだけど、と史奈がまたくつくつと笑うので、唯子は少々不貞腐れた。
風が二人の髪を揺らす。湿度の多い夏のそれとは違って、もっとからっと乾いた涼しいものだった。
秋の風物詩は落ち葉といえど、俯いた唯子の視界にそれはない。まだ青々とした葉が紅くなって足元へ運ばれてくるのには、もう少し時間がかかりそうだった。
「ねえゆいこちゃん」
「なんでしょう……」
ようやく笑いを収めた史奈の声が、ほんの少し真面目な色を帯びていて、あまり立ち直る気になれないながらも精一杯の返事をする。
「ゆいこちゃんはさ……なんで、彰考会に入ろうと思ったの?」
「なんで……ですか?」
珍しい事を聞くなあ、と唯子は思った。彰考会に属する人は皆、本が好きだから彰考会に入るものだとばかり思っていたからだ。その理由を尋ねられる事があるとは、思ってもみなかった。
「な、なんでって、それはやっぱり、本が好きだからですけど……」
「でも、それなら別に、普通の出版社でもいいよね?」
「あ……そっか……」
考えてもみなかった、と唯子は少し唸る。
「そうですね、でも、きっかけはたぶん……おにいちゃ、いや、えっと、兄、ですかね……」
「お兄さん?」
「はい。歳の離れた兄がいまして。両親が忙しかったので、いつもあたしの面倒は兄が見てくれていたんです」
唯子はふっと自分の頬が緩むのを感じた。兄の話をする時は大抵こうだ。ブラコンと言われても仕方がないという自覚はある。
「兄がいつも読み聞かせしてくれる、決まった本があったんです。『いすずの夏祭り』っていうんですけど」
「あ、知ってる」
「本当ですか!」
ぱっと顔を上げて史奈を見た。
「この間図書館でちらっとめくっただけなんだけど。ちゃんとは読んでないんだ」
「あ、そうでしたか……」
目に見えて落ち込んだ唯子を気遣ったのか、史奈が慌てて言い添えた。
「綺麗な絵だよね。夜の花火の景色とか、燃える舟が美しいというか」
「はい。すごく好きなんです……古い絵本なんですけど。絵本とはいえ、中身はちょっと子どもには難しいというか、んーと、大人向け絵本みたいな感じでしょうか」
唯子は中身を反芻しながら言葉を紡いだ。
唯子が大好きな『いすずの夏祭り』は、病気になって命を落とす寸前だった少女「五十鈴」が、同じ名を持つ「弥涼」という狐の神様に拾われて憑依され、ひと夏を共に過ごす物語だ。
いまではもう、実物を見ることの叶わない盆行事「舟流し」。
それを見に行く二人の「いすず」。脈々と受け継がれてきたその行事に、二人が抱いた想いを繊細に描き出す、文の表現も絵も非常に美しい絵本である。
「ああ、分かるかも。あれ元々『日本四季織物語』に収められてる一話のリメイクだっていう説があるみたいよ。似てる点がいっぱいあるって、館長さんが言ってた」
「そうなんですか?」
「あ、もしかして読んだことない? あれは四巻ともオススメだよ。ぱらっとでも、めくってみたら面白いと思う」
日本四季織物語とは、春夏秋冬の四冊からなる日本語で書かれた書籍である。
作者がそれぞれの短編ごとに異なるアンソロジー本だ。神話伝承を下敷きにしたものから服飾や食文化を扱ったものまで、そのジャンルも様々である。何年前に刷られたものなのかも分からず、またそれらの作者の名前は編纂者を含め一切資料の残っていない謎多き書籍でありながら、日本語書籍の貴重な資料として図書館では書庫扱いの本となっている。
「目を惹かれる一文があったなあ。『そなたの声は鈴を転がしたような良き音色だな』だったかな。五十鈴の名前にかけてるんだろうけど、彼女を大事に思ってるんだなあっていうのがすごく伝わってきて」
「あたしもそこ、すっごく好きです!」
流石は彼女、流し読みのレベルが違う。唯子は尊敬の眼差しを史奈に向けた。
四季織物語の方を唯子は知らないが、今度絶対読もうと心に決めた。なにせ史奈のオススメ作品だ。そして、自分の原点になった作品だ。唯子は心の中で大きく頷く。
「その話が好きだったから、彰考会に?」
「ざっくり言えばそうなんですけど……ちょっと横道に逸れるようなんですが、『くれなゐ堂』って、ご存知ですか」
「いや……でもどこかで聴いたことあるような」
史奈が首をかしげる様子を、ちょっと愉快な気持ちで唯子は眺めた。
ヒントを出してみる。
「しょっちゅう事務所のお茶うけで見ますよ。五つの鈴が円形に並んでるマークの」
史奈が何かに気づいたようだ。ああ、と顔を上げて、唯子に向けて得意そうに微笑む。
「和菓子屋さんだ!」
「はい。彰考会で出る和菓子はほとんど、『くれなゐ堂』で作っているものなんですよ。そこ、あたしの実家です。うち、和菓子屋なんですよ」
「なるほど、だから彰考会では手に入りくい和菓子がしょっちゅう食べられたのね」
世の中の風潮がそうさせたのか、和菓子業界はいま日本で最も閑散としている産業のうちの一つである。
毎度どこで調達してくるのだろうと疑問に思っている会員も多いだろうが、史奈もそのうちの一人だったようだ。
「今日の和菓子、めちゃくちゃ美味しかったんだよ。見た目も綺麗で思わず観察しちゃった」
「ありがとうございます。ちなみに、どんなのでした?」
「うーんとね、あんこが柔らかい皮に包まれてて、花火の模様みたいなのがかかれてるやつ」
「それたぶん、うちの名物『いすず花火』ですよ」
はたと何かが繋がったような表情の史奈を見て、唯子は胸がつまるような高揚感に襲われる。
この話を自分の口から誰かにするのは、初めてだった。
「言い伝えでは、『いすず』さんという方がうちの創始者なのだそうです。その方が最初に作ったのが、『いすず花火』という和菓子。花火が大好きで、その赤を『くれなゐ』という名前で表現して店名にした『いすず』さんが一番に作ったお菓子だったとか」
史奈は真剣な眼差しで唯子の話を聞いていた。理由もなく緊張する。周りの時が止まったような、そんな錯覚に陥る。
「絵本は、絵をかくのが趣味だった先々代が、口伝でしか伝えられていなかったうちの伝承を、色々足してかきおこしたものなんです。もし似た話が日本四季織物語に収められているとすれば、『いすず』さんは実在した人物なのかもしれませんね」
自分でも理由は分からなかったが、誇らしい気持ちが奥底から湧いてきた。目を丸くする史奈に、「すごいでしょ?」と自慢したくなるような。
気後れはいつしか消えていた。この物語を知るのは自分だけだ。伝えられるのも、自分だけだ。
すらすらと水を得た魚になって、唯子の言葉が踊り出す。
「あたしは小さい頃、なんで『くれなゐ堂』のマークが五つの鈴から出来ているのか、ずっと不思議に思っていました。でも、その絵本を兄が読み聞かせてくれて、文字の読み書きも教えてくれて、気づいたんです」
きちんとした記述が残らない今では、憶測でしかないけれど。
「五個の鈴のマークは、五十鈴さんの名前から取ったんじゃないかなって」
兄以外には、この話を言ってみたことがなかった。小さい頃は漢字を知っている友人は少なかったし、話したところで共感してくれる人もいなかった。なんでも「そうかもね」と笑ってくれる兄は、自分がその話をした時にとってもいい笑顔で頭を撫でてくれたのを鮮明に覚えている。
「日本語を文字にすると、面白いくらいに色々なことが見えてきます。意味を特定したり、逆に世界を広げたり。屋号の『くれなゐ堂』がもし漢字の『紅堂』だったら風情は半減ですし、『くれない堂』でも奥ゆかしさが減っちゃいます。アルファベットの『KURENAI-DOU』とかはもっての外ですけど。書体だけじゃなくて文字の種類で雰囲気を使い分けるって、実は凄いことなんじゃないかと思うんです」
書くことが自分の世界を広げてくれた。新しい色と出逢わせてくれた。それがどんなに幸せで、心弾むことか。知らなければ、知らないままだった。
「あたしは跡を継ぐ必要がなかったから、どうせならその、書き言葉を大切にする文化を守っていけたらなと思って。文章そのものを書くのは、ちょっとハードルが高そうで無理かなと思ったんですけど、せっかく彰考会に入るなら物語の魅力を伝えられる人になりたいと――」
何気なく視線を史奈の顔に戻して、気がついた。彼女の顔がオレンジ色に染まっていたのだ。
史奈が頷きながら聞いてくれる様が視界に入っていたので、調子に乗って喋りすぎた。あっという間に夕方だ。唯子の背中を冷や汗が滑る。
「ご、ごめんなさい! あたしとしたことが、つい、しゃべりすぎて……」
「いいよいいよ。面白い話を聞かせてもらった」
穏やかな表情の史奈が、冷めきったコーヒーの最後を飲み干して伸びをした。
「ふ、不快では無かったですか?」
「ぜんぜん? すごく、素敵な理由だと思うよ」
「そうでしょう、か」
史奈がもう一つ何か呟いた気がしたが、それは聞き取れなかった。
「ゆいこちゃんとペア組める日が楽しみだなあ」
「そ、そ、そんな日が、く、来るでしょうか」
「なんでそんなどもるのよ。来る来る。絶対来る。楽しみにしてる」
史奈が笑う。つられて唯子もぎこちなく笑う。
根拠もなく、大丈夫だと。何故かは分からないけれど、そう思えた。
「……頑張ります!」
一呼吸置いて、唯子は声高らかに宣言する。
夕闇に染まりつつある公園に、二人の影が長く伸びていた。
* * * * *
「それで、ですね。そうやって文字で繋がりを追っていくと、実はうちの創始者って言われる『いすず』さんはお狐様の『弥涼』さんの方じゃないのか? とか、思うわけですよ。人間の五十鈴さんの方が絶対命が短いですよね。もしそうだとしたら、弥涼さんは彼女がいなくなってもずっと語り継がれるようにそのマークを作ったんじゃないかとか、色々妄想が膨らむわけですよご馳走様です!!」
「じ……自己完結ありがとう……」
普段は引っ込み思案の唯子であるが、語り出すとつい前のめりになって饒舌になってしまう。
二人が帰る頃にはすっかりあたりが暗くなっていたことは……また別の話。
そして翌日「やっぱり尻尾生えてなかったよ!」と友人に報告したのだが、「もういいよ好きにしたら」と呆れられたのも……また別の話。